第72話「空気と星」
逢えた。
俺はもう一度、星奈に逢う事ができた。
どんな形であれ、俺はどうにか俺自身の意思で星奈の眼前に立つ事ができた。
多くの人との関係の中で、多くの人を傷付けながらも……。
だからこそ、俺は星奈の前に姿を見せられるのだ。
多くの想いの中で、伝えられなかった多くの言葉を胸に秘めて。
さとみを俺の部屋に見送ってから、俺はさとみの部屋の扉をノックした。
極めて近く、遠かった距離を縮めるために、俺はさとみの部屋の扉を叩いたのだ。
同時に俺の心の中の扉を開くように。
俺の心の扉を開けるように。
星奈によって扉が開かれた時、星奈はとても複雑な表情をしていた。
驚いたような、哀しそうな、それでいて嬉しそうな……。
俺は星奈に話したい事があると伝えて部屋の中に入り、さとみの机の椅子を出して腰掛けた。星奈はさとみのベッドに座り、上目遣いに俺の顔を見つめる。それは二年以上前、俺達が話し合う時にはいつもしていた体勢だった。
息を整える。
大丈夫。さとみに殴られて消え去った怯えは、まだ復活してはいない。
「あの、さ。星奈……」
「哲君」
俺が何かを言うより先に、星奈が俺の顔面を見つめながら心配そうに呟いた。
「何?」
「顔、どうしたの? 何だか痣になってるみたいだけど……」
「そんなに酷いかな?」
そんなに目立つのだろうか。俺はさとみの机の上にあった鏡を覗き込んでみる。
「うわ」
星奈が心配するだけの事はある。
かなり大きな青痣が俺の左頬にくっきりと浮かんでいた。
もう少し手加減してくれよ、さとみ……。
だが、それだけの力で殴られなければ、俺の震えは止まらないという意味でもあるのかもしれないから、さとみを恨む気は全く起きなかった。流石に力を込め過ぎではないかと多少は思うけれども……。
俺は苦笑しながら答えた。
「さとみにね、もっとしっかりしろって気付けを入れられたんだよ」
事実とは少し違うが、まあ、そうであるとも言えなくはないだろう。
「気付け……?」
「そう。鉄拳制裁。さとみ、ああ見えて運動神経がいいからかなり痛かったよ」
「どうして、そんな事をしたの?」
「俺が、情けなかったから」
「え……?」
「俺が情けなかったから、さとみが気合を入れてくれたんだ。星奈と久しぶりに逢って、何も言えずに逃げ出してしまうくらいどうしようもない俺だから、何度も悩んで答えを出したはずなのに心が壊れそうになってしまいそうなくらい、色々な事に怯えてしまっていた俺だから……。だから、さとみが殴ってくれたんだ。いい加減にしろってさ」
星奈はまだ事情を飲み込めないらしく首を捻っていたが、それでも小さく頷いた。
「そうなんだ……、てっきり私は哲君が……」
「半田さんに殴られたかとでも思った?」
驚いた表情で星奈はまた頷いた。
「うん。愛ちゃんが哲君を呼び出して、大喧嘩でもしたのかなって思っちゃった。哲君に逢う事、愛ちゃんには話してなかったんだけど、もしかしたら知ってるかもしれないし、知ってたらきっと哲君の事を呼び出すんじゃないかって思ってたから。哲君、さっきまでどこかに行ってたみたいだしね。それに愛ちゃんってああ見えて怒ると恐いんだよ?」
流石に星奈も半田さんの事をよく分かっている。
事情をよくは知らないだろうに、俺と半田さんに起こった事を言い当てていた。
俺はまた苦笑して、肩をすくめた。
「正解だよ。さとみに殴られる前に、俺と半田さんはファミレスで会ってたんだ。よく分かるよな。流石に親友だと行動が読めるのかな?」
「愛ちゃんと……、会ったの?」
「うん」
「どうして? 哲君達、とても仲が悪いって愛ちゃんが……」
「悪いよ。とても仲が悪いよ、俺と半田さんは。でも、会わなきゃいけなかったんだ。会いたかったんだ、お互いに。会って、話をしないといけなかった。結局、仲直りなんかできなかったけど、それでも会って話せただけで十分によかったと思う」
「どんな事を、話したの?」
「色々言われた。星奈には二度と近付くなとも言われたし、俺みたいな人間は最低だとかそんな事を色々と言われたよ。酷い言われ方だった。本気で憎まれているんだなって思えるくらいに。辛かった。胸が抉られて、叫び出したくなるくらいに哀しかった。だけど、頭の片隅で妙に納得もしていたんだ。半田さんの言う事は全く正しい。半田さんの言っている事は完全な正論で、俺には反論の余地もないって……」
