第75話「それは時にあなたを励まし、時に支えとなるもの」

 お姉ちゃんに別れを告げ、俺は自室に戻った。

 今日は本当に多くの事があった。

 一言では語り尽くせず、今日の事を振り返るには長い時間が必要だろう。

 それでも、正しい答えなのかどうかは分からないが、お姉ちゃんと話せて、一つの答えが出せてよかったと思う。

 自室ではさとみが俺の椅子に座り、ゲームをしながら待っていた。

「お帰りなさい、兄さん」

 俺達に何があったのか気になるだろうに、さとみの声は飄々としていた。

 俺は肩をすくめながら、自分のベッドに腰掛ける。

「ただいま」

 それ以上は言葉にするのも億劫だった。

 今日はどうも少し話し疲れた。

 俺の様子に気付いているのかどうか、さとみがゲームをしながらの体勢で再び呟く。

「どうでしたか? 上手く話せました?」

「どうだろう……」

 それが俺の気持ちの正直なところだった。

 上手く話せたのかどうかは、よく分からない。

 だけど、話すべき事は取り敢えず全て話せたような気はする。

 それを口にすると、

「そうですか」

 とさとみは冷淡に言ったが、頬は少し微笑んでいるように見えた。

 そんなさとみの姿を見ていて、俺はとても妙な気分に陥っていた。

 先刻も聞いた事だが、何故さとみは俺をこんなにも助けてくれるのだろうか。

 考えてみれば、俺はさとみに救われてばかりだ。

 海に行った日、姉貴と喧嘩した日、そして、クリスマス・イヴ。

 多くの日にさとみは俺に付き合ってくれたし、今日もまたさとみに救われた。

 要所要所の俺がいつもさとみと共にあったと言っても過言ではないだろう。

 山口さとみ。

 俺の義理の妹で誕生日は一日違い。眼鏡を掛けていて三つ編み。俺にくっ付いてばかりいるように見えながら、その実、きちんとした距離を保っている。掴みどころのない演技派で、いつも二言目には『兄さんを愛してますから』と言う。姉妹とは親密な仲でもないらしいが、仲は悪くないらしい。事情通で、意外に村瀬と仲がいいらしい。

 俺がさとみについて知っているのはそんなところだ。

 知らないというほどではないが、知っているとも言い切れない微妙な関係。

 一体、さとみは何を考えているのだろう。

 さとみはどうして俺を『愛している』と言ってくれるのだろう。

「なあ、さとみ?」

「はい?」

 訊ねようとして、訊ねられない。

 さとみの眼鏡の奥の瞳を見ると、何もかも見通されているような気までしてくる。

 もしかすると俺とお姉ちゃんの関係も知っているのかもしれない。

「いや、ありがとうな……」

 言ってさとみの頭を撫でる。

 そう言えばどうして俺はさとみの頭を撫でているのだろう。

 真美ならともかく、さとみは誕生日がほとんど違わない同級生だ。確かに兄妹には違わないが、それにしたって誤差みたいな年齢差なのだ。それなのにどうして俺はさとみの頭を撫でているのだろう。

 考えていて、思い出した。

 あの春の日の事だ。

 春の風吹く中、真美がナンパされたあの春の日、俺が義理の家族を守ろうと決意したあの日、確かに俺は俺の腕の中のさとみの頭を撫でた。

 あの時、二人が俺の胸の中に飛び込んできたあの時、俺にはさとみが真美と同じような幼い女の子に見えた。強がってはいるが、本当は弱い女の子なのではと思えた。だから、真美と同じようにさとみの頭を撫でたのだ。頭を撫でるのはあの日以来の習慣のような気がするし、恐らく間違っていまい。

「兄さん……?」

 俺がずっと頭の上に手を置いていたのを不審に思ったのだろう。

 さとみが訝しげに俺の瞳を覗き込んだ。

 何でもない、と言いながら、俺はまた別の事を考えていた。

 さとみが『愛している』と初めて言ったのは、あの春の日の翌日ではなかったか。

 そうだ。間違いない。あの日の翌日、突然さとみが『愛している』とか言い出すので、俺どころか家族全員が驚いていたから恐らく間違いないだろう。あの日にさとみは初めて俺の事を『愛している』と言ったのだ。

 それはもしかしたら……。

「兄さん? 大丈夫ですか? 眠いんですか?」

 言われ、俺は頭を振った。

 確かに眠い事はあった。今日は色々あり過ぎて、何だか身体中が痛い。

「いや、眠いのは確かだけど大丈夫だよ。お姉ちゃんとも話せたんだし、今日は落ち着いて眠れそうだ。さとみのおかげだよ。ありがとうな」

「お姉ちゃん?」

「あ、いや……」

「本当に大丈夫そうですね。安心しました。でも、お姉ちゃんですか……」

「何だよ、悪いのかよ……」

「いえいえ」

 そう言いながら、さとみの目は笑っていた。

 でも、確かに俺もいい年をして『お姉ちゃん』と呼ぶのはまずいか。だけど、お姉ちゃんはもうお姉ちゃんだしな……。

 さとみはまた笑った。

「お姉ちゃんという呼び方もいいと思いますよ? 何か可愛い感じがしますしね」

「絶対馬鹿にしてるだろ、さとみ」

「いえいえ、そんな事は……。あ、明日も早いしそろそろ部屋に戻らないと」

「逃げるなって」

「まあ、いいじゃないですか。今日の事はまた今度話しましょう、兄さん。兄さんが私に何があったのか話す気ができた時にでも……」

 さとみが立ち上がり、俺の部屋の扉まで歩いていく。

 そうだな。いつかは分からないけれど、俺達に何があったか、いつかさとみにくらいは話そうか。あれだけ秘密にしてきた事なのに、さとみには何故か話せそうな気になってくるから不思議だった。

「それでは、お休みなさい、兄さん」

「ああ、お休み」

「それと……」

 扉を閉める直前、さとみが楽しそうに微笑んで小さく言った。

「愛していますよ、兄さん。また、明日」

 その最後の笑顔が、何故か俺の脳裏に焼きついて離れなかった。

 もしかしたら、俺もさとみの事を『愛している』のかもしれないな。

 それは恋愛感情とかではなく……。

 そう思いながら、俺は自分のベッドに身を投げた。

 ベッドにはさとみの匂いが染み付いているような気がした。

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