序-4:時術-時計師達の能力について
ぜんまいを巻き上げて時計を動かし、解体用のナイフを鞘から抜き放ち、左脚を引いて腰を低く落とす。その視線は対面で見守る翁を見据え、右の脚はじりりと地表をにじり、口の中では圧縮された
〈
大きく一歩を踏み出せば、その身はあたかも早送りの映像のように――否、実際に彼の時だけが早送りの状態となり――動作そのものの緩慢さからは想像を絶する速度で地を渡った。
走っても五秒は掛かる距離をきっかり半分の時間で詰め、最後の一歩は大きく跳躍。右手に握り締めた
かと思えば、ふっと背高の老人が視界から姿を消す。
「!」
「ほい勝ち」
はっと気付いた時には、被っていた
帽子を取られた頭を悔しそうな表情で撫でながら、テンゲンは深々と溜息を一つ。革の鞘にナイフをしまい、身体ごと爪先を翁の方へ向ける。
「敵わないなぁ、爺やには」
「ンな簡単に敵ってもらって堪るかよ。こちとら九百年の血と汗と涙の結晶だぞ」
現在、ヤボシとテンゲンは得物の確認の真っ最中。
長命種たる
何しろ、僅か四
とは言え、戦闘に際するテンゲンの実力など、素人に毛の生えたようなもの。曲がりなりにも実際の戦場に赴き、転変者や魔物を叩きのめしてきたヤボシと対峙すれば、後者に
そんな圧倒的力量差を見せつけた当人はと言えば、ぽすんと帽子を息子の頭に被せ直し、その上からくしゃくしゃと掻き回して楽しんでいる。テンゲンとしては堪ったものではない。半ば引っ叩くように時計師の腕をはね除け、ぼさぼさになった長い緑髪を手櫛で整えた。
「ま、時計が上手く動くのは分かったな。これでちったァ廃界でも立ち回れるだろ」
「そだね。……“バケモノ”に敵うとは、ちょっと思えないけど」
無理に明るく笑ってみせたテンゲンを、ヤボシは見ない。黙って自分の顎髭を摩り、鼻から大きく息を吐き出すばかり。
気まずさが、白皙院の広い庭に落ちては風に攫われる。それは弟妹達が庭いじりの為に間を行き来し出しても変わらず、ようやく打ち払われた時には、既に数
「“バケモノ”は俺が遭ったきり、かれこれ七百年は誰も見てねェ。だからと言って遭わない保障は何処にもないが、まあ、確率は相当低かろうな」
「だけど……」
「怖くなったか? 良いんだぜ、翻意したとしても俺は止めん。一生此処で時計作ったり修理したりして暮らすんでも、俺は一向に構わ――」
「いーや絶対行く!」
未練たらたら、往生際悪く引き留めかけたヤボシの声を遮り、テンゲンはけたたましく決意を一言。そうして止めても無駄なのだと、余韻すら突き抜ける力強さばかりが雄弁だった。
片や翁は何処かしょぼくれた風に眉尻を下げ、そうきっぱりと言い切らなくても、だの、爺は寂しい、だのとごにょごにょ抗弁しに掛かる。何処までも煮え切らぬ態度だが、子を思う親とはこう言うものなのだろうと考えると、テンゲンもあまり邪険には扱えない。
カチカチと小気味よく時を刻む時計を服の胸ポケットへ、使い古された山刀を腰の
†
幅広の組紐に通された
何だかんだと時は過ぎ、三日後。白皙院へ届けられて以来、忙しさにかこつけて向き合うことの出来なかった、兄の遺品であると言う武器と装身具。居間のテーブルに広げられたそれらを、弟妹達が興味津々に覗き込んだり手に取ってみたりする最中で、一人テーブルに齧り付いているのはヤボシである。
高分解能を誇る
言葉もなく登録証を睨みつけること、たっぷり半
「生きてる間に割れたのは間違いねェや。これ以上は爺にも分からんわ」
「そんなぁ! 爺やだから頼んだのに」
「ンなこと言われても無理なもんは無理だ」
告げられた暗い報せに、悲痛な声を上げたのはテンゲンである。
そも、登録証によって登録者の生死を知ることが出来るのは、登録証の内部に判定用の術が組み込まれているが故だ。それが起動する前に分断されてしまえば、当然ながら判定術は使えなくなる。通常は破損しないよう
――ヤボシと、テンゲン。両者の脳裏に同じ想像が掠めたものの、言葉にはせず。
代わりに、翁は違う報せを投げた。
「どうもお前の兄ちゃん……『鵆』とか言ったか? 爺らと同じ術が使えるらしい」
「同じって、時間の早回しとか、逆回しとか? どうやって分かるのそれ」
「それはもう専売特許に企業秘密って奴よ」
「爺やそればっか」
テンゲンの兄が持つ、術の素養に関する言及。先程テンゲンが
さもありなん、時間にまつわる術を操る者は珍しいのだ。時計工房たる白皙院にも総勢二十人が暮らしていながら、時の流れを変えられるのはテンゲンとヤボシ以外にいない。片や火術を操れる者は十五人もいる。地術に至ってはテンゲンらも含めて全員が何かしら使えることを鑑みれば、時術の使い手は大層希少であると察するのは容易であろう。
そんな希少術の操り手が、自分含めて三人も身内に固まっているなどと。そんな偶然を簡単に信じられるほど、テンゲンは幸せな頭の持ち主ではない。
しかし、翁も自身の眼力を疑うほど老いぼれてはいない。時計見を外し、登録証を指先で撫で付けながら、ヤボシは確信を込めて言い放つ。
「この際だから教えてやるが、物に
