第71話「形のない街を目指して」

 雪の降る街の中、半田さんをレストランに置いて、俺は自宅へ戻ろうとしていた。

 俺の伝えるべき言葉を、伝えるべき想いを、ようやく言葉にする決心を胸に抱いて。

 考えてみれば、俺は遠回りと回り道ばかりしていた。

 同じ思考の螺旋から抜け出せなくて、どうにか足掻いて、それで結局、同じ事ばかりを繰り返していた。それは永遠の螺旋。或いは抜け出せない無限の迷宮。時にはそんな気までしてくる事すらあった。

 重ねたのは自己満足と自己嫌悪。

 居たのは他人を傷付ける自分と、その事に傷付いてしまう自分だけ。

 愚かで情けない連鎖だった。

 自分で自分の傷口を広げてしまうだけの、虚しい連鎖だった。

 それでも、それは無駄ではなかったと俺は思いたい。

 愚かだったけれど、無駄にはしたくないこれまでの生活。

 それは俺という人生の軌跡。

 星奈を好きになって、風音に逃げ込んで拒絶されて、暴走して星奈への想いを遂げ、別れを告げられて引きこもりになり、山根によって外に連れ出され、馬鹿な仲間達と馬鹿な事ばかりやって、いつの間にか親父が再婚して義理の姉妹が三人も増えて、半田さんと再会し、俺の秘密を知った半田さんに嫌われ、高橋さんとの楽しい生活に浮かれ、それでも星奈をたまたま見かけるだけで心が壊れそうな自分を見つけ、自分の心に正直になれずに高橋さんとの関係がうやむやになり、真美を拒絶して、姉貴と喧嘩をしてしまい、傍に居た風音と遠く離れ、それでもさとみとの生活に安らぎを見つけながら……、そうして、再会してしまった星奈に対して何を言えばいいのか分からずに悩んで、だけど、伝えなければ俺は前に進めなくて……。

 全てはこの後の時間のために、愚かな行為を繰り返してきたのだと思う。

 星奈との答えを出す、この時のために。

 分かっていたはずだ。連鎖は続かない。

 この世界に楽しい事が無限に続かないように、辛い事が永久に続く事もない。

 連鎖はいつか途切れ、何らかの答えの形が連鎖を起こす本人に訪れる。

 それが、いいものであれ、悪いものであれ……。

 だから、伝えなくては、と思う。

 伝えてどうなるものでもないけれど、伝えなくては何も始まらない。

 伝えたところで、俺と星奈の物語にハッピーエンドが訪れないのは分かっている。

 いい事は何も無いし、伝えない方が俺達姉弟にとってはいい事なのかもしれない。

 決して幸福には繋がる事のない、俺達の関係。

 だけど、俺は伝える事で清算せねばならない。いつまでも続く物語に意味は無い。永遠なんて何の意味も無い。終わらせなければならない。どんな陳腐なラストだろうと。訪れるのが俺の予想と違わぬバッドエンドだろうと。

 そして、俺は家に辿り着く。

 自宅の電気は消え、鍵も閉まっていた。

 だが、部屋の灯りは点っているので、星奈はまだ起きているだろう。

 俺は自宅の鍵を開け、廊下の電気を点けて、さとみの部屋の前にまで急ぐ。

 すぐに辿り着く。当然だ。さとみの部屋は一階なのだ。急がなくてもひどく近い。

 さとみの部屋の扉の前に俺は立つ。

 扉をノックしようとして、途端に俺の胸が激しく鼓動し始めた。

 息苦しい。冬だというのに冷や汗が噴き出してくる。

 それは何度も俺の行く手を阻んだ、俺自身の弱さの鼓動。

 頭では分かっているはずなのに、神経障害のように身体中が痙攣する。

 何かに怯えてしまって、俺の身体は俺の命令を全く受け付けなくなっている。

 進めない。

 さとみの部屋の扉の前に突き出した拳を動かせず、後退もさせられず、時間が無駄に浪費されていく。これでは駄目だと思うのに、俺の中の弱い俺自身がこれ以上傷付くなと逃げ出させようとする。情けない、まったく情けなさ過ぎる俺自身。

 泣けてくるほどに、どうしようもない俺自身。

 何かをしなければならないと誓った気力が、見る見るうちに萎んでいく。

 畜生、畜生、畜生……!

