その七
第1話 その七 1
リーリーリー。リーン。リーン……。
意識のどこか遠いところで、虫の音を聞いている。
女の影が動いた。
だが、何か、おかしい。
まるで、マネキンを台車の上に乗せて、そっと押しだしたみたいだ。すべるように廊下を移動する影じたいは、髪もなびかない。
不自然に“動かない”まま、移動している。
すうっと、障子の上を影が流れていく。
このまま、通りすぎてくれと、僕は願った。
すると、女の影が上下した。上体は動かないまま、高低だけ変わった。そして、そのまま、だんだん低くなっていき、廊下の反対がわに来るころには見えなくなっていた。
よかった。消えた。
安心したとたんにトイレに行きたくなる。
やだなぁ。部屋から出たくない。
しかし、寝てしまうには無視できない、この感じ。
僕は、しかたなく布団から、はいだす。
障子を五センチほど、あけてみた。怖々、のぞいてみる。何も異常はない。
ほっとして廊下へ出た。
もはや、勝手知ったる母屋のトイレへ向かっていく。
ふつうに用をたして、渡り廊下まで帰ってきたとき、異変に気づいた。
廊下の端が青白い。
平行する、向かいがわの渡り廊下だ。
あ……れ? このシチュエーション、どこかで……。
僕は立ち止まったまま、そっちのほうを視界のすみで見つめる。
視界のすみでって、変な言いかただが、とにかく、顔は動かさないまま、目のはじっこに感じる青い光に意識を集中した。
光がだんだん強くなる。
この前の夢だ。
僕が子どもの友貴人さんになって、ここで女の幽霊と目があった……。
僕は機械じかけみたいに、ぎこちない動作で頭をまわした。
女は——こっちを見ていた。
しっかりと目があった。
にいッと歯を見せて、女が笑う。
すすすすすす——と、女が廊下の上をすべりだした。
(は、速い!)
女はまたたくまに、渡り廊下の端から、反対側の端まですべっていった。
ヤバイ! 追いつかれる!
あわてて僕は走りだす。走るっていうより、よろめいてるんだが、気持ちは走ってる。
女はまがりかどをまがった。母屋に面する廊下を、すごい勢いでこっちに向かってる。
女の移動がなぜ速いのか、そして女の体が不自然に上下するのがどうしてか、やっとわかった。
ガラス障子を通して、それが見えた。
女には足がない。
いや、両足がひっつき、軟体動物のように、ありえない角度で床に接している。その足が、どんどん伸びているのだ。伸びながら、こっちに向かってきている。
蛇だ——
その姿は半人半蛇の怪物。
「うわあああーッ!」
僕は悲鳴をあげて逃げまどった。足がもつれ、廊下に倒れる。
女はさらに伸びながら、二つめの角をまがる。僕のいる廊下にやってきた。
「来るな……来るなーッ!」
はうように逃げる僕のすぐそばまで、またたくまに女は追いついてきた。
そして、一メートルほどの距離まで近づくと、すうっと床に体を伏せ、蛇行しながら追ってきた。
その目のなかにある光に、僕は気づいた。
おもしろがってる——
獲物を追いつめ、おびえ、すくませることを、女は楽しんでいる。
このまま捕まれば、永遠に僕は女の
それほど深い怨みの念が、女の目のなかにしみついている。
「なんでッ? なんで、そんなに怨んでるの? あなた、ハルカさんのひいおばあさんなんですよね? ええと……お孝さん! お孝さんなんでしょ?」
女の顔から笑みが消え、いぶかしむように、ゆらゆらと上体をゆらした。
僕は思わず、あとずさりながら、それでも必死で呼びかける。
「この家に怨みがあるのはわかるけど、あなたを追いだした人たちは、みんな死んだんだ。それに、蘭さんは無関係じゃないか。返してほしいんだけど!」
女の動きが止まる。
あれ? もしかして説得が通じたのか?
そう思ったが……なんか、ようすが変だ。
女の上体が、だんだん高くなっていく。
すうっと首や体が伸びて、高く、高く、頭が天井につきそうなほど高く——
そして、勢いよく、僕のほうへ急降下してきた。
「ギャアッ! ごめんなさい! 来ないでェー!」
すると、背後で勢いよく障子があいた。ハルカさんが手招きしている。僕は急いで、そこへかけこんだ。
蛇女の鼻先で、ぴしゃんと、ハルカさんが障子をしめる。蛇女がグルグルとぐろを巻くのが、障子に影になって映った。
「神社へ——神社へ行きましょう!」
ハルカさんが僕の手をとりながらひっぱっていく。
「うん。そうだね」
とりあえず返事はしたけど、変だな。
ここ、どこだ?
障子のなかは離れの一室のはずなのに、布団がしいてない。なんか、調度品がやたら古びてるんだけど。畳はすりきれてるし、カビくさいし、クモの巣が目立つ。
廃屋じゃないのか?
僕はいつのまに廃屋のなかに?
うーん。猛がいないなぁ。
ハルカさんに手をとられて、次々ふすまをあけながら、部屋から部屋へと歩いていく。
陣内家は広いお屋敷だけど、それにしても、こんなに何部屋も続いてたっけ?
「ねえ。ハルカさん……」
呼びかけようとすると、しッと人さし指を口にあてて、さえぎられた。
ハルカさんは言う。
「見てください。人がいます」
ほんとだ。ふすまのスキマから見ると、男と女が一人ずつ、ふとんを並べて眠っている。
それにしても、男女とも浴衣みたいなの着て、女の人なんか日本髪なんだけど?
見てると、男が起きだしてきた。女の人のようすをうかがいながら、そっと、ふとんをはいだす。衣服を整えると、部屋から出ていった。
僕はハルカさんとともに、男のあとを追った。
男は回廊を通って裏口を出ていく。回廊には、蛇女が——と思ったけど、いない。
裏口から納屋に向かうと、男は暗がりに呼びかけた。
「タケちゃん? おるんか?」
ん? タケちゃん? どっかで聞いたなぁ。
そうだ。友貴人さんのひいおじいさんの再婚相手じゃなかったか?
納屋の戸口から白い手がのぞいた。ゆらゆらと手招きしている。
すると、男は嬉しそうに納屋に入っていった……。
僕の手をにぎるハルカさんの力が強くなる。ギュッとされて痛いくらいだ。爪が手にくいこむんですけどぉ。
耳元で、ハルカさんのささやき声が聞こえる。
「あの人はね。わたしに隠れて浮気していたんですよ。それで、わたしがジャマになって……」
「……あの? ハルカさん?」
僕の手をにぎる力が、ますます強くなる。
痛い。
見ると、ハルカさんの爪がくいこんで、血が出てる。
「わっ! ちょっと……ハルカさん!」
あわてて、僕はハルカさんの手をふりほどく。
ハルカさんは、うなだれている。
髪の毛が顔を隠していた。
異様に禍々しい。
「……ハルカさん?」
「怨んでも……しかたないですよね? だって、あの人は……」
しわがれた声。
違う!
これは、ハルカさんじゃない。そっくりだけど……。
僕の見てる前で、女の首が、にゅうっと伸びていく。
体や、足も。
僕は悲鳴をあげて走りだした。わあわあ、わめきながら、やみくもに走った。
いつのまにか、裏口をとびだして、田んぼの
なんで? ハルカさんじゃなかったのか?
本物のハルカさんはどこに?
猛もいないし、もう、どうしたらいいんだ……。
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