マスクをしてください
朝、顔を洗おうと洗面所に向かい、寝ぼけ眼で冷たい水を顔に当てた瞬間、顔の下半分が消失していることに気付いた。
顎や口、ほほ骨の感覚がまるっと無くなっている。
鏡に目をやる。上半分はいつもの顔だ。髪も寝ぐせは付いているが普段と同じ。だが喉仏から鼻の頭にかけて、不自然にのっぺりとした肌で覆われ、感覚がない。
何がどうなっているんだ。
そう口に出したつもりだった。だが音は出ていない。口がない以上、声として発されるわけがないのだが、それでも普段発せるはずの音がないのは困惑するしかない。
しばらく何か音を発せないか苦戦して、鼻の穴もないことに気が付いた。
なぜ呼吸が出来ているのだろう。目が覚めてから半時間は経つ。息は続かない方だ、呼吸していなければとっくに死んでいるはずだ。
それに先ほどから空腹感もない。まだ何も口にしていないが、のどの渇きすらどこかに行ってしまったようだ。
指で肌を上方向になぞる。鎖骨から喉仏へ。そして一切の凸凹を感じることもなく、目頭へ。触れた感覚もおかしければ、それを鏡で見る私も滑稽だ。犬や猫が水面に映る自分に驚いている映像と同じではないか。
もしかしたら、私の顔から下半分が、愛想を尽かして出て行ったのかもしれない。
外に出ればマスクに覆われ、ろくな食い物も味あわず、嗅ぐのは自分の屁と部屋のこもった匂いばかり。ついにそんな生活に嫌気がさし、夜のうちにこっそりと我が家を抜け出した、そうは考えられないだろうか。
いやいや、そんな馬鹿な話があってたまるか。残った顔の上半分で否定する。
非現実的なことが起きたからと言って、理由まで非現実的なわけがない。何かしら真っ当な理由があるはずだ。
そうだ、何かの記事で見たことがある。自分の体の一部を失認してしまう事例を。そこにあるのにないと脳が思い込んでしまうとか、神経や血管の異常で、視神経が麻痺して認識できないとか、そういう事例だ。そしてそれらを紹介する記事の最後には必ず書いてあるではないか。違和感があればお近くの病院へ、と。
ならまずは医者だ、医者。そう近所の医者を調べようとして、再び手が止まる。
ありのままを伝えるしかないとして、果たしてどこに声をかければいいのだろう。歯科は論外だとしても、耳鼻科に行っても不審がられるだけかもしれない。朝起きたら鼻が無くなっていたのですが、と医者に聞くわけにもいくまい。
精神科にかかり、何か抗うつ薬でも処方されたところで、消えた顔の下半分が生えてくるとは到底思えない。
脳神経医科が一番取り合ってくれそうだが、口がなく電話越しに確認することも出来ない今、どう説明すればよいのか。
こうなったら飛び込みで見てもらうしかない。早速検索して、最寄り駅の数駅先に評判のよさそうな医者を見つけた。電車に乗るのは数分、通勤方面とは逆方向だしこの時間人は少ないだろう。職場にはチャットで連絡だけ入れておけばいい。
外に出ようとして、箱の中のマスクを手に取ってつけようと苦闘したが、上手くいくはずもないことが分かった。顎もなければ鼻もない、引っかける場所がない以上、マスクはハンモックのようにぶらぶらと揺れるだけだ。みっともないので外すことにした。
最寄り駅まで徒歩五分。道には不自然なほど人がいない。普段空いている店もシャッターを下ろしているか、店内の電気がない。通り沿いのコンビニは営業していたが、人影は見えない。まあそちらの方が好都合だ。好奇心や不審な目も向けられたくはない。
無人の改札を通って、普段の逆のホームに降りる。電車はあと二分後に来るらしい。コートの襟もとを立てて、口元を隠すようにする。正面にでも立たなければわかりはしない。
やってきた電車に、すっと乗り込む。思ったより混んでいる。立っている人も多い。
人目に付くのは避けたいと、扉を向いて俯く。指名手配犯にもなった気分だが、今のご時世、自衛のためにもこうするのが一番いいはずだ。
だが、電車にというのはどうしても距離が近いし、気配にも少し敏感になる。真後ろに張り付くような気配を感じ、ゆっくりと振り向く。
立っていたのはサラリーマンだった。顔はマスクと曇った眼鏡で良く見えない。
なんですか、と言えない以上離れるしかない。別の扉まで移動しようとして、肩をぐいと掴まれた。
「あなた、マスクしてないですよね」
車内の空気が変わるのを感じた。急に処刑台の上にさらされて、心臓が高鳴る。
「車内ではマスクをしてください」
分かっている。普段ならしている。反論できないこのタイミングで、なぜこうも詰め寄ってくるんだ。
「聞いているんですか? マスクをしてください」
もう何でもいい。次の駅で降りて歩いていくしかない。耳が聞こえないふりでもして、この苦痛の数分間を終わらせるしかない。
だが、いつまでたっても電車は着かない。時間が引き延ばされているのだろうか、トンネルに入ってから、外は真っ暗なままだ。
「マスクをしてください」
今度は強く、腕を掴まれる。ぎょっとして振り解こうとして、今腕を掴んだのが目の前のサラリーマンではないことに気付く。周りをマスクの集団が囲っている。顔がない無数の人、人、人。
「マスクをしてください」「マスクをしてください」「マスクをしてください」
標語のように繰り返し、正義感すら感じない、抑揚のない声の渦。
「助けてくれ!」
誰も止まる様子はない。無数の手が私を覆いつくした。
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