2:高校一年<16歳> 接近

 高校生活も半年以上が過ぎ、朝晩はすっかり冷え込むようになっていた。油断をしたつもりはないのだけれど、その日は朝から体調の悪さを感じていた。

 失態だ。

 皆勤賞を狙っているわけではないが、できるだけ学校を休みたくない。休んだ日に授業で重要な内容をやっていたら、それを取り戻すためにいつも以上の労力がかかるだろう。

 それにクラスメートにノートのコピーをもらうなどしたら、借りを作るのことになる。貸しを作るの分にはいいのだ。けれど借りを作ると、弱みを握られた気分になって居心地が悪い。

 借りを返そうにもその対価がはっきりしない。「気にしなくていいよ」と言われたとしても、私にはそれが本心なのかわからない。だから余計に心労を増やすことになる。

 何より学校を休むこと自体に罪悪感があった。

 だが幸いなことに熱はそれほど高くなさそうだ。数値で確認したくなかったので測らなかったが、感覚的には問題なく学校に行けそうな気がした。

 それに今日は金曜日だ。今週の土曜は学校に出る用事もない。今日一日がんばれば、土日にゆっくりと体を休められる。

 私はいつもより少し厚着をして家を出た。

 普段よりも歩くスピードが遅く、一本遅い電車になってしまったが、時間には余裕があるので問題ない。問題だったのはその電車の混み具合だった。

 いつもの電車も通勤通学でかなり混んでいると思っていたのだが、それが私の認識違いであることを痛感した。一本違うだけでこれほどの違いがあると知れたのはいい勉強になった。次からは気を付けよう。

 だか今日の体調ではそんな呑気なことも言っていられない。人の多さで淀んだ空気。こもった熱気。常に押しつぶされる圧迫感。電車の揺れ。それらが否応なく私の体力をガリガリと奪っていく。厚着をしていたこともマイナスに働いたのかもしれない。

 私はひどいめまいと吐き気に襲われ耐えきれなくなった。仕方なく途中下車をして、体力が回復するまで待つことにした。

 駅のホームでベンチに腰掛ける。ひんやりとした風が頬に当たるのが心地よく、胸のムカつきも幾分か治まったような気がする。だが次の瞬間には背筋に悪寒が走りはじめた。電車内でかいた汗が冷えたのか、本格的に熱が出はじめたのか、ともかく座っていることすらきつくなってきた。

 電車を一本、二本と見送りながら、家に引き返すか学校に向かうかを考える。学校に行ったとしても完全に遅刻だ。無理をして学校に行ったところで授業に集中できるとも思えなかった。だけど私は家に引き返す決断ができずにいた。

 クラスメートに借り作るかもというのは、遅刻の時点ですでに発生してしまっているのでどうしようもない。それに体調不良なのだから学校に行けなくても仕方がない。それはわかっているのだけれどどうしても罪悪感がぬぐえない。

 罪悪感を抱いたまま家に戻るよりも、一旦学校に行って行ったという事実を作った方が精神的に良いような気がした。おそらくは担任の先生か養護教諭かに家に帰るように言われるはずだ。そうすれば私の意志とは関係なく、学校を休まざるを得ないという状況が作れる。

 我ながら面倒な性格だとは思うのだけれど、そうしなければ落ち着かない。

 次の電車に乗ろうと決めて電車を待っていると、目の前を見覚えのある姿が横切った。

「塩原ナナ」

 私は思わずその人物の名前をつぶやいてしまう。最初の実力テストの発表以来接したことはなかったが、その存在を忘れることはできなかった。

 ナナは足を止めて私を見る。

「アンタ、誰だ?」

 ナナは私のことなど全く覚えていなかった。一度話しただけの相手を忘れてしまうのは仕方の無いことかもしれない。しかしナナに認識されていなかったことを悔しいと感じてしまう。

「塩原さんの隣のクラスの森内セイラ」

 私は憮然として答えた。自慢ではないが私もそこそこ有名人だと思う。テストではいつも上位だしクラス委員もやっている。来年は生徒会に立候補しないかとの打診も受けている。

 けれどナナはそんなことに興味などないのだろう。あのとき言葉を交わしたことすら覚えていないのかもしれない。

「どうしてアタシの名前を知ってるんだ?」

「同じ学校でしょう」

「何人生徒がいると思ってるんだよ。もしかしてお前、全員の名前知ってるのか?」

 いくらなんでもさすがにそれはない。ナナは自分が学校の中でも悪い意味で目立つ存在だということを知らないのだろうか。少なくとも私の周りにナナの名前を知らない人はいない。

