序章――“バケモノ”

序-1:拾得-破損した登録証

 第八圏。

 それが、潜行士せんこうし組合の発表する潜行せんこう深度の最高記録である。それ以上の深度への潜行については、未だ踏破に失敗し続けているか、踏破したと判断出来るほどの成果を誰も挙げられていない、と言うのが組合の主張だ。

 ならば、今此処で霊透玉れいとうぎょくの薄板をあらためるこの男もまた、廃界第九圏を踏破したとは見なされぬのであろう。


「提げ紐の鈴を見る限り、『鵆』のもので間違いない筈だが……登録情報の参照も出来んな」


 呻く男の手には真っ二つに割れた潜行士の登録証。首から下げる為の組紐は途中から千切れ、一緒に下がっていた七宝の飾りや白い霊銀れいぎんの鈴と共に、恐らくは持ち主のものであろう血でどす黒く染められている。

 これだけならば、何かの事故で落としただけとも判断出来た。しかし、地面の広範囲に飛び散った血と、沢の方角に転々と転がる人の一部や装備、そして――登録証を拾い上げた場所を中心とした周囲に横たわる、最早物言わぬ潜行士達の亡骸を勘案すれば、何かに襲われた末無理やり引き千切られたものであろうと、そう判断せざるを得ない。

 そして、登録証の持ち主は最早生きていまいとも。

 しかし、それでも。


「『鈴炯艇りんけいてい』、やっぱり駄目だ。沢の所で血痕が途切れてる。多分……されてるよ」


 ――と。

 熱心に登録証から情報を得ようと苦心していた男、もとい『鈴炯艇』の、心の底に温めていた希望を、もう一つの男声が跡形もなく打ち砕いた。

 振り返れば、銀縁の眼鏡の奥で痛ましげな表情を浮かべた男が、散らばっていた物体――人の指やら耳やら、また着けていたらしい指輪やら耳飾りやら――を風呂敷に拾い集めて戻ってきたところ。まだ乾いていない血は白い布を余す所なく深紅に染め、それでも足りずに滴って地面を汚している。それを気にする余裕はない。

 どちらからともなく、失意の溜息。割れた登録証を手に『鈴炯艇』は立ち上がり、もう片方は棒杭のように立ち竦んだままそれを迎え、二人揃って倒れ伏した遺骸に向き合う。それぞれの空いた手が、各々の信仰する神や生まれ育った故郷の弔いの印を刻み、そして遺骸に触れ、これの姿勢を仰臥ぎょうがへと整えた。

 二十代から四十代の人族男性四名。未だ体温を残した、硬直すら始まっていない身体を横一列に並べ、絶望に見開いた目をそっと閉じさせる。流れのままに首や腰から下がる登録証を取り外し、薄板に埋め込まれた白金の球へ指を押し当てなば、薄板は例外なく赤い光を二度発した。所有者の死亡を示す証に、またしても二人の肺腑から落胆が漏れる。


「まさか、『白鈴』が一人残らずやられるなんてな。……『鵆』はどうなっちまったんだろ。生きてると、いいんだけど」

「遺体はなく、登録証は壊れて生死の判別も出来ない。ならば死んでいない可能性もあるが……この有様ではな。それに、彼の武装は私が把握している限りの全てが此処で破損している。如何な白金札はっきんふだの潜行士とは言え、得物が無くては生き残れまい」

「そう、かな。やっぱり」

転変者てんぺんしゃか、土着の生物か。ともあれ、廃界のものに連れ去られたのだろう」


 努めて冷静な声で言いつつも、『鈴炯艇』の言葉には隠し切れぬ動揺が滲んでいた。

 『白鈴』――まだ見ぬ資源や知見を求め廃界に赴く潜行士、その中でも指折りの実力を持つとされた白金札の潜行士隊だ。五つ一揃いの鈴を下げ、その音響き渡る所に砕けぬ敵は居らぬとまで言われた、組合長も認めるところの実力者集団。此度こたびの第九圏潜行も、前回の潜行で危なげなく第八圏を突破した成果から、きっと成し遂げるであろうと目されていたと言うのに。

 彼等から組合へ救援要請が入り、駆け付けてみればこの有様。残された遺骸は皆なぶられたような傷を受け、害なすものを打ち砕く霊銀の鈴は使われた形跡もなく、各々の得物は溶断されたかの如く綺麗に斬られている。致命傷と呼べる傷は無く、手首足首に刻まれた青痣と擦り傷からして、この場に縛り付けられた挙句失血死か衰弱死したのだろう。