星奈は何も言わなかった。半田さんは気付いていないだろうが、半田さんの言葉は星奈に対するものでもあったからだ。恐らく細かい部分は違うにしても、俺と星奈の考えている事は同じなんだろうと思う。
俺達の考えは殆ど同じなのだ。
だから俺は星奈に逢いに行けなかったし、星奈も俺に逢いに来られなかったのだろう。
俺達は同じ想いだから。
きっと出してはいけない答えを出してしまっている二人だから……。
それ故に半田さんの俺への反論は、星奈に対するものでもあったのだ。
そのつもりが無くても、俺を否定する事は星奈を否定する事にも繋がるのだ。
俺達はきっと間違っている。世界を裏切る答えを出してしまっている。
一つ吐息を漏らしてから、俺は静かに星奈に訊ねた。
「なあ、星奈……。俺が話す前に、一つだけ訊いておきたい事があるんだ」
「うん、いいよ」
「近親相姦って罪なのかな? 血の繋がる者達が愛し合ってしまうのは、本当に重大な罪なのかな? 俺はずっとその事を考え続けてきた。多くの出さないといけない問題の中でも、それが特に俺の頭から離れない問題だったんだ」
星奈は押し黙る。
言葉にしていいものかどうか、多少は迷ってしまっているのかもしれない。
暫く経って、ようやくの事で星奈が口を開いた。
「多分、私の考えは哲君と同じだと思うよ。だから、私は哲君に逢いに来たし、哲君も今こうして私に逢いに来てくれたんだと思うんだけど……、どうかな? 私、間違ってるのかな?」
「いや……」
俺はかぶりを振った。
「多分、そうだよ。これから俺の考えている事を言うけど、間違ってたら言って欲しい。数時間前、俺は星奈の前から逃げ出した。星奈が俺との関係を後悔してないって言ってくれたのが逆に恐くなったんだ。俺は今日星奈と再会するまで、全ての罪は俺にあるんだと思おうとしてた。それはあながち間違ってはいないけど、そうする事で逆にひとつの問題から逃げてたんだと思う。つまり、近親相姦の問題から逃げてたんだって。俺が慰めのために星奈を利用した事こそが罪で、近親相姦はあまり関係がない事だって。勿論、それはそれで正しくて、星奈に逃げ込んでしまった事こそが俺の大きな間違いなんだと思う。その考えは間違ってはいないはずだ。でも……、その事ばかりに囚われてもう一つの重要な問題から逃げていたんだ。それは……」
息苦しくなってくる。
自分自身の想いの深さに潰されてしまいそうだ。
鼓動が激しくなり、喉の中が渇き始める。
この事を考えると、いつも俺に襲い来る発作の如き症状。
だけど、俺はさとみに殴られた青痣を自分で抓り、その痛みで発作と戦った。
所詮、この発作は肉体が勝手に感じている反射に過ぎない。何かを恐れてしまっている弱い自分の心が生み出す、逃げ出したい側の人間の弱々しい心理。これまで俺はその弱い自分に負けてしまっていたが、今日は、今日こそは敗北してしまうわけにはいかない。
だから、抓る。
俺だけでは或いは勝てないかもしれない発作。
でも、一人ではなく二人で戦えば。
さとみが与えてくれた想いと一緒に戦えば、発作に打ち克てるかもしれない。
いや、打ち克たねばならない。
「それは……」
息を潜め、鼓動と戦う。
「それは俺が星奈を……」
落ち着かせる。
痛みと発作で眩暈がしそうになりながらも。
「俺が星奈をどう思って……」
そして、全ての想いを解き放つ。
「いや、俺がお姉ちゃんの事を、本当はどう思っていたのか? その事実。俺はその事実から逃げ出してしまっていた。何故なら、その答えはとうの昔に出てしまっていたからなんだ。出てしまっていたのに、恐くて言葉にできなかったんだ。つまり……」
だから俺は言うのだ、星奈……、いや、お姉ちゃんに。
「つまり俺はお姉ちゃんの事が大好きだったんだって事を……! そして、独りよがりな答えかもしれないけど、近親相姦は罪なんかじゃないって考えてるって事を……!」
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