四:降下-死したる死者の遺品

 ヤボシが時計の設計で唸っている間、テンゲンは何ものうのうと無知を満喫していたわけではない。兄が飛び込んだ潜行士の世界、その基本情報についてくらいは、霊力附帯情報網オドネットを飛び交う知見をつまみ食いして知っている。

 組合が公式に発表している採用情報から、潜行士による雑多で粗野な呟きまで。実に大量の情報が溢れかえる中には、潜行士――それも保帯士にとって必須となる技能についての解説も転がっていた。


「君、抗反帯こうはんたいの展開は自力で出来るか?」

「えー……多分それらしいものは出来ますけど、実践するのは初めてです」

「成程。では、私の展開している抗反帯の範囲内でとりあえず使ってみなさい。安定して展開出来るなら任務完了まで張りっぱなしにしておくこと」

「はぁい」


 抗反帯に関する解説と種類。組合の公式情報用地サイトの片隅に置かれていた解説ページである。

 前提の話として、廃界は一部の物や概念の性質が常界と反転している。常界のものにとって、廃界中に蔓延する大気は一呼吸で肺腑を爛れさせる致死の毒であり、山河を築く川の多くは身を浸すだけで活力を奪う衰亡すいぼうの具現であり、今足で踏みしめるこの土すらもが、素肌で触れることを許さない。それは、廃界のものが常界へ赴いた時もまた同じだ。

 抗反帯は、立つだけで猛威を振るう廃界の環境に対処するべく、常界の人々が編み出した対抗策。抗反帯が展開された領域の環境は常界の――より正確に言えば人間が生存可能な――もので固定され、危険物にまみれた廃界でも、最低限の生存が保障される。裏を返せば、抗反帯が展開されない領域内で、常界の人間が徒手空拳で生き残ることは、ほぼ不可能に近い。

 そんな抗反帯であるが、万人が等しく扱える定まった術が存在するわけでなし。ある者は加護を受けた上位存在から借りた神域――大まかに言えば、上位存在が放散する霊力オドが形成する力場のようなものだ――を顕現し、またある者は反転した環境を更に裏返す力技を行使し、はたまたある者は、


定常固定・様式Ⅲステディフィクス・スリー


 今己が生存している空間の環境を、丸ごと亜空間で囲って閉じ込めてしまう。

 “北辰”の力を借りて展開された抗反帯、その展開途中に輝く青白い術式の束を見上げながら、ヨドは満足気に一つ頷いた。


「時術使いの抗反帯はいつ見ても面白いな」

「“エリア”って言うか結界だよねぇ。ちょっとした転変者の攻撃くらいなら弾けるんだって?」

はそう自負していたらしいが」


 光で描かれた神界文字、その束が半球状に収斂してドームを作り上げ、そして溶けるように見えなくなる。赤い空に消えてゆく光の一片を見届けて、白金札の潜行士達は首を元に戻した。

 一方のテンゲンも、ひとまず抗反帯らしきものが展開出来て一安心したらしい。小さく安堵の溜息をつき、手にした時計の蓋を閉じる。そのままポケットへ仕舞いこもうとしたところに、ヨドは何気なく声をかけた。


「上等だ。お陰で死なずに済んだ」

「え゛!?」

「一応聖符は準備してたけど要らなかったね」

「ファ!?」

「これも試験の内だ。勿論降下中は私が抗反帯を張っているから、あまり気負わないように」


 こともなげに言ってくれたものであるが、突然人の生死を天秤に乗せられるなど心臓に悪い。どぎまぎする胸を押さえ押さえ、半泣きで抗議の意を示した見習い保帯士の頭を、ヨドは帽子ごとくしゃくしゃと掻き回す。

 そして、驚きを上塗りされたテンゲンが目を瞬く間に、二人は目的地へ歩き出した。



 廃界も第一圏となると、その様相は常界に近い。

 “門”とそこから出てきたばかりの潜行士を受け入れる丸木小屋――潜行士組合の廃界支部――をはじめ、街道が整備され、その脇には行商隊の詰所兼物資補給所が軒を連ね、赴くべき場所への案内板が立ち、多くの人が往来している。少し異なる点があるとすれば、真っ昼間にも関わらず空が夕焼けのように赤く染まっているところと、そして。


