第79話「柔らかい風の中で」
誰かが死のうと、時間は過ぎる。
大切な人が居なくなっても、次の日は絶対にやって来る。
世界に死は溢れ、一つの死に執着できるほど世界は優しくはできていない。
誰が死んでも、何が起こっても、世界の時間は変わらず流れ続ける。
明けない夜はないのだ。
ただ、翌日になっても、心の中の暗鬱とした気分は晴れないのだろうけれども。
さとみが亡くなって一週間、様々な手続きが終わった頃に村瀬に呼び出された。
勉強会を行うとの事だった。
確かに俺達も一応は受験生なのだし、夏休みには勉強くらいしておくべきなのだろう。
俺達が集まって、勉強なんかができるとはあまり思えないが。
しかし、家に居ても陰鬱になるだけだし、他にやる事も何もない。
俺は村瀬の言う通り、村瀬の家に呼ばれてみることにした。
「や、てっちゃん。ま、上がっておくれ」
家を訪ねた時、村瀬は普段何も変わらない姿で俺を迎え入れた。
不思議なほどに何も変わらない。さとみの事など気にしていないように見えた。
いや、それは俺も同じか……。
自嘲気味に、俺は溜息をこぼす。
俺も同じだ。さとみが死んだというのに、自分でも驚くほどに冷静に振舞えている。
そうだ。
さとみが死んでも、何も変わらない。
世界にとっては、何の関係もないのだから。
それは俺の場合も同じだろう。
俺が死んでも、世の中は何も変わらない。
当然の事として、誰もが俺の死を受け入れていく。
だから、きっと俺のこの胸の痛みも気のせいなのだ。
ただ何となく悲しくなってしまっているだけなのだ、きっと。
それは喪失感だ。
恐らく俺は自分の中の喪失感を、自分で勝手に嘆いているだけなのだろう。
村瀬の家の応接間に行くと、待っているかと思えたいつもの二人は居なかった。
「山根達は居ないのか?」
俺が訊ねると、村瀬は肩をすくめて微笑する。
「まあね。たまにはいいんじゃない? 山根達も最近は忙しいみたいでしさ」
まあ、あいつらにもあいつらの事情があるのだろう。
俺はさほど気にせずに、応接間のソファに腰を下ろして嘆息した。
意外な事にいつも饒舌な村瀬はそれ以上喋らず、俺も何も言うことがなくて沈黙した。
俺たち二人には不似合いなほど沈黙した雰囲気。
その雰囲気の中、俺たちは当初の予定通り勉強を開始した。
勉強は自分でも驚くほどに簡単に進んだ。分からない場所も特に無かった。
それはそうかもしれない。さとみが亡くなる前日まで、俺はさとみに勉強を教えてもらっていたのだ。外見通りと言うべきかさとみの成績はかなりいい。俺は遠慮したのだが、さとみがその学力を生かして、俺の勉強の面倒を見てくれていたのだ。大学に進学するにせよしないにせよ、人生のこの時期くらいは勉強しておいてください。というのがさとみの言い分だった。どうせこの時期が終われば、兄さんなんて勉強する事もほとんどなくなるんでしょうから、と説教染みた言葉も吐かれたが。
そのせいか俺はこれまでに無いほど勉強させられ、学力が全国でも悪くないほどには上昇していた。勿論、元の出来がそんなによくないため、あくまで悪くない程度の学力でしかないのだが、それはそれでご愛嬌ということにして欲しいところだ。
一時間ほど勉強しただろうか。
問題集がある程度終わったので、息抜きついでに村瀬に訊ねてみた。
「なあ、村瀬」
「何だい?」
村瀬が英語の文法と格闘しながら、俺の方に視線も向けずに小さく言った。
「最近、どうだ? 何かあったか?」
「まあ、色々とあったりなかったりだよ。何も起こらないなんて事はないさ、生きているんだからね」
「それもそうだけどな。で、何があったんだ?」
途端、村瀬が瞳に哀しげな光を灯した。
さとみの事を思い出したのかと一瞬思ったが、そうではなかった。
「僕の知っている人にある姉妹がいるんだけどね、てっちゃん」
「ああ」
「僕は妹の方が好きだったんだよ、その姉妹の。眼鏡だし」
「それで?」
「しかし、僕は何故か姉の方と付き合う事になった。眼鏡じゃないのに」
わけが分からない。
俺は失笑して村瀬に詳しい説明を求めたが、奴は哀しそうに首を振るだけだった。
「妹の方とはかなり仲も良かったんだよ。デートみたいな事もやったしね。しかし、僕は何故かその妹とは全く関係がない姉の方と付き合う事になったんだ。不思議だね」
「何をどうすればそんな状況になるんだよ?」
「不思議だね」
「俺はおまえという存在が一番不思議だよ」
「不思議だね」
