第12話「私らしく」

 自室でゲームをするのにも飽きて、そろそろ宿題でもやるかと思っていると、珍しく俺の部屋の扉が叩かれた。

 実はこれはかなり珍しい現象だ。親父を筆頭に、母さん、姉貴、真美は殆どノックなしで俺の部屋に侵入する。そして、残ったさとみも稀にしかノックをしない義妹なので、どうにも油断がてせきない。礼儀のなっていない家族達である。まあ、俺もあんまりノックはしない主義なんだけど。

 しかし、こんな時間に誰なのだろうか?

 思いながら俺は扉を開いた。

「こんばんは、お兄ちゃん」

「……ああ、どうした、真美? 何か用か?」

 扉の前に立っていたのは意外にも真美で、俺は応じるのに少し時間を掛けてしまった。

 普段の真美と異なり少し控えめな態度が目立ったからだ。風呂上がりなのかツインテールの髪を解き、ストレートにした髪型から大人びた印象を受ける事もあるかもしれない。普段の天真爛漫な雰囲気が全く無かった。

 その姿は、そう、たまに髪を解くさとみと酷似していた。

 似ていない様に思える姉妹だが、それでも姉妹には違いないという事なのだろう。

「ちょっといいかな、お兄ちゃん?」

「いつも勝手に入ってくる奴がいいも何も無いだろ。入ればいいさ」

 何故か真美は遠慮がちに、俺の部屋に身体を滑り込ませた。

 普段ならば俺の布団に無理矢理入って添い寝を要求するくらいの事はしているはずなのだが、今日に限ってはそういう事は無いようだった。何処となく普段の真美と異なる。外見だけでなく、内面まで別人と化してしまったかのようだ。

 座る場所に困ったのだろう。真美は視線を散漫とさせて、俺の部屋を見渡していた。

 真美の手を引いて俺の布団に座らせてから、俺は小学生の頃から使っている学習机の椅子に腰を掛けた。こんな時くらいにしか、俺は学習机の椅子を使っていない。たまに勉強をする際にも、布団に寝転んで勉強しているからな。

「どうかしたのか、真美? 改まってさ」

「えっと……」

 真美はやはり口ごもる。

 何か重大な話でも切り出すつもりなのだろうか。

 口ごもる真美が頭を振る。漆黒の真美の長髪が靡く。

 流れる髪、星奈と同じ様な……。

 上目遣いに俺を見上げる真美の姿は、普段よりも華奢に感じた。

「お兄ちゃん、あのね……」

 唐突に話が再開された。俺は慌てて真美の髪から顔へと視線を戻した。

「どうしたんだ?」

「今日、お兄ちゃんが私のラブレターを断ってくれたって、秋子お姉ちゃんが……」

「ああ。そういえば……、そうだな」

 真美に言われて、俺はそういえばそんな事もあったな、と思い出した。ほんの数時間前の出来事なのだが、先刻までゲームの展開に盛り上がっていてそんな出来事などすっかり忘れ去ってしまっていたのだ。

「そうだよ。今日の放課後、姉貴に言われて断っておいたんだけど……。それがどうかしたのか? 何か困った事でも起こったのか?」

 疑問に思い、俺はゆっくりと真美に訊ねた。

 会長の事はともかく、真美は俺に何を訊きに来たのだろうか?

 俺が怪訝に思っていると、真美は目を下に逸らしてから小さく呟いた。

「……今日はありがとう、お兄ちゃん」

 少し面食らった。真美が礼の言葉を口にする夢にも思ってもいなかった。どうやら会長の件は、真美にとって余程気になっていた事だったらしい。だからこそ姉貴にも相談したのだろうし、姉貴が俺にその話をしたのだろう。

「まあ、気にするなって。これくらい言ってくれればやるからさ」

 俺は少し照れて頭を掻いた。何となくこそばゆい感じがする。

「何だかんだ言って、俺は『お兄ちゃん』らしいからな」

「え……?」

「姉貴が言っていたんだ。妹の為に戦ってこそ『お兄ちゃん』だぜ。とかそんな感じの事を言われたよ。屁理屈だったけど、それはそうかもしれないしさ。だから、俺は俺の考えで会長に断りの伝言をしたんだ。真美が気にする事じゃないよ」

 お礼に姉貴からキスをされてしまった事は秘密にしておいた。

 別に知られても問題ないだろうが、何となく言葉にはしにくかった。

「そうなんだ……」

 真美が更に顔を伏せ、俺も同じ様に顔を伏せてしまった。

 そのまま真美は何も言わず、俺も何となく言葉を出せなかった。

 甘ったるく気恥ずかしい空気が俺の部屋に流れる。

 何だよ、この空気は。……苦手だ、こういう雰囲気は。

 俺はその甘ったるい空気を振り払うため、語気を変えて明るく言った。

「そういえば真美は誰か好きな男子とかいるのか?」

「どうして?」

「会長はまああれな人だけど、顔はいいし性格もそこそこいい。それにうちの学校では結構アイドル的存在らしいぜ。だから、ワタクシとしては、会長の誘いを断ったのはやっぱり好きな奴とかいるからかな、とか思ったわけですよ」