「形を保ち切れていない。灰狼かいろう級だな」

「低位潜行士かぁ……それにしたって第一圏で人死になんて珍しいな。もしや深圏しんけんから?」

「いや、深くても一圏の範囲は出るまい。後で行くぞ。君もそれで構わないかね?」

「は、はい……!」


 道中の安全が全く保障されない点だろうか。

 歪な白杖を構える探索士シギョウを先頭に、楔型の陣形を組んで石畳の道の真ん中を塞ぐ。三者の向ける視線の先には、筆舌に尽くし難きほどに歪な怪物。強引に容姿を形容するとすれば、蚯蚓みみずと眼球と骨を無理矢理わにだか蜥蜴とかげだかの型に押し込めたようとでも言うべきか。そんなものが、ぎょろりと人間のものに似た目を剥き、血生臭い呻き声を歯列の隙間から零していた。

 何とも直視に耐えぬ有様であるが、低級の転変者とは得てしてこのようなものだ。ある程度割り切り、テンゲンはポケットに仕舞いこんでいた‟北辰”と、腰帯ベルトに挟んでいた山刀マシェテをそれぞれ左右の手で引っ張り出した。

 同時に、先達を請け負っていたシギョウが、微かに姿勢を崩し、


「さあテンゲン、初陣だ!」


 爽やかな笑みを一つ残して、道の端へ退避した。


「あ゛っちょっ待っ――うわっうわわわっ」

「唖餓唖唖唖唖犠萎唖唖唖唖唖――!」


 強者が突然道を開けたことで、一目散に肉塊がテンゲン目掛けて襲い掛かる。ハッとして気付けばヨドまでもが端に避難して気配を消しており、転変者どもはそんな彼等に目もくれない。意味不明な濁った発声を体中の口から繰り返し、退すさる見習い潜行士を執拗に追いかけるばかりだ。まるでこの為に用意されたかのような展開であるが、テンゲンにそれを追及したり責めたりする余裕は無かった。

 がぢ、と嫌に鈍い音を立て、転変者の口が虚空を噛む。これは何も相手の目測が甘いせいではなく、テンゲンが迫られる度に倍速クィックの術を使い、本来当たるはずの攻撃から逃げているせいだ。そうして順調に敵愾心ヘイトを溜めながら、彼はぶらりと下げた山刀の刃先で石畳を傷付け、着々と準備を整えつつあった。

 そんなことを繰り返すこと、六回。遂に怒りが最高潮に達したのだろう、身体を形成する蚯蚓の束をうねらせ、転変者の身体が高く持ち上げられる。その目方で森霊人エルフを押し潰そうとでも言うのか、腹にまで埋没する眼球が逃さぬとばかりテンゲンを注視して離れない。

 けれども、彼とても準備は終えている。


蜷局とぐろ巻け火焔の蛇、眠れぬひとを眠る灰に。――“延焼の檻ファイアサーペント”〉


 ずっと口の中で呟いていた聖句を、締めくくる。

 途端、テンゲンが目印を付けた六箇所から、鎌首をもたげるが如く蛇型の炎が噴き上がった。

 逃げる隙間はない。大口を開けた紅い蛇は瞬く間に転変者の喉笛や四肢に齧りつき、更には袋の口を絞るようにとぐろを巻いて、哀れな死者を焼き尽くしにかかる。


「礙啞、唖唖唖唖唖唖唖唖、犠萎唖齲齲齲――」

「そんな恨みっぽい声出さなくても、長く苦しませる気はないよ」


 身を捩り抜け出そうともがく転変者を見上げ、テンゲンはぽつりと一言。ゆっくりと腕を掲げて山刀の刃先を黒焦げた肉塊へ向け、聖句を重ねる。


〈お休み、ひとの子。――“葬送の火クリメトリー”〉


 刹那。

 蛇の胴が、真っ白に燃え上がり。


「齲、唖唖――唖――」


 断末魔諸共に、銀の灰となって消え尽きた。


「……どひゃあ」

「何さ」


 解けるように炎が消え、熱気が収まり、山刀を鞘へと戻し。テンゲンが鞄から瓶と小さなちりとりを取り出し、跡地に堆積した銀灰ぎんかいを集め始めたところで、ようやく脇の白金札たちは我に返ったらしい。素っ頓狂な声を一つすっ飛ばしたシギョウへ、テンゲンは即座に突っ込みを突き刺した。

