第74話「恋しかなかった」

 お姉ちゃんが立ち上がる。

 僕……、いや、俺を困ったような微笑で包む。

 話していて、また分かり掛けてきた。

 俺は『俺』ではなく、『僕』と自分を呼んでいた頃に戻りたいと思う事があった。

 今の自分が本当に真実の自分なのか、その事に自信が持てなくなった時だ。

 だが、今になって俺は思うのだ。

 真実の自分は美しいものでなければ、醜悪なものでもない。

 そもそも真実の自分など存在しないのだと。

 どんなに演技をしていようと、どんなに嫌いな自分だろうと、どんなに嘘っぽい自分であろうと、それはそれで俺なのだ。強がっている情けない俺も、僕に戻りたい弱々しい俺も、星奈の事を『お姉ちゃん』とどうしても呼べなかった俺も、須らく俺自身なのだ。どうしようもなく俺自身で、それを否定したって何も変わらないのだと。

 だからこそ、今俺が思っている事が、どんなに情けなくても俺自身の想いなのだ。

 後で思考や発言に後悔しても何の意味もない。

 その時にはその時の俺がいて、その時はその時の俺こそが真実だったのだから。

「私もね、哲君……。ずっと考えていたんだよ? ただ、恐かったの。自分が禁忌を犯しているのにそれを禁忌と思えない自分が恐かった。だから、哲君に逢いに行けなかった。哲君をもう一度目の前にしたら、私はどうなっちゃうんだろうって、そう考え続けていたの。それこそ、愛ちゃんに哲君の事を聞かされるまではね」

 俺とお姉ちゃんを図らずも繋いでしまった半田さん。

 半田さんは今、何を考えているのだろうと俺は思った。

 半田さんも分かってはいるのだろうと思う。どうしようもない俺達の事を。

「でも……、お姉ちゃんは俺に逢いに来てくれたよね」

「愛ちゃんと話をして、思ったの。もう一度、哲君に逢わないといけないって。逢わないと始まらないと思ったし、終わらないと思ったの。私の起こしてしまった色んな事が、全部曖昧なまま続いていくのは嫌だったから……」

「そうだね……。それで、お姉ちゃんは俺に逢ってみて、どう感じた?」

「答えはずっと一つだよ? それを確認できて、よかったよ」

「俺もだよ。一度は逃げ出してしまったけど、今なら分かる。俺達の行くべき道を」

 そうして、二人で頷き合った。

 それは終わり。そして始まり。俺たちの物語の終止符。

「禁忌……」

 何となく、俺は呟いた。

「半田さんと話していて、何となく分かったよ。近親相姦が何故禁忌なのか……」

「そう……なの?」

「色々と学説はあるけど、結局答えは簡単なんだと思う。それはつまり、近親相姦を厭だと思う人間が多いから、近親相姦は禁忌なんだよ。単純過ぎる上に、どうしようもない答えでしかないけれど……」

 だけど、確かにそうなのだ。

 答えはいつも単純で、間違っているのではないかと勘違いしてしまうのだ。

 俺はお姉ちゃんを見上げながら続ける。

「半田さんは言ったよ。『近親相姦なんて嫌だ。気持ち悪い』って。その通りだよな。普通に生活していたら、家族を異性として愛してしまうなんてそうありうる事じゃない。だからこそ、拒絶反応も出てしまうんだろうな。それともう一つ、卵が先か鶏が先かじゃないけれど、今の社会は近親相姦を否定するよう成り立っている。近親相姦が人々に嫌われているから社会に否定されるのか、近親相姦が社会に否定されているから人々に嫌われるのか、それは分からないけれど……」

 それは何の救いも無い上に、根本的で否定すら出来ない哀し過ぎる答えだった。

 俺達にはどうしようもない、根本的な社会通念……。

 社会にとって、俺達はただの異端者に過ぎない。

 どんなに俺達が語ろうと、或いは永久に理解されない事なのだろう。根本的に虫が嫌いな人間に、どれだけ何を言おうと虫を好きになる事がないのと同じように。『好き』という感情が人間にとってどうにも抵抗できない感情のように。『嫌い』という感情も、人間にはどうしようもない感情なのだから……。

「でも、俺は禁忌の中にも、あまり妥当性の無い禁忌があるんじゃないかと思っている。ただの自己肯定かもしれないけれど、俺達の関係はどうしても禁じられなければならないというほどの禁忌ではないって思える。だけど……」

「うん……」

「あの時、禁忌に惹かれていた自分が居た事も確かなんだよ。俺は間違いなくお姉ちゃんの事が好きだったけれど、それには禁忌に惹かれる感情があった事は否めないと思う。本当に好きなら風音に告白する前に、真っ直ぐにお姉ちゃんに想いを伝えるべきだった。どれだけ自信がなくても、俺のそのままの想いを……」

