伊丹巧基のショートショート「後藤くんの爆発」

伊丹巧基

しあわせなぼくのある日

 仕事を終えて帰宅すると、廊下にスーツを着た男が立っていた。二十代ぐらいで顔立ちの整った、すらりとした長身の男。ぼくはその脇をすり抜けて、リビングに向かう。リビングに併設された台所には男と同じ肌のつやをした女が立っていて、その目の前には食材が何種類か並んでいる。今日の献立は一般的な家庭のカレー。カットした野菜と肉を鍋で軽く炒めてから、水を加えて煮込み始める。一段落したのを見計らって、ぼくは女の腰を抱え、リビングの扉の前に立たせると、扉を開けた。それから男の腰を同じように抱え、女の目の前に立たせる。男と女が見つめ合う。


 会話はない。


 風呂のスイッチを入れたぼくは、男を抱えたまま移動しつつネクタイをするりと抜いて、スーツの上着を脱いで、ハンガーに掛ける。そのまま寝室のクローゼットから室内着を取り出して、男に着せる。男がリビングに出てくると、ちょうどカレールウが投入され、室内にあのスパイシーな匂いが拡がっていく。既に下ごしらえはしていたから、出来るまで時間は掛からないだろう。女の手におたまを持たせようとしたが、少し苦戦した。ぼくは女が手に持ったおたまを、カレールウがうまく溶け出すように回す。あとは弱火で煮込んでいればいいだろう。男はひざを折り曲げ、リビングのソファーに座り、リモコンを手に持たされる。テレビが付き、そこで一戸建ての豪勢な家が紹介される。


 会話はない。


 食卓に並べられたカレーは二つ。女と男はスプーンを片手に向かい合って座っている。つけっぱなしのテレビでは、芸能人が大げさに叫び、失笑を買っている。何が面白いのか分からないので、ぼくは男のそばにあったリモコンを取りテレビを消す。カレーは一向に減らない。二皿食べるのは中々厳しかった。空になった食器をキッチンに下げて、女を流し台に立たせる。流し台で水の流れる音と食器が重なり合う音がする。


 会話はない。


タイマーを十分に設定。男は風呂場の脱衣場で裸にされ、全身を洗剤で洗われる。泡を流し終えてから湯船につかる。湯加減はちょうどいい。男はぼんやりと天井を見上げている。電子音が鳴り響き、男は湯船から出され、全身を丁寧にタオルで拭かれる。水分を残してはいけないから、隅々まで。次は女の番だ。女も同様に、脱衣所で裸にされ、洗剤で洗われ、十分間湯船につかり、タオルで体を拭かれる。

 ぼくは時計が十一時になったのを確認して、パジャマを着せた男と女を寝室に移動させる。ダブルベットは家具店で中々いい値段をした。男と女がベットに横たわる。その上に、ぼくは羽毛布団を被せる。暗い寝室で、男と女はお互いを見つめている。その後はぼくが立ち入る領域ではない。見つめ合う無表情の二人を微笑ましく見つめながら、ぼくはそっと寝室の扉を閉める。


 会話はない。


 ぼくは着ていた皺だらけのスーツを適当な椅子に掛け、テレビの裏から寝間着を取り出して、風呂場に向かう。面倒なのでシャワーを浴びて出ると、そのまま寝間着を着てソファーに寝転がる。男と女の幸せな生活を夢見て、ぼくは眠る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る