「何をやっているんだ」
まったく、相変わらず村瀬のやる事はよく分からない。
いや、多分村瀬自身にも、自分が何かをやっているという自覚はないだろう。
村瀬は無自覚、無意識のうちに謎で不思議な行動を取り続けるのだ。
ある意味、天然系と言えるのかもしれないが、何か違うような気もする。
それ以上村瀬の傷口を広げるのも何なので、俺は話題を逸らす事にする。
「山根と伊倉は最近どうしてる?」
そんなに変わってないよ、と村瀬は肩をすくめた。
「伊倉は相変わらず彼女と仲良くやっているよ。倦怠期も来たそうだけど、僕の助言によってどうにか持ち直した」
「何を言ったんだ?」
「マンネリプレイは倦怠の本とね」
「そのプレイが何のプレイなのか、あえて野球のプレイにしておいてやる」
「それはどうもありがとう。それで山根だけど、山根はようやく三股の三人の女子の中から一人を選んだらしい」
「あいつもよくやるな」
本当、あいつの行動も村瀬並みによく分からない。
三股をする気は全く無かったようなのだが、気が付くと三股のような状況になってしまっていたらしい。その中からやっとの事で一人を選んだ事が事態の収拾に向かうのか、はたまた波乱の道を歩むのか、それはまあ、あいつ自身の問題だろう。
「でさ」
聞いてもいないのに、村瀬が目で笑いながら一つ付け加えた。
「高橋さんは彼氏と別れたらしいよ」
「高橋さんの事は聞いてないんだが」
「性格の不一致というわけでもないらしいけど、とにかく別れたらしい。まあ、高校生のこの時期はそういうもんだよね。多くの異性と付き合ったり別れたり、そうして恋愛の熟練度を磨いていくものさ。別れたくなったら別れたらいい。結婚を前提に付き合ってるカップルなんて、僕たちの年頃じゃ滅多に居ないだろうしね。無理して関係を続けるよりは随分良いと思うよ」
「聞いてない」
「そうだった?」
「そうだよ」
俺が言うと、村瀬は更に楽しそうに笑った。
この男、自分の事に対しては何の表情も示さないくせに、他人の事になると非常に楽しそうな笑顔を浮かべるんだよな。伊達に事情通をしていないという事なのか、こいつは自分よりも他人の事で楽しむ方が好きらしい。自分が嫌いというわけでなく、ただ単に誰かが動揺したりあたふたしたりしているのを見るのが好きなだけなのだろう。他人よりも、村瀬自身の状況を見ている方が面白いだろうと思うのだが。
楽しそうな顔のまま、村瀬は続けようとした。
「それで大学に進学した我らの前会長様なんだけど……」
「彼らの事はもうそっとしておいてやれ」
「知りたくないのかい?」
「知りたくもない」
「それは残念。妹にスパイさせてとっておきの情報を手に入れておいたのに」
「妹に何をさせているんだ」
「村瀬兄妹情報網は広大だぞ? その恐ろしさを自分の身で試してみるかい?」
「断る」
それは俺達の普段通りの会話だった。
何も変わらない、変わりようのない他愛もない話。
だけど、やはり何かが変わってしまっているのは否めない。
村瀬が話し、俺が何かを言い返すたびに、大きな違和感が俺を襲うのだ。
喪失感。
胸に穴が空いたかの如き、巨大なる喪失感が、俺の胸を締め付けるのだ。
いずれ……、いずれその喪失感は他の感情で埋められてしまうのだろう思う。
締め付けられるような痛みも、いずれきっと感じなくなるはずだ。
だけど、それまでには長い時間が掛かるだろうし、喪失感の本当の大きさを感じるのはこれからまだまだ先なのだろうと何となく俺は考えた。何かを失って、その重大さに気付くのは、いつだって遠い先の事なのだから。
勉強会が終了し、村瀬の家を去る際に俺は一つの事に気が付いた。
日常と変わらぬ村瀬の無表情の中に、時たま翳りを帯びてしまう瞬間がある事を。
村瀬も戦っているのかもしれない。
俺と同じに、胸を締め付けるような強大な喪失感と。
俺は夕凪の中で家路につく。帰り道の人でいっぱいの夕凪の道に。
夕焼けに照らされ、世界中が黄昏に染め上げられている。
俺も黄昏……、いや誰彼に染め上がられる。心にまで誰彼が迫り来る。
赤く、赤く……。
俺の全てまで赤く染まりそうになる頃。
いつも誰彼の中で俺の前に現れ、幼い頃から変わらないあいつが俺の前に立っていた。
「久しぶり、テツ」
「風音……?」
夕凪が吹く。
柔らかい夕凪。
俺の前で、風の音が鳴り響く。
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