匣の中の家

でん田

 

一、


 「私の家を『視て』は貰えないか」。そう頼まれたのは上司と食堂にて昼食を共にしていた時の事である。その五十代も半ばになる彼は、車椅子の上に鍛え抜かれた細身の身体と鋭い目つきを乗せている。ブラウン色に染められた髪も相まって、さながらイギリスの退役軍人の様な容貌と威厳がある。大学を出て1年、やっと社会人というものに慣れてきた私にとって、気楽には話せる間柄とはとても言えない関係である。今日誘われた昼食も、正直に言えば遠慮したいと思っていたほどだ。しかし今、そう頼む彼は相当にバツが悪そうであり、いつも思わず委縮してしまうような威厳は感じられない。


「視る、とは?」どういった意味でしょう、と私はうすうす察しつつも応える。それは確認の為が半分、この見た目通りに厳格な上司から、オカルトチックな言葉を遠まわしせずに聞きだしたいという天邪鬼にも近い気持ちが半分あった。普段は堅物で論理的でリアリストな彼からは、到底望めないだろう。


「いやね、最近家内が家に私達以外の何かがいると言って訊かないんだ。」自嘲とも妻への嘲りともつかぬ笑みを浮かべながら彼は言う。妻が訴えるには、家に一人でいるはずなのに、度々誰かの気配が、確かにするそうだ。


「それだけでなく夜に誰かの走るような足音まで聞こえてね・・・」妻だけでなく、彼も聞いているのだろうか。話の終わりにはその表情から笑みが消え、少し疲れを覗かせる。


「それでホラ、君はそういうのが『視える』って前に聞いたことがあってね。引越しの時に部屋の鑑定をした事もあるとか・・・」ますますバツが悪そうに顔を歪めていく。そういうわけで、我が家も視て貰えないだろうか、と彼は絞り出すように頼んだ。


「分かりました。しかし、」言いかけて一瞬、昔の記憶が走馬灯の様に蘇る。物心がついて、幽霊が他の人には視えないと知ったこと。幽霊が近くにいると、それだけで人は様々な不幸に見舞われると知った事。それを教えてあげて、他人を厄から助けてあげたいと思ったこと。


・・・そして結局、私は人に気味悪がられ、酷い虐めを受けたこと。嫌な記憶を振り払い、私は続ける。


「視えたところで祓ったりは出来ません。それでも構いませんか?」構わない、と彼は応え、週末に伺うと約束を交わした。


二、


 それから一週間はすぐに過ぎた。よく20歳を過ぎると時間の流れが速くなるというが、それはきっとその前後でみんな仕事をし始めるからだろうと私は思う。特にその週はいくつかの失敗とアクシデントに見舞われててしまったこともあり、より早いように感じた。件の上司はいつもより若干の手心を感じたが、私は精神的にも物理的にもへとへとになった。


 それでも、新卒で入社したての頃に比べればだいぶ慣れたものだと思う。最初の方は毎朝出社する事が辛かったし、失敗する度に落ち込んでいた。いつも辞めたいと思っていたものだ。しかしある時、仕事に行く事を抗えぬ運命のように受け入れ、失敗をサイコロの出目のように捉えるようになってから楽になった。つまり、「人間諦めが肝心」というやつだ。


三、


 「ようこそお越しいただきました。今日は変なことでお呼びしてしまって御免なさいね」約束の日、出迎えてくれた彼の妻は、気品がある女性だった。背筋がピンと通っており、似たもの夫婦なのだなとぼんやり思う。


「それでは早速視させていただきますね。」挨拶もそこそこに、私は家の中を視て回る。居間、寝室、トイレ、書斎、・・・風呂場の戸を開けたとき、それは居た。


 十歳ぐらいの子ども。しかしそれがこの夫婦の子ども等でない事はすぐに分かる。異常なほどに青白い肌、白と黒の境界が曖昧なほどに濁った眼。少し驚いているその隙に、それはトテトテと小走りに脇を通り抜け、彼の妻の身体をよじ登ると肩にダラリとぶらさがった。


「・・・っ!あのっ!!」咄嗟の警告とも悲鳴ともつかない言葉をなにか言いかける。が、私は喉元でそれを澱ませてしまう。そしてこの世ならざる少年と、私がまだ同じ年頃だった時の記憶がフラッシュバックする。


 子供、親戚、教師…周囲の様々な人間から私が蔑まれ、憎まれた理由。そうだ、それは幽霊が視えたせいではない。幽霊が視えても、。そう、人間はあまりに幽霊というものに無力で、どうしようも出来ないのだ…。


四、


 「今日はありがとうございました。貴方にそう言っていただけると私、確かに少し疲れていたのかしらね。」帰り際、玄関で彼女は晴れやかな顔でそう言った。


「ありがとう。お陰で私も気が晴れたよ。やはりあの音は家鳴りか何かだったのだろう。」上司も肩の荷が下りたような、そして少し照れたような笑顔でそう続ける。


「いえ、お役に立てたなら良かったです。それでは・・・」一瞬、彼の妻にぶら下がった子どもと、上司の足に纏わりつく女を見る。「それでは失礼しますね。」軽く会釈をしてその家を後にした。


 バスで家路に着く傍ら、ぼんやりと思う。あの夫婦に憑くモノたちは、仮に引っ越しても憑いてまわるだろう。そして少なくとも夫婦のどちらかは、生涯の健康というものを諦めなければならないかもしれない。しかし、すぐに死ぬという程ではない。


 なんとなく車窓から外を眺める。そこには車道をスーッと横切る血塗れのサラリーマンがいる。歩道には鬼の様な形相を浮かべる老婆が道行く人を睨みつけている。歩道の真ん中に立つ落武者に若い女学生がぶつかり―、しかしそこには何もなく、女学生は首をかしげながら歩いていく。今度は落ち武者と一緒に。


 私は視線を車内に戻す。そう、結局のところ、どうしようもないのだ。人生はサイコロのようなもの。この身体という檻からは自由になれない。人間、諦めが肝心だ。

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