「塩原さんは悪目立ちしているのよ」

 私がそう言うとナナは少し首を傾げた。やはり自覚がないようだ。

「こんな時間から学校に行くの?」

「まあな。おまえもサボりか?」

「そんなことあるはずないでしょう。体調が悪くて休んでたのよ。次の電車で行くわ」

「そっか……じゃあ、アタシは帰ろうかな」

「どうしてそうなるの?」

「なんか眠いし、もういいかなって……」

 私は無性に腹が立った。私は体が辛くても登校しなければと思っているのに、目の前の女は飄々として平気で休もうとしている。

 私が登校するのは私の勝手だし、ナナが休むのはナナの勝手だ。別に腹を立てるようなことじゃない。頭の隅ではそう思っているのに、お腹の深い部分から湧いてくるような苛立ちを押さえることができない。

 ナナは最初のテスト以降も五十位以内に名前を連ねていた。自由奔放を気取ってテストで成績も上げる。人の目も気にせず思い付きで行動する。

 私が成績をキープして、友だちや先生の評判を落とさないためにどれだけがんばっているかなんて知りもしないだろう。

 平穏な日々のために必死でがんばっている私よりも、好き勝手しているナナの方が楽しく幸せそうに見えるのが悔しい。

「ちゃんと学校に行きなさいよ!」

 私は立ち上がり、本当に帰ろうとしているナナの腕を取った。だが、急に立ち上がったせいか目の前が真っ暗になってしまった。



 目を開けると目の前に壁のようなものが迫っていた。思わず驚いて息をのむ。

「あ、目が覚めましたか?」

 落ち着いた男性の声が聞こえた。私はさらに驚いて身を硬くした。

「驚かせてしまいましたか、すみません」

 男性の声がやさしいことに気付き、私はその姿を確認する。白髪交じりで、目尻に笑いジワをくっきりと浮かばせるおじさんだった。

 その姿に少し安心して私は辺りを見回す。どうやら私は二段ベッドの一段目に寝かされていたようだ。壁だと思ったのは上段の底面だった。

 部屋は私の六畳の部屋よりも狭く感じる。そこに小さな勉強机が二つ。一つは物置のような有様で、もう一つはきれいに片付いている。そして床には、おもちゃや絵本、漫画などが散乱していた。散らばっているものに統一感はなく、まるでたくさんの子どもたちが好き勝手に遊んだ跡のように見えた。

「えっと……」

 私はここに寝かされていたということは分かったが、ここがどこで、どうしてこの場所にいるのかは思い出せない。

「森内さんは、駅で倒れたんだよ」

 おじさんがどうして私の名前を知っているのだろうと思いながらも、駅というキーワードを基にして記憶を探った。

 遠のく意識の中で「おい、どうしたんだよ」「熱があるじゃねえか」と叫ぶナナの声を聞いたような気がする。

「えっと、もしかして、塩原さんが?」

 そう尋ねたとき、部屋の扉が乱暴に開け放たれてナナが大股で部屋に入ってきた。

「お、起きたのか」

 そうしてナナはおじさんの隣に座る。

「こらナナ、病人がいるんだからもっと静かにしなさい」

 男性が注意をするが、あまりに声がやさしくて怒っているようには聞こえない。

「えっと……」

 おそらく駅で気を失ってしまった私をナナが運んでくれたということで間違いないだろう。ではこの場所はナナの家で、このおじさんはナナの父親ということだろうか。

「倒れてまで学校に行くとか、どんだけ学校が好きなんだよ」

 ナナはあきれたような顔で言う。

「別に好きなわけじゃない」

「好きじゃないのに、そんなにがんばって学校行くのか? やっぱ優等生は違うな」

 ナナはヘラヘラと笑いながら言う。馬鹿にされているようで腹が立ち、私はナナを睨みつけた。そもそも普通、学校には行くものだ。学校にあまり行かないナナの方がおかしいのだ。

