第1話 その三 4
*
夜……あたりは暗闇。
たぶん、深夜だろう。
家のなかが異様に静かだ。
聞こえるのは、かすかな虫の声。
キリリリリ……キリリリリ……。
あっちから一つ。こっちから一つ。
松虫や、コオロギや、あれは、くつわ虫かな?
キリギリスなんかもいるみたいだ。
ふだんは意識しないけど、この世界には、いろんな生き物がいるもんだ。見えてないけど、そういう生き物と人間は共存している。
それにしても、ここはどこだろう?
古い日本家屋だけど、京都のうちの町屋じゃないぞ?
天井の高さが違う。
暗闇に目がなれてきた。
見まわして、やっと気づいた。
なんでだ? これは……陣内さんちの離れじゃないか?
うん。まちがいない。
あの子ども用デスクは、友貴人さんの部屋にあったやつ。そうだ。ここは、友貴人さんの部屋だ。
変だなぁ。僕、自宅に帰ったんじゃなかったっけ?
ぼうっとしてると、急に尿意を感じた。
我慢して寝てしまおうとしたけど、どうも目が冴えてしまった。なかなか寝つけない。しかも、だんだん、尿意は強くなってくる。
しかたない……イヤだけど、行くしかないのか。
僕は、そろっとフトンをはいだした。
あれ? おかしいな。僕の足、こんなに小さかったっけ?
それに、イヤに天井が高い。
部屋のなかのあらゆるものが大きい。
なんか変だなぁ……。
違和感を感じながら、僕は廊下がわの障子をあけた。そうっと、五センチほど。
やっぱり、陣内家だ。ピカピカにみがいた回廊と、中庭が見える。月明かりが照らして、けっこう明るい。
ええっと? トイレはどこだったっけな?
そうそう。母屋のお風呂場の近くだ。
一晩泊まったから、間取りは知っている。
それにしても、こんなに大きな家だったっけ?
まあ、お屋敷だもんな。
てこてこてこてこ。
歩いていく。
こういう可愛らしい擬態語を自分に使ってしまうとこが、僕のこずるいとこだよね。うん。
かーくん、可愛いねって、そんなに言われたいのか? 薫?——なんちゃって。
夜中に知らないお屋敷のなかを歩くのは怖いので、一心不乱に自分に話しかけて、ごまかそうとする。
ぶじ、トイレに行って、手をあらったとき、僕の違和感はピークになった。
なんだ? これ? いくらハタチすぎて女にまちがわれるからって、これはいくらなんでも異常じゃないか?
手が、ちっちゃい!
これ、子どもだよなぁ?
いつのまに、僕は幼児化してしまったんだ?
どおりで、まわりのものが異様に大きいはずだ。僕のほうが小さいんだな。
僕はとなりの風呂場をあけて、鏡をのぞいてみた。
うーむ。僕じゃない。この顔は、誰だ? 兄ちゃんでもないし……どっかで見たな。そうか。陣内家の離れに住んでるのは、友貴人さんだ。僕は友貴人さんになってる夢を見てるんだ。
そうとわかれば、問題ない。
もう一度、フトンに入って寝てしまおう。
きっと、朝にはもとにもどってるはず。
これは夢だぁ。生々しいけど、夢なんだぁ。
わざと明るくふるまいながら、僕は母屋から離れに向かう廊下を歩きだした。
すると……だ。
中庭をはさんだ、対面の廊下の端が、ぼんやり明るい。
はて? あんなとこに電球がついてたかな?
いや、違うぞ。光ってるのは床だ。
しかも、色が青白い。LEDにしても、青すぎる。
見つめていると、光のなかに人影が見えた。女だ。
女の人が立っている。
うなだれて、青白く光った女の人だ。
僕は腰をぬかした。
出た! 見た! 人じゃない!
すると、女は廊下をすべるように前へ歩きだした。
僕に気づいたのか? いや、気づいてはいないようだ。
まっすぐ前を見てる。
ま、マズイぞ。このままだと、女がこっちに来る。
僕は離れの自分の部屋に帰ろうと思い、必死で立ちあがる。
でも、足がもつれて、すぐに倒れた。
ドタン——と、大きな音が、夜のしじまにひびく。
その瞬間、女の動きが止まった。
じっと前を向いたまま、ぴくりとも動かない。
僕は息をひそめた。
大丈夫か? 気づかれなかったか?
たのむから、こっちを見ないで……。
僕は無我夢中で祈った。
まるで、その心の声が聞こえたかのように、女の目が、ギロンとこっちを見た。
見ないでって言ったのに!
バッチリ、目があった。
僕を見て、女は笑った。
それは、はっきりと、獲物を見つけた肉食獣の顔だった。
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