 実は誰々君が、とか言うかと期待はしたが、しかし真美は沈黙していた。

 言葉を詰まらせ、困った様に苦笑を浮かべている。

「うーん……」

「どうした? いないのか?」

「いないなあ……」

「じゃあ、どうして会長の誘いを断ったんだ?」

「友達に会長さんが誰なのかを教えて貰って、お兄ちゃんの学校まで見に行った時、会長さんって何となく怖かったんだもん……」

「あー……」

 凄く納得。

「お兄ちゃんも話してて、あの人、怖くなかった?」

「俺も怖かったよ」

「やっぱり?」

「会長、『俺はもう年頃の女は信用できない』とか言ってたしなぁ……」

「怖いよぉ……」

「そう言うなよ。俺も怖いんだから」

「あれが本当のロリコンって言うんだよね?」

「そうだぞ。おまえは俺をロリコンと言い張るが、彼こそが真のロリコンというものだ。俺など彼の足下にも及ばない。俺ではなく彼が義兄だったら、間違いなく手籠めにされていたぞ。俺が義兄でよかったな」

「うええ……」

 真美が今にも泣きそうな表情で呻く。

 俺は、よしよし、と真美の頭を撫で、気分を少し落ち着けてやった。

 その後、気分が落ち着いたらしい真美が根本的な疑問を口にした。

「だけど、どうして会長さんってロリコンなのかなぁ……?」

「会長にも色々あったんだよ……」

 さくらんぼ狩りに弄ばれたからなんだよ、とは会長の名誉の為に言わずにおいた。

 と言うか、そんな発言したくないが。

「お兄ちゃんはロリコンじゃないの? 私だけお姉ちゃん達より仲良くしてくれてるみたいだし……、それはロリコンだからじゃないの?」

「その発言は真に遺憾だ。全く心外だ、真美。年上好きなのですぞ、この山口哲雄君は」

「そうなの? じゃあ、秋子お姉ちゃんが本命なの?」

「本命とか何だとか言うなよ。俺達は姉弟だぞ?」

 言いながら、俺は自分で頷いた。

 そう。姉貴と俺は姉弟であり、真美と俺は兄妹なのだ。

 それ以下でもなければ、それ以上でもない。それが俺達の関係なのだ。

 それでいいのだと、俺は思う。

 だけど、真美は問うのだ。俺への絶望的な問いを。無邪気に。無自覚に。

「そんなものなの……? じゃあ、お兄ちゃんって他に好きな人いるの?」

 俺は言葉に詰まった。

 いる、とは言えなかった。

 いない、とも言えなかった。

 俺の胸の中には、忘れられない彼女がいるから……。

 忘れるべき彼女が在ってしまっているから……。

 だから、俺は苦笑して肩を竦める事しかできなかった。

「いないの……?」

 それ以上真美にこの話に深入りして欲しくなかった。

 真美に俺の過ちを知られたくはなかった。

 俺は語気を少し荒くして、無理矢理に話題を変える。

「そう言うおまえだっていないじゃないか、真美」

「だって……、男の人って……、怖いんだもん」

「怖い……?」

 男が怖いと言われ、俺は少し首を捻った。

 俺としては女の方が明らかに恐怖の対象なのだけれども。

 だけど、そこで俺は気付いた。男にとって女は得体の知れない生物であるのと同様に、女にとっても男こそ得体の知れない生き物で恐怖の対象なのではないかと。異性という存在は、どうしても恐怖の対象にしかなり得ないのではないかと。

 特に真美はまだ幼い。

 歳も幼いし、精神もまだまだ小学生の如きものだ。

 そんな小学生の様な真美を恋愛対象にする人間など、真美にとっては恐怖以外の何物でもないに違いない。女性は腕力では決して男に勝れない。更に相手の会長は自分よりも明らかに年上の男。俺が真美の立場ならば、やはり男が怖くなるだろう。

 それは真美に限った話ではないだろう。

 会長がさくらんぼ狩りに弄ばれたように、俺が過ちを犯してしまったように、誰もが様々な哀しい出来事を経て、恐怖の対象を得ていく。それが現実であって、受け容れていかねばならない事なのだろう。

「難しいな……」

 俺が小さく呟くと、それに同意するように真美が頷いた。

 悩んでいるのは俺だけではない。断じて俺だけではない。

 誰もが悩んでいる。怯えている。多くの事に。多くの人に。

 不意に真美が立ち上がり、俺の腕を取った。

「ところでお兄ちゃん?」

「どうしたんだ?」

「今日も添い寝してくれる? まだ色々、話したい事があるの」

「断らせてくれよ」

「駄目。了承してくれないと、絶対この手放さないんだからね、私」

「分かったよ……。まったく、男が怖いって言ってたくせに矛盾してるぞ」

「お兄ちゃんは別だよ。だって……、『お兄ちゃん』なんでしょ?」

「はいはい」

 無愛想に頷きながら、俺は別の事を考えていた。

 そう。先刻考えたようにやはり考える頭を持っているのは、何も俺だけというわけではない。真美も何も考えていないようで考えていて、天真爛漫な雰囲気を纏いながらも、必死に呻くように生きているという事を忘れてはならないのだと。何処にでも人間の生活はあって、誰もが悩んでいるのだ。悩んでいるのは自分だけだと思うのは、自分こそが世界の中心だと考えている事と同義なのだと。

 自分を『真美』ではなく、『私』と呼ぶ真美の姿を見ながら、俺はそんな事を考えた。

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