 おじさんは横目でナナをたしなめてから静かな口調で言った。

「ここはナナの家です。あなたが駅で倒れたからって、ナナがここまで運んできたんですよ。それからナナと同じ学校の方だと聞いたので、学校には連絡しておきましたから」

「ありがとう、ございます」

「もう少しここで休んでいきますか?」

「家に帰ります」

「どなたかお迎えに来られる方はいらっしゃいますか?」

「いえ。共働きなので……でも、大丈夫です。もう随分楽になりましたから」

 私はそう言ったのだが、おじさんは心配そうな顔をして、ひげのないあごを指でさすった。もしかしたら以前はひげを生やしていたのかもしれない。

「それじゃあ、ナナ、送ってあげなさい」

「えー、なんでアタシが」

 ナナは不満気な顔を隠そうともせずに言う。

「いえ、私は一人で帰れますから、大丈夫です」

「ほら、こいつもそー言ってるじゃん」

 するとおじさんはちょっと厳しい顔でナナに言う。

「自分のしたことには最後まで責任を持ちなさい」

 すると多少不満のありそうな口ぶりではあったが、ナナは「分かったよ」と言った。ナナが簡単に承諾したこがなんだか意外だった。

 家族の言うことは素直にきくタイプなのかもしれない。不良っぽい言動をしているが、少しかわいいところもあるじゃないかと思った。

 それから少しして私は家に帰ることにした。

 狭い部屋を出ると意外と長い廊下があって驚いた。その廊下にはいくつもの部屋のドアがある。おじさんは「ナナの家」と言っていたが、「家」というようりは「合宿所」のようなイメージだ。

 玄関まで来て、合宿所のようなイメージの理由が分かった。『児童養護施設 てんま園』という札が掛かっていたからだ。そして、おじさんの写真が貼られており、下に園長・塩原耕作という名前もあった。

「塩原?」

 私はつぶやき、少しふてくされたようなナナの横顔を見た。私の視線に気付いたナナは面倒臭そうに口を開く。

「アタシが拾われたとき、身元とか名前とか分からなかったから、おやじの苗字をもらったの。ま、アタシは覚えてないけどな」

 そうしてさも面白いギャグを言ったかのようにケラケラと笑った。

 塩原園長は背中を丸めてため息をつく。

「ナナはこんな調子で学校で大丈夫ですか?」

 私は何と答えていいのか悩む。

「学校も行ったり行かなかったり、遅刻もしてるし。友だちはできたんでしょうかね」

 塩原園長は本当にナナのことを心配しているようだ。

「私は、クラスが違うので……」

「そうですか……」

 がっかりした様子の塩原園長に向かって「友だちなんていらねーだろ」とナナが吐き捨てるように言った。

「今日はご迷惑をおかけしてすみませんでした。どうもありがとうございました」

 私は塩原園長に頭を下げてお礼を言う。

「もしよかったら、また遊びに来てくださいね」

「はい」

 やさしい笑顔で言う塩原園長に私は笑顔で返事をしたが、遊びに来ることはないだろうと思った。

 建物を出て少し歩いたところで私はナナに声を掛ける。

「塩原さん、ここまででいいわよ」

 少し前を歩いていたナナは振り返って首を傾げた。

「お前の家、ここなのか?」

「そんなわけないでしょう」

「だよな」

「一人で帰れるから大丈夫」

「お前のこと家まで送るって約束したからちゃんと送ってくよ」

「約束なんて……」

「約束は、守るものだろう?」

 塩原園長に送るよう言われたときはあんなに嫌そうだったのに、今はまったく気にしていない様子でナナは再び歩みを進めた。

 ナナは両手を頭の上で組んでゆっくりと歩いている。おそらく体調の悪い私のスピードに合わせてくれているのだろう。

 しばらく歩くと「電車だよな?」とナナが聞いた。私は頷く。

「なんか大人しいな? もしかして体キツイのか?」

「え? だ、大丈夫」

「なんだったら、来たときみたいにおんぶしてやってもいいぞ」

 どうやら駅で倒れた私は、ナナに背負われて『てんま園』まで運ばれたようだ。その姿を想像すると赤面してしまう。

「ん? やっぱり顔が赤いな、セイラ、大丈夫か?」

 振り返ったナナは心配そうに私の顔を覗き込み、私の額に手を当てた。さりげなく名前を呼び捨てにされ、さらに額に手を当てられて、私はますます顔が赤くなるのを感じていた。

 学校によく話す友だちはいる。けれどみんな私のことを「森内さん」と呼ぶ。名前を呼び捨てにするのは家族くらいのものだ。馴れ馴れしい呼び方に腹を立ててもいいところかもしれないが、なんだか新鮮で少しくすぐったいような気持ちになった。