 圧倒的な、そして唾棄すべき暴威に晒されたことは明白時で、そのようなものが存在する事実に、『鈴炯艇』はおぞましさを感じずにはおれなかった。

 ともあれ――


「『導杖どうじょう』、彼等の登録証と遺留品の確保を。“変質”まであまり時間がない」

「……そうだね」


 彼等の仕事は、まだ終わっていない。二人の男は一列に並べた遺体を調べ、その身に帯びた予備の得物やただの装身具と化した護符――遺族に引き渡す為の形見――を一渡り回収していく。

 その間にも身体の芯に篭った熱は放散し、見る見る内に筋肉の硬直が進み……嫌なが、凍えた心の臓に灯った。

 “変質”。その始まりだ。


「『鈴炯艇』、こっちは回収終わった」

「了解、離れろ」


 二人の潜行士は、されど慌てず騒がず。遺骸の中で渦を巻き始めた、不可視なれどどす黒いと形容せざるを得ない火を睨みながら、素早く“変質”し始めたそれから距離を取る。

 後のやるべきことは、最早どんな場合でも変わらない。引き下がった『導杖』はびっしりと青黒い文字の刻まれた聖符せいふを手に広げ、入れ替わって前線に出た『鈴炯艇』は、黒い櫂を飾る白銀の宝珠を物言わぬはずの男達へと突きつけた。

 『導杖』が先に動く。手にした聖符に自前の霊力オドを流し込めば、刻まれた文字と陣が青白い光を放ち、二人を中心とした三ようの領域に半球状の壁が展開された。すぐに色を失って見えなくなったそれは、今まで『鈴炯艇』が恒常的に展開していたものと同じ。この廃界で生き延びる為に必須となる防護結界――抗反帯こうはんたいである。本来は帰還まで展開状態を解いてはならないものだが、致し方ない。今から行使するものは『鈴炯艇』にしか使えず、抗反帯と同時に使うことは出来ないのだから。

 準備完了、そんな『導杖』の呻きに、黙って首肯。構える男の頭を覆う黒い防護帽ヘルメット、その奥で、抑えつけたように低い声が聖句ことばを紡ぎ上げる。


〈もう、眠れ。――葬送の火クリメトリー


 須臾、静寂があった。

 そして、白い火が四人の遺体を包んだ。


「啞――――!」


 鉄をも蒸発させる焔の中で、微かに何かが叫ぶ。もうそこに生ける者はいないと言うのに。

 ……否。

 そこには確かに、生きたモノがいたのだ。

 一度完全に死に果て、そして歪んだ転生の道を歩まされた果ての、人に挑み人を喰らう哀れな化け物――転変者が。

 しかしそれも、辺りの酸素と霊気マナを喰らい尽くして燃え上がる白焔の前にはなす術もない。絞り出すかの如き悲痛な断末魔を最後に、“変質”した成れの果ては光に埋もれていく。


「もう良い……もう良いんだ」


 己へ言い聞かせるような『鈴炯艇』の声と共に、葬送の火は煙が解けるように立ち消えた。

 跡には、岩をも融ける熱量に晒されて熔融した地面だけが、陽炎の立ち昇るほどに苛烈な熱を秘めて横たわるばかり。遺体など無かったとでも言いたげに、威圧的なまでの熱気を振りまく地を睥睨し、『鈴炯艇』は静かに踵を返した。


「戻ろう、『導杖』」

「分かった」


 歩き出す黒衣の男の背に、白衣の男もまた続く。何か後ろ髪引かれる思いがあったか、三歩ほど歩いたところでふと『導杖』は振り返り、まだまだ冷える様子のない地面をじっと見つめた。

 そのまま、淡い空色の双眸は廃界の空へ。雲一つない赤さを探るように見渡し、けれども決定的に足を止める要因は見つけられぬまま、ゆっくりと正面へ戻す。


「どうした?」

「いや、何でも」


 元々、確信の薄いただの予感だ。

 興味は長続きすることなく、『鈴炯艇』の促しと相俟って、その足は速やかに廃界を離れた。


「……あーららぁ。」


 己が背を興味深そうに覗き見るモノの視線に、最後まで気付かぬまま。



 廃界はいかい第九圏、潜行せんこう失敗。

 潜行士隊『白鈴』は、全構成員の死亡を以て、此処に壊滅した。

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