 今度は俺が立ち上がり、お姉ちゃんの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 迷いの無い瞳が俺を見つめている。

 できる限り、俺も迷いなくお姉ちゃんを見つめる。

「それこそが、俺の罪なんだ。赦されない俺の罪……。近親相姦よりも何よりも、赦されてはならない事。それは風音という慰めに頼った挙句、それを拒絶された寂しさからお姉ちゃんに……、すぐ傍にあった優しさに逃げ込んでしまった事。禁忌に惹かれ、想いを言い訳にお姉ちゃんに逃げ込み、それこそが真実だと嘯いて、他人全てを見下してしまっていた事。それだけは、間違いなく俺の罪なんだと思う……」

 そうだ。それこそに俺は迷っていたのだ。

 真美の時も、その事を考えていた。

 だから、真美を拒絶したのだ。

 近親相姦云々という話であれば、真美を受け容れていてもよかった。

 だが、近くの優しさに逃げ込むという行為だけは、繰り返すわけにはいかなかった。

 それだけは確実に間違ってしまっている行為。

 近親相姦よりも、何よりも行ってはならない重い罪だからだ。

「禁忌が間違っているとは限らない」

 俺はお姉ちゃんの肩を掴み、お姉ちゃんの瞳を覗き込みながら言った。

「だけど、禁忌に惹かれてもならない。禁忌だからと言ってただそれを否定するのと同じように、禁忌だからと言ってその行為に惹かれるのも愚かな事なんだ。俺はそれに気付いていなかった。禁忌を否定する人間を馬鹿にして、禁忌に惹かれてお姉ちゃんに逃げ込んでしまっていたんだ。本当にお姉ちゃんの事が好きなら、禁忌や近親相姦など別にして、想いを告げるべきだった。その後の事はその後で考えるべきだったのに」

「それは……、私も同じかもしれないね」

「え……?」

「私は子供の頃から哲君の事が大好きだった。内気で、気が弱い私に、友達を作る喜びを教えてくれた。身体が弱くて、哲君とまともに遊べなかった私から離れないでくれた。きっかけはもう憶えていないけど、私は子供の頃から哲君の事が大好きだったの。それが恋愛感情なのかどうかは、恐くて確かめられなかった。弟の哲君をこんな感情で見ていていいのか、自信がなかったの。だから、私が入院する前の日……。その気持ちを確かめたくて、哲君にキスしたの。少しだけキスをして、確かめようと思ったの……」

「それで、どうだったんだ……?」

「分からない。でも、胸がとても苦しかった。哲君と離れてしまう事と、哲君の唇の感触が忘れられなくて……」

 それは俺も同じだ。あれこそが直接的なきっかけなのかもしれないが、それよりも昔から俺は多分お姉ちゃんが好きだった。もう遠過ぎる過去の話で、本当のところは思い出せもしないけれど……。

「どうして、こうなっちゃたのかな……」

 寂しそうだというわけでなく、ただ遠い目をしてお姉ちゃんが言った。

「私はただ哲君の事が好きだっただけなのに、今は遠く離れてしまって、愛ちゃんや色んな人を傷付けてしまったり……。何が悪かったんだろう。禁忌が悪かったのかな? それとも私達が間違っていたのかな……?」

「分からない……」

 それは分からない。分からないのだ。そして、答えが出る事は恐らくないだろう。

 姉と弟が好き合ってしまったのが悪かったのか、俺達の想いの形の表現の仕方が間違っていたのか。それはもう今更分からないけれど、それを禁忌のせいにしたり、何かのせいにするのは、してはいけないような気がした。自分も含めて、何かの責任を何かに押し付けるのは意味のない行為なのだろう。

 だけど、思った。俺たちのやり方は間違ってしまったかもしれないけれど、またお姉ちゃんとこうして話し合えて、俺は確かに幸福なのだと。何もかも間違っていたのかもしれないが、今のこの瞬間に語り合えた事だけは間違いではないと思いたいと。

 だから、言った。掴んでいたお姉ちゃんの肩を離し、一歩引いて真剣に伝えた。

「俺、思うんだ。何が間違っていたのか分からないけれど、俺たちの関係はあの時に終わったんだ。俺が悪かったのかもしれないし、禁忌に囚われ過ぎていたからかもしれない。とても哀しい事だけれど、俺たちの恋愛関係はあのときに終わってたんだ。もう、どうしようもないくらいに……」