 のそのそと歩み寄ってくる二人を尻目に、ちりとりで灰を掬っては広口瓶へ流し入れる。それを五回ほど繰り返して全ての灰を入れ、しっかりを蓋を閉めて、貼り付けられたラベルに日付を記入。やけに手慣れた手つきだ。


「以前から遺灰集めを?」

「あー……はい。白皙院うちの前は月一くらいで赤ちゃんとか捨てられてたので」

「嗚呼――ありがとう、わざわざ。形を残して持ち帰れるのは助かる。私が同じことをしても灰すら残せないんだ」


 低く零すヨドの声には、言い知れぬ寂寥か後悔のような感情が滲む。けれども、テンゲンは敢えてそれに気付かぬふりをして、灰に満たされた瓶を鞄の中に放り込んだ。

 物心ついた頃、己が親に捨てられたことを受け入れられず、跡形も残らぬほど消し飛ばして欲しいと願った者。そんな人を、テンゲンはこれまでに最低一人知っている。結局その者は白皙院の主ヤボシに諭されて生き延び、同じように嘆いた者を同じように諭し、そうして今、此処に立っているのだ。

 服の埃を払い、立ち上がる。鳥打帽を被った下、鮮やかな緑玉髄りょくぎょくずいの色の目は、いつも通りの平静さで道の途切れた先を見ていた。


「そろそろ、行きましょっか」

「嗚呼。おい『導杖どうじょう』、いつまで惚けてる。お前が先頭だぞ」

「ヘァッ」

「ちょっとー探索士ぃー、ちゃんと探索してよー」


 三人の足が向かうのは、ほんの百小義しょうぎほど先から広がる乾いた荒野。

 一見枯れ草にも見えるよじれた草が生い茂り、しかし一部は何者かによって踏み潰され均された大地の一角に、その大洞穴はうろを晒していた。



 直径二百小義、深度不明。

 僅かな腐葉土と大部分の岩盤、そして鉱脈の一部をくり抜いて作られた大穴の奥が、今回の目的地である。


みずち、ですか」

「常界では水神のあざだが、此処にいるのは神格のない竜の一種だ。普段は土に潜り、一ヶ月に一度餌を求めて空に上がり、一月後にまた潜る。今は餌獲りの期間中で何もおらんよ」


 地面に杭を打ち、縄梯子の端を括り付けて底まで降ろし、人数分の霊石灯に霊石をセットする。

 降下の準備をシギョウが進める間、ヨドとテンゲンは持ち込んだ携帯端末で講義の時間だ。画面にはびっしりと時刻や指示が書き込まれた予定表が広げられ、その一部をヨドの武骨な指先が示す。そこに記された『螭採餌期間中』の文字を、見習い潜行士が認識したのとほぼ時を同じくして、どうやらシギョウの方の準備も終わったらしい。穴の縁から呼ぶ声がして、二人は意識を切り替える。

 鼻梁に引っ掛けた銀縁眼鏡の奥、銀貨のような淡い色の目を無明の闇……ではなく、岩壁に付いた螭の爪痕へ向けて、彼は穴の縁に蹲踞そんきょしていた。


「どうかした?」

「んー? んーん。まあいつも通りの時間に出てったんだなぁって」

「そりゃ、まあ、そんな異常事態がぽんぽん起こるところじゃないでしょ、第一圏って」

「そりゃそうだ。……うん、やっぱり何でもない。さー行こう行こう」


 妙に引っ掛かる物言いであるが、本人が何でもないと言い切ってしまった以上、最早問いただすのも野暮な話だ。テンゲンは意見を求めるように斜め後ろのヨドへ視線を送り、彼からも無言で首を振られると、諦めてシギョウに促した。

 彼の方も多言なし。小さな首肯のみを返し、穴に降ろした縄梯子に脚をかける。探索士とは、未知の空間に対して常に先陣を切らねばならぬ。


「ほいじゃ、梯子から足踏み外したりしないようにね。落ちたら五百小義下に真っ逆さまだから。僕も受け止めらんないよ」

「き、肝に銘じます」

「よろしい。んじゃしゅっぱーつ」


 弛んだ語調で言い捨て、シギョウはするすると梯子を下っていく。そこにヨドが続き、最後にテンゲンが、一抹の不安を抱えながら追従した。

 主不在の巣穴にはただ、縄梯子の軋む音だけが反響して、聞く者もいないまま底へ落ちてゆく。

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