 くそっ、くそっ、と呟いた。

 何もできない自分を叱責して、嘔吐しそうなほど緊張している自分を奮い立たせる。

 これでは何の為に俺がここまで生きてきたのか、何の答えも出せなくなってしまう。

 それでも、動けない。

 トラウマみたいに思い出してしまう星奈の顔が、俺の気力を抉り取っていく。

 これではまた繰り返しだ。永遠に続く繰り返し。続けてはならない永遠……。

 また、駄目なのだろうか。結局、俺は何もできないままに、全てを終えてしまうのか。

 と。

「兄さん」

 唐突に後ろから肩を叩かれた。

 振り向かなくても分かる。さとみだろう。トイレにでも行っていたのだろうか。

 俺は情けない顔と、動かせない情けない身体のままで、緩慢に後ろに振り向いた。

 さとみは自分の部屋の前で立ちすくむ俺の姿を見て、何と言うのだろう。こんな情けない俺の表情と姿を見て、何を思うのだろう。何故かその事が気になって仕方なかったが、振り向かないわけにはいかなかった。

 情けない。情けなさ過ぎる俺は……。

 だが、振り向いた途端。

 左頬に大きな衝撃が来た。

 かなりの鈍痛。ドッジボールの球が顔面に当たった時のような鈍い痛み。

 頭から考えていた事の全てが抜け出していくような感覚。

 さとみに殴られたのだと気付いたのは、それから十秒は経ってからの事だった。

「痛っ……! いきなり何するんだ、さとみ!」

 俺は左頬を自分の左手で擦りながら、目の前で顔を俯かせているさとみを非難する。

 それに対してさとみはしばらく何も言わなかったが、俺の本気で痛そうな素振りを見て取ると、俯かせていた顔を上げて真正面から俺を見つめた。一体、どんな表情で俺を殴ったのだろうかと思っていたが、さとみの表情は俺の予想していたような憤怒の表情ではなく、また哀しそうな表情でもなく、今まで見た事もない意外な表情を浮かべていた。

 さとみは晴れやかに笑っていたのだ。

 パジャマ姿で、三つ編みを解いてはいるが普段どおりの眼鏡姿で。

「な、何を笑っているんだよ……」

 あまりに意外な展開に少し腰を引かせながら、さとみにおずおずと尋ねる。

 まったく悪びれた様子も見せず、さとみは非常に楽しそうな表情で応じた。

「緊張は治まりましたか、兄さん?」

「え……?」

 言われて初めて気が付いた。

 さとみの言うとおり、あれだけ俺を苛んでいた震えがどこかに消えている。

 突然殴られたことに動揺して、頭が真っ白になってしまったからかもしれない。

「さとみ、おまえ……」

「だって、兄さん。トイレに行って戻って来たらいつの間にか兄さんが帰って来ていて、しかも私の部屋の前で五分以上も悩んでるみたいじゃないですか。どう声を掛けようかってずっと見てたんですけど、兄さんたら私に用があってそんなに緊張しているとは思えなかったですし、星奈さんに何か言いたい事があるんじゃないかと思いまして……」

「何を知っているんだよ、さとみ?」

「いいえ。何も知りませんよ?」

「でも、さとみ。おまえが家族を説得して、星奈を無理矢理自分の部屋に泊めたんじゃないか。一体、星奈に何の用があったんだ……?」

「何もありませんよ。ただ兄さんのお姉さんの星奈さんに興味があっただけです。兄さんってば、星奈さんの事を今まで全然話してくれなかったじゃないですか。興味を持つなと言う方が無理ですよ」

 さとみの言う事は筋が通っていたし、嘘を言っているようにも見えなかった。

 星奈を部屋に泊めたのは、本当にただ興味があったからなのかもしれない。

「星奈と……、何を話したんだ?」

「気になりますか?」

「少し、ね」

「特に何も話してませんよ。兄さんの小さい頃の話とかを聞いていただけです。それにもしも私が聞いたとしても、兄さん達に何があったのかなんて話してくれるはずないじゃないですか。そうですよね?」