「だ、大丈夫だから」

 私は慌ててナナの手を振り払う。

「きつかったら早めに言えよ」

 ナナはそう言うと、またゆっくりと歩き出した。

 私はナナのことがよく分からなくなった。

 ムカつく人だと思うのだけれど、こうしてやさしいところもある。

 駅から『てんま園』まではかなり距離がある。普通に歩けばそれほどでもないが、私を背負って歩くのは随分大変だっただろう。『てんま園』まで運ばなくても、駅員に伝えるだけでも良かったはずだ。どうしてさっきまで名前も知らなかった私のためにそこまでしてくれたのだろう。

 何か思惑があるのだろうかとも思ったが、のんきな顔のナナの横顔を見るとそんな風には思えなかった。

 ナナが何を考えているのかさっぱり分からなかったので、私は少し質問をしてみることにした。ナナが素直に答えるとは思えなかったけれど、黙って歩いているよりはましだろう。

「どうして、私を助けてくれたの?」

「ん?」

 ナナは質問の意味が分からないという顔で振り返った。

「だって、同じ学校でも私の名前すら知らなかったでしょう? 放っておけばいいのに」

「いや、知らない奴だったとしても、目の前で倒れたら助けるだろう? 普通」

 助けるどころか財布だけ抜き取って逃げてしまいそうな見た目のナナは、真っ当なことを当たり前に言う。それがなんだかおかしかった。

 人を見た目で判断してはいけない。そう言われることもあるが、やはり人は人を見た目で判断してしまう。怖そうだとか、やさしそうだとか、冷たそうだとか。けれど見た目の判断だけでその人のすべてを決めつけるのは乱暴だ。

 ナナはどうやら見た目の印象だけで決めつけてはいけないタイプのようだ。

 それならばナナはこの見た目とは違うどんな本性を持っているのだろう。私は少し興味が湧いてさらに質問を続けた。

「さっきの部屋は、塩原さんの部屋なの?」

「ああ、そうだよ」

「机が二つあったけど、二人部屋?」

「前はな。今は一人」

「おもちゃとか絵本とか転がってたけど、あれは塩原さんの?」

「んなわけねーだろ。園のちびどもが遊びに来て散らかしていくんだよ」

 どうやらナナは小さい子たちに慕われているようだ。小さい子には怖がられそうな風貌なのにどうやっているのだろう。面倒見がいいののだろうか。

「どうして学校に来ないの?」

「あー、眠いからだな」

 なんだかとてもシンプルだけどどうしようもない理由に少し呆れる。

「もしかして、塩原園長って、ヒゲ生やしてた?」

「お、よくわかったな。アタシが剃らせたんだ」

「え? どうして?」

「ヒゲ生えてると、マジじじいなんだよ。だから、アタシがあの高校に合格したらヒゲを剃るって賭けたんだ。おやじ、アタシが受かるなんて思ってなかったんだろう」

 ナナは楽しそうに笑って言った。そうだろうか。塩原園長はナナが受かると信じていてその賭けにのったような気がする。

 ナナは約束通り、私を家まで送ってくれた。その間、私がする質問にナナはすべて答えてくれた。

 話しながら帰った道のりは思ったよりも早く感じて、別れるとき少しだけ名残惜しかった。そういえば学校の友だちともこんなに長く話したことはないかもしれない。

 おかげでこれまで顔と名前くらいしか知らなかったナナことが少しだけわかった。

 園では小さな子たちに慕われている面倒見のいいお姉さんだということ。

 文句を言いながらも塩原園長の言うことは素直にきくこと。

 約束は守ること。

 自分から積極的に話すことはしないけれど、聞いたことにはちゃんと答えてくれること。

 ナナのことはやっぱりムカつくと思うし嫌いなタイプだ。だけど少しだけ認識を改めてもいいかもしれないと思った。

 だからといって、それから私たちが仲良くなることはなかった。

 ナナは遅刻や欠席が多いため、学校で顔を合わせること自体が少ない。その上クラスが違うので、顔を合わせる頻度は非常に下がる。

 積極的に会いに行こうとでも思わない限り、そうそう顔を合わせることはないのだ。もちろん会いに行く理由もない。

 それでもなぜか少しだけナナのことが気になって、姿を見かけると「ちゃんと学校に来たら?」とか「また遅刻したの?」と声を掛けることもあった。

 そんなときナナは、面倒臭そうに「へーへー」なんて言いながら、私の言葉を聞き流すばかりだった。

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