第77話「ユメカウツツカ」

 さとみが亡くなった。

 事故だった。

 最初、その知らせを聞いた時、耳を疑った。

 悪い冗談を聞いているような気分で、ひどく現実感が無かった。

 いっそ悪い冗談であってくれれば、どんなによかっただろう。

 けれど、それは冗談などではなかったし、間違いなく現実なのだった。

 受け容れ難い、けれど受け容れなければならない現実。

 夏休み前で休んでいた親父と母さんも、その知らせを聞いた時には相当動揺していた。

 信じられないといった表情で、警察や現場の人々から話を聞いていた。

 さとみが亡くなった理由は事故だったが、交通事故ではなかった。

 本屋に寄る途中、さとみはマンションのベランダで遊ぶ子供を見掛けたらしい。

 ベランダと言っても、たかが二階だ。

 たかが二階で遊んでいた子供が誤って落花しかけて、つい反射的に助けに走った。

 それだけだ。

 それだけの事で、さとみは亡くなった。

 落下しかけた子供を助けようとして手を伸ばし、子供のほんの少しの重さに耐え切れず後ろ向きにさとみは倒れ込んだ。倒れ込んで、後頭部を軽く打っただけだ。軽く打っただけで、殆ど傷も残らないほど軽く打っただけで、打ち所がほんの少し悪かっただけで、さとみの命は失われてしまったのだ。

 子供の両親も何といえばいいのか分からないのだろう。

 ただ悲痛な面持ちで、動揺しているように見えた。

 だが、その両親が悪いという話でもないのだと思う。

 運が悪かった。

 そうとしか言えない不条理な理由で、さとみの命は失われてしまった。

 ただそれだけの事なのだろう。

 警察と二、三会話して、現場検証もすぐに終了し、自宅にさとみが物言わぬ姿で帰ってきた。ほんの数時間前に、本屋に行くと言って出て行ったさとみがこんな姿になるだなんて、一体誰が想像できただろう。

 それからしばらく後、通夜は俺と真美が付き添った。

 蝋燭を絶やさないよう、俺と真美は二人で物言わなくなったさとみの傍に座っていた。

 親父と母さんは悲痛な面持ちで、しかし懸命に葬儀の打ち合わせを行っていた。

 俺と真美は何も話さなかった。

 話せない。話せるはずもない。こんな時、何を話したらいいのかなんて、分からない。

 お姉ちゃんと恋人としての別れをはっきりさせたあの日から約半年、俺と真美の関係は前ほどとは言えないが、悪くないほどには良好な関係に回復していた。それもさとみが間に立ってくれたからだ。さとみが真美に何か話してくれたらしい。仲が良いのか悪いのかよく分からない姉妹だったが、それでも姉妹には違いないのだ。さとみの何らかの言葉を聞いてからは、真美も俺に向けて柔和な笑みを浮かべてくれるくらいにはなっていた。

 だけど、その真美はさとみの棺の横で、人目も憚らずにしゃくり上げていた。

 俺はそんな真美に言うべき言葉も無くて、ただ見ているだけしかできなかった。

 深夜も三時を回った頃に、お姉ちゃんと姉貴が家にやって来た。

 姉貴は大学に入って一人暮らしをしていたが、そう遠くはない大学だし、妹の弔事に顔を出さないほど薄情な姉でもないのだ。姉貴も見た事がないほどの悲痛な表情で、誰にも分からないだろうくらいに小さく、だけど確かに啜り上げていた。久しぶりに見た姉貴は大学生になったというのに、高校生の頃よりも地味な姿に見えた。男に縋る性質は変わっていないのかもしれないが、それでも少しは落ち着いたという証拠なのだろう。

 さとみとお姉ちゃんの接点はほとんどなかったが、お姉ちゃんも家に来てくれていた。

 お姉ちゃんは泣いてはいなかったが、それでも沈痛な表情をしていた。

 俺の義理の妹と言う事は、お姉ちゃんにとっても妹なのだと、そう感じさせられた。

 だけど、四人が揃っても、俺たちの間に言葉は交わされなかった。

 誰もが突然のことに動揺し、そして悲しんでいるのだと思う。

 しかし、かく言う俺はどんな表情をしているのか、自分でも分からなかった。

 突然の事に、自分の感情がはっきりと分からない。

 悲しい事は確かだが、どう悲しんだらいいのか、見当も付かなかった。

 俺とお姉ちゃんはさとみの傍で、真美は姉貴に支えられて、その夜は過ぎた。

 葬儀は昼に行われた。

 さとみの棺は葬儀場に運ばれ、俺たちは並べられた椅子の先頭に座った。

 葬式に出るのは初めてで、これが葬式なのかとただ圧倒された。

 ふと後ろに視線をやると、村瀬達や半田さん達、多くのクラスメイトも葬式に出席してくれているようだった。多分、親父たちが上手く連絡しておいてくれたのだろう。クラスメイトは皆一概にさとみが死んだという事実を信じられないといった顔をしていて、ただ動揺しているように見えた。

 それから親父と母さんが弔辞を述べ、俺もその場に立った。

 何を言ったかは、憶えていない。

 何を言えばいいのか分からなかったし、言っているときも現実味が無かったからだ。

 まるで、夢でも見ているみたいに。

 最後の別れの時、つまり最後にさとみの顔を見る時、途端にクラスメイト達の泣き声が聞こえ始めた。女子のほとんどは泣いているようだったし、男達の中でも数名は涙を流しているようだった。村瀬達も泣いてこそいなかったが、拳を握り締めてさとみの死に顔を見つめていた。

 人の死を感じるのは、きっといつだってその人の死に顔を見たときなのだろう。

 物言わぬ姿に変貌した知人の姿を見ると、誰だってその事実に愕然とする。

 愕然として、嘘のようだった現実に現実味が帯びてくる。

 そして、どうしようもなく悲しくなるのだ……。

 クラスメイトたちの様子を見ていて、俺はこんな時だけど少し微笑んでしまっていた。

 さとみ。掴みどころがない子だからあんまり好かれてはいないのかもしれないって心配してたけど、おまえはこんなにも大きな存在だったんだな……。こんな時だけど、その事が俺にはとても嬉しいよ……。

 母さんは泣いていた。真美と姉貴も泣いていた。

 親父は悲痛な面持ちでさとみの最後の死に顔を見つめ、俺に言った。

「これが最後なんだから、しっかり目に焼き付けておくんだ」

 久しぶりに聞く、親父の親父らしい真剣な言葉だった。

 言われるままに、俺もさとみの最後の死に顔をじっと見つめた。

 外傷はほとんど無い。

 ただ眠っているようだけれど、さとみの命はもう無いのだ。もうさとみは笑わないし、喋らない。飄々とした生意気な言葉を発する事も無い。そう思うと、どうしようもなく胸が苦しくなり、俺はついさとみの傍に置いてあった眼鏡に手を伸ばした。

「てっちゃん……?」

 親父が訝しげに俺に訊ね、俺は乾いた唇でどうにか答えた。

「これだけでいい。俺に……、持たせてくれないか……?」

 親父は神妙に頷き、俺の頭に手を置いてくしゃくしゃと撫でた。

 俺も大きくなったつもりだったが、親父の手はまだまだ俺には大きかった。

 最後の別れは名残惜しくも終了してしまい、そうして、葬式は終わった。

 さとみの棺は運ばれて、霊柩車によって火葬場に連れて行かれる。

 そして俺も、他の車で火葬場に運ばれる。

 最後の時まで、さとみと一緒にいるために。

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