「俺達に何があったか……って?」

「兄さん達の間に何かあったんですよね? 見れば分かりますよ。兄さんがお姉さんの話を今までしてくれなかったのもそうですし、兄さんが秋子姉さんを姉貴って呼ぶのに、お姉さんだけ呼び捨てで呼ぶのも何か意味があるように思えましたし。多分、母さん以外は星奈さんと兄さんに、昔何かがあったんだろうって気付いていると思いますよ?」

 それはそうだった。俺達の態度を見れば、誰だって違和感を覚えるだろう。

 さとみは続けた。

「それに……」

「それに?」

「それに加えて、兄さんが私の部屋の前で硬直してるじゃないですか。こんなの推理にもなりませんよ。誰だって、兄さん達に何かがあったんだろうって気付きます」

「そうか、そうだよな……。でも、それで俺を殴ったと?」

「緊張していたみたいでしたからね。いい気付けになりました?」

「ああ……」

 言いながら、俺は自分の左頬を撫でた。

「確かに、緊張は吹き飛んだ。それどころじゃなくなったよ。でも……」

「はい?」

「何も拳で殴る事はないだろう。そういう時は平手だろう、普通……」

「拳の方が効果あるかなと思いまして」

 そこまで会話を進めても、珍しくさとみからは不自然な雰囲気が感じられなかった。

 何故かとても自然だ。初めて演技でも何でもない素のさとみの表情を見た気がする。

 それに確かにさとみの言う通りだった。

 俺の身体をあんなにも苛んでいた震えが、俺の精神をあんなにも長い間侵し続けていた痙攣が、馬鹿らしいくらいに無くなってしまっている。本当に馬鹿馬鹿しいくらいに。こんなにも簡単な事だったのかと、自嘲してしまいたくなるほどに。

 結局、俺を縛っていたのは、本当の意味でも弱い自分だったのかもしれない。

 それはこんな単純な事で忘れ去ってしまえるほどの、取るに足らない小さな悩み。

「ほら、兄さん」

「何だ?」

「星奈さんと話があるんでしょ? 行かないんですか?」

「え?」

「話があるのなら、早く終わらせてくださいね。明日も早いんですから」

「おまえなあ……、そんな簡単に……」

「簡単ですよ。話したい事があって、話したい人がすぐ傍に居るんですから」

「そんなものか?」

「そんなものです。人間、いつ死ぬか分からないんですから、話したい事があって話したい人が居るのなら話すべきなんだと思いますよ? 言うのは簡単だから言っておきます。実を言うと私も兄さんの事はそんなに言えませんけれど……」

「そうだよな……、話せる事は話しておかないとな……」

「それに、兄さん?」

 それからさとみは意外な事を上目遣いで言った。

「その為に兄さんは真美の告白を断って、姉さんと喧嘩したんですから」

「……何で知ってるんだ」

「どうしてですかね? でも、だからこそ、兄さんにはきちんと星奈さんと話して欲しいです。真美の為にも、姉さんの為にも、……ついでに私のためにも」

「ああ……、話さないと、今までの事に意味がなくなるもんな……」

 言って、俺は頷く。

 その為に、俺はここに居るのだから。長い回り道をして、ここに来たのだから。

 傷つけてしまった真美のためにも、喧嘩をしてしまった姉貴と半田のためにも。

 そして、辛い時、何故かいつも傍に居てくれているさとみのために。

 俺は、話すべきなのだ。

「それじゃあ、兄さん。私は兄さんの部屋で待っていますから」

「ああ……」

 呟いてから、俺の部屋に向かうさとみの後ろ姿に、最後の疑問を俺はぶつけた。

「どうしてそんなにまで、俺にしてくれる? さとみに何もしてやれてない、俺に」

 すると、やはりと言うべきか、さとみはいつも通りの答えを返してくれた。

「いつも言っているじゃないですか。私が兄さんを愛しているからですよ」

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