「爺やが言うんならそうだろうけどさ。じゃ、何でその神様は僕にも加護をくれたの。爺やが持ってるのは分かるけど、僕ただの居候だよ? 爺やと血が繋がってるわけじゃないのに」
「知るかよ」
素朴な疑問に対し、ヤボシの返答はにべもない。絶句するテンゲンをよそに、同じ組紐から下がる
二度。三度。居間中の者達の注目を集める中で、ヤボシは平然として鈴をテーブルの上に放り出す。
「俺の知り合いの時計師で加護を受けてるのを見たことがあるから、何かしら時間に関係するのは確かだな。だが同じ時計師でも加護を受けられない奴の方が遥かに多い。人間にも
最後の一言に、テンゲンは何も言わず双眸を翁へと向けた。
ヤボシの眼もまた、青年を見ていた。
「爺やも、後悔してた?」
「まあな。最初は猫が轢かれた時だったか」
「猫」
「俺がまだぴちぴちの八歳だった頃の話だ」
「言い方が気持ち悪いよ爺や」
「きも……お、おま……」
そんな酷いこと言う奴に育てた覚えはないぞ、と口を尖らせる翁に対し、テンゲンの視線は冷めたもの。長い髪の先をいじいじ、
齢八歳のヤボシが如何程にその猫を好いていたかは知らぬが、それが加護を受けられない他者と差を生む要因だとは考え難い。つまるところ、ヤボシは珍奇なことを言って、それとなく煙に巻こうとしているのだ。そこに理由があるにせよ無いにせよ、真剣に尋ねている者への態度ではないと、青年は沈黙の中で翁を非難した。
そんな継子の心境を知ってか否か。ヤボシは誤魔化すように俯いて顎髭を摩り、それでもまだ突き刺さる視線に、諦めの色を交えてお手上げのサイン。その拍子に腕輪がじゃらりと鳴き、耳に揺れる宝石がランプの灯を弾いて煌めいた。
「八歳の時に猫を亡くしたのは本当だぞ」
「爺や?」
「その事故に師匠が巻き込まれてな。猫は死んじまうし師匠は馬に踏み潰されちまうし、俺の肩も粉々になって二度と戻らんと言われた。時間が戻ればいいって、何度過去を呪ったか」
「えぇ……その、お師匠様は?」
「死んだと思うか?」
問い返されたテンゲンは首を縦に振った。
術使いとしての翁の力量はテンゲンも良く知る通りだ。加速された時の中で悠然と動き、あまつさえそれを時間の停止などと言うとんでもない術を以ってそれを上回る。かと思えば、常人には見えぬ
それらの術は、決して彼一人で成し得るものではない。そもそも、術は必ず結果を引き起こす為に力を貸す
片や、ヤボシが操る術は最早、相応しい加護のない者が扱える範疇を超えている。すなわち、彼は高位の加護を受けた者に与えられる恩恵として、時神の権能の一部を行使しているのだ。
そんなものを得る為に払う代償が、まさか猫の遺失と肩を粉砕して味わう痛い思いだけなどと。まさかそんなことはあるまい。
テンゲンは己の推測に確信を以って頷いたが、ヤボシが浮かべたのは曖昧な笑みだった。
「加護を授かる時に俺が課されたのは、師匠を救うことだ。見殺しにすることでも死なせることでもない」
「――えぇっと?」
「おいテンテン。常識的に考えてみろ、まだ助かる人間がそこにいるんだぞ。救えるのに死なせる必要はねェだろ」
きつく眉根を寄せて諌める翁に対し、テンゲンは生返事。どうにも腑に落ちぬと言った様子で、テーブルの上に放り出された鈴に目を落とす。
救える者がいるならば救う。それが神により加護を与え
或いは違う試練を課すとして、ならば驚くほど強力でないのは何故か。乗り越えた悲劇の大きさが加護の強さとするなら、死によって初めて救うべき者を知ったテンゲンにはより高位の、それこそヤボシを凌駕するような加護が授けられても良いはずである。
――どうにも条件と結果が噛み合わない。
とは言え、上位存在は人と同じく自我を持ち、規律と掟を守りながらも奔放に挙動する、言わば自我を持った現象。不規則に与えられる加護も、神の気まぐれと言ってしまえばそれまでだ。
しかし、時空――この世界が成り立つ為に不可欠な、恐ろしく重要な事象――を司る神が気まぐれを起こすような存在だとは、テンゲンにはどうにも思えなかった。
ならば。
「……爺や」
前提の何処かが、そもそも間違っている。
その考えに辿り着いたとき、テンゲンは半ば無意識のうちにヤボシを呼んでいた。
「どした、テンテン」
「登録証、何とか直せないかな?」
「直す……術式の繋ぎ直しか? 出来なくはねェが時間が掛かるな。一月は欲しい」
「やって。生死判定の術が直ればいいから」
「よりにもよって一番難しい所か、職人魂燃やしてくれんじゃねェのよ」
回りくどい言い回しだが、つまるところ承諾の合図だ。言うが早いが時計師の手が紐と鈴ごと登録証をひったくり、がたごとと騒がしい音を立てて椅子を蹴る。
気が変わらない内に始めるつもりなのだろう、言葉もなく部屋を出て行こうとする翁の大きな背に、テンゲンは静かな声を一つ投げた。
「一月経ったら一旦戻ってくるよ。自分の脚で、ちゃんと歩いて」
「嗚呼、そうしろ」
「それまでに直しといてね」
「おう、任せろ」
出立の、前日。
二人が交わした言葉は、これが最後だ。
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