「うん……、そうだね……。でも、その事に反省はあるけど、後悔はしてないよ」

「俺もだ。反省は山のようにある。失敗も数え切れないほどしてきた。でも、後悔はしてない。俺がお姉ちゃんの事を好きだった事は確かで、あんな形でしかないにしろお姉ちゃんと結ばれたのは俺にとって嬉しい事だった。結果、俺たちは遠く離れるしかなくなってしまったけど、それでも……」

 それは多分、姉弟で結ばれる事もあるけれど、結ばれればいいというわけでもない。

 そういう事なんだと思う。

「姉と弟だからじゃないんだ。禁忌だからじゃないんだ。俺は、俺とお姉ちゃんは互いに多くの事を考えて、失敗した。それだけの事なんだな、実際は。他の多くの恋人達と同じように、同じような失敗をして別れる事になっただけなんだ。それに近親相姦や、暴走や色々な意味付けをしてしまっただけなんだ……」

 それが、答えなのだ。

 禁忌の是非はともかく、禁忌を全て取っ払って俺達の関係を考えてみるとすると、ただのよくある陳腐な恋人達の失敗の軌跡が描かれるだけなのだ。虚しいくらい、普通の恋人達の物語になるだけだ。単に若過ぎる妊娠を恐がったよくある恋人達だった。

 その事を考えなくてはならないのだと思う。禁忌が禁忌でないとして、近親相姦が認められるとしたなら、俺達の関係はただの恋人達と何ら変わりのない関係として成り立ち、それ故に普通の恋人達と何ら変わりない終わりを迎える事になるのだ。

 特別でないゆえにありきたり。

 結局のところ、俺たちはそのありきたりの物語に、あれこれと意味を付け足してしまっていただけなのだ。結ばれ、擦れ違い、別れるという、恋人たちの当然の行為に近親相姦という言い訳を付けてしまっていただけなのかもしれない。

 だから……。

「俺達の関係は既に終わってるんだよな。それを確認できて、嬉しかった」

「私も……だよ、哲君」

「だから、お姉ちゃんもいつか俺以外の誰かを好きになるんだろうと思う。それは少し寂しいけれど、喜ぶべき事なんだよな。俺達の関係は二年前に既に終わっていて、俺達はその事をどうしても認めたくなかっただけなんだから」

「好きに……なれるかな?」

「なれるよ、きっと。俺もね、勘違いかもしれないけれど、お姉ちゃんじゃない女の子の事を好きになれるかもしれないって思うんだ。勿論、それはまだそんな気がするだけだけど、それでもお姉ちゃんじゃない子を好きになれるかもしれないんだ。やっと……」

「高橋さんって子の事?」

「いいや、高橋さんじゃないかな。でもさ、だから、お姉ちゃんも……」

「哲君の事しか好きになれそうもないって言ったら、どうする?」

 少し動揺したが、俺はすぐに微笑んだ。

「それもそれ、だよ。もし、これから先にお姉ちゃんがまた俺の事を恋人になりたいほど好きになってくれたのなら、その時はその時にまた話をしよう。姉と弟としてではなく、近親相姦や禁忌でもなく、お互いが本当にお互いの事を好きになってしまったのなら」

「いい考えかもしれないね。ううん、すごくいいよね」

 お姉ちゃんが微笑み、俺も釣られて微笑んだ。

 そんな未来なんてありはしないだろうけれど、そんな未来も悪くはない気がした。

 だけど、その前に俺達にはやらなければならない事がある。

 俺はまたお姉ちゃんから一歩離れて、右手をゆっくり差し出した。

「そのための、お別れだ」

 そう。それは次に繋げるための別れ。

 これは俺達が別れを認められるまでの、足掻きの軌跡を描いた陳腐な物語。

 迷って、誰かを傷つけて、独りよがりに生きていく事しかできなかった酷い話。

 だけど、終わらせるために。

 俺達の関係を終わらせて、これまでの軌跡に別れを告げるために。

 俺達は、別れるのだ。

 笑顔で。

 新たなる一歩を踏み出すために。

 またいつか、二人で笑い合えるために……。

 俺の気持ちを分かってくれたのだろう。

 お姉ちゃんが神妙に頷いて、それから上げた顔は晴れ晴れとした笑顔だった。

 お姉ちゃんの右手が伸びて、俺の右手を握る。

 今度こそ、俺はお姉ちゃんの温かさに怯えない。

 そして、二人して笑い合って……、

「ありがとう、お姉ちゃん。二年前、数ヶ月だったけど、お姉ちゃんと恋人でいられて嬉しかった。多くの事を間違ったし、失敗もしたけれど、お姉ちゃんと一緒にいられて嬉しかった。だから……」

「またいつか二人で笑い合える事を信じて……」

「さようなら、お姉ちゃん」

「ありがとう、哲君……」

 そうして、二人の恋心に本当の別れを告げた。

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