幸せな生活

 朝起きて、窓の外を見る。清々しいほど灰色の快晴で、今日も仕事に精を出そう、という気概が湧いてくる。優しく気立てのいい妻とは、そろそろ結婚十周年を迎える。会社でもそこそこ上手くやっていけている。我ながら悪くない人生を歩んでいるのではないだろうか。上機嫌で鼻歌を歌いながら、ネクタイを締める。妻が居間から笑顔で送り出してくれる。行ってきます、と家を出る。

 道中で犬の散歩をしているご近所のおばあさんにすれ違い、おはようございます、と挨拶すれば、「はあ、どうも……」と笑顔で返してくれる。近所の人も皆いい人ばかりだ。

 駅に着けば、人で賑わっている。誰もが平和に列を成し、電車がホームに滑り込んでくるのを待っている。『只今、人身事故の影響で大幅にダイヤが……』何かの影響で、電車が遅れてしまっているらしい。「何考えてんだよ、会社に遅れるじゃねえか。ちゃんと仕事しろ」「申し訳ありません、次の電車は一駅前に到着したとの連絡がありましたので、それまでしばしお待ちを……」スーツ姿の男性と駅員が、ニコニコとほほ笑みながら話している。男性は腕まで振り上げて、随分と元気がいい。

 ようやく電車が来て、周りの人々と一緒に電車に乗り込む。誰もが笑顔を浮かべて、電車内に密集して立ち並んでいる。手すりにしがみ付く学生も、扉に密着している女性も、皆笑っている。「この人痴漢ですっ」どこかで声が上がり、「違う、誰がテメエみてえなブスのケツ触るかっ」手を掴まれた男が、扉が開くと同時に駅員と一緒に楽しそうに立ち去って行く。朝から活気にあふれているのは素晴らしい。

 会社に着いた途端、上司がニコニコと怒鳴りこんできた。「お前、昨日作れっつったあの書類、俺の指示通りやってねえじゃん。なんでこんなしょうもねえミスすんだよ、バカかお前」言われて書類を見ると、昨日言っていた事と正反対だ。なんと優しい上司なのだろう、私の落ち度ということにして、私のさらなる成長を促してくれている。「ありがとうございます」と返すと、「笑ってんじゃねえよバカ、本当に気持ちわりーな」爽やかな笑顔で舌打ちする。

 その修正に追われて、昼食にあり付けたのは午後の三時だった。妻から貰った百円玉三枚で、カップ麺とおにぎりを買う。いつも食事代を出してくれる妻には頭が下がるばかりだ。それにこの食事はなんと美味なことか。時間帯もずれているせいか、食事スペースには私一人だが、それもまた笑顔になれる。

 その後も上司に「お前俺の言ったことなんも理解してねえ。日本語も出来ねえとか、ホント使えねえな」と成長の激励を賜り、本来今日やる予定だった業務をして、帰路に付けたのは夜の十一時くらいだった。駅の構内には、男が笑いながら口から滝を演出している。最寄駅に着いた時には零時を回り、人気も少なくなっていた。夜空はとても美しく、灰色と紫の混ざり合った夜景が、今日の一日がどれだけ充実した素晴らしいものだったかを感じさせてくれる。

 家に帰ると、電気は消えていて、その中で私は静かにスーツを脱ぎ、風呂に入る。スイッチが切れていたので、お湯はぬるくなっていた。疲れ身に熱いお湯は良くないという妻の配慮だろう。私は幸せ者だ、と思いながら、妻と背中合わせで布団に入る。この生活はしばらく続くだろうな、と暗い部屋の中で思った時、私はとても幸せな笑みを浮かべている。

 

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