第10話「コイゴコロ」

 帰宅後。

 俺が部屋の寝転んでいると、唐突に家の中が騒がしくなった。

「たっだいまー! 親父様ただ今ご帰還だぞー!」

 普段通り喧しい声が家中に響く。

 確かめるまでもない。俺の親父が帰還したのだ。

 しかし、確か母さんは今買い物に行っていて、姉妹達もまだ学校から帰ってきてはいないはずだ。よって親父の帰還の声も虚しく家の中に響くのみだった。何となく可哀想な気もしたが、まあ、たまにはそういう日もあると思って諦めてくれ。

 そう俺が思っていると、またも突然に俺の部屋のドアが開かれた。

 勿論、親父の奴だった。いい年してノックも無しとは非紳士的な中年だ。

 親父は俺の姿を認めると、寂しそうに小さく呟いた。

「てっちゃーん……。お母さんと娘たちは居ないのかい?」

「四十路超えたおっさんが息子をそんな名で呼ぶな、気持ち悪い」

「いいじゃないか。俺とてっちゃんの仲だろう?」

「……どんな仲だよ」

「……うーん、父と息子の禁断の関係?」

「勘弁してくれ」

「愛想のない息子だ。小さい頃はお父さんお父さんって、甘えんぼで可愛かったのに」

「昔を持ち出すな、今の俺を受け容れろ」

「残念」

 親父が俺の椅子に座り、情けない顔になった。

 どうやら拗ねたらしい。四十過ぎの親父が息子にそんな態度を取らないで欲しい。これが俺の親父なのかと思うと、何だか哀しいような、哀しいような、哀しいような気分になる。……哀しさしかないか。

「それでお母さんたちは?」

 もう拗ねるのに飽きたのか、親父が語調を明るく変えて俺に訊ねる。

「母さんは買い物に行っているよ。妹達は知らないな。多分、まだ学校に居るんじゃないかな? よく知らないけど。姉貴の行方はもっと知らないよ。いつも通り街を遊び歩いているんだろうけど……」

「そりゃ寂しいなぁ。女性陣、早く帰って来ないかな?」

「何だ、その言い種は。家にいるのが俺だけじゃ不満か?」

「不満だな。だって、もうてっちゃんとは飽きるほど遊んだしさ」

「どういう理論だ、親父……」

「あっはっは。気にしない、気にしない。まっ、てっちゃんだけでもいいか」

 不意に椅子から立ち上がった親父は、寝転んだままの俺に近寄って来た。

 一体、何をする気なのだろうか、とは思ったが、俺は微動せずに親父の行動を待つ。

 動くのは良策ではない。下手に反応すれば親父を喜ばせるだけなのだ。

 だが、俺の予想と反し、親父は俺の近くに来て俺をじっと見下ろすだけだった。

 よかった……。

 どうやら今日はキャメルクラッチも変形カベルナリアも来ないようだ。

 実は俺の親父はプロレスラーだ。リングネームはレイモンド・クリスタラー。真面目なのかふざけているのかよく分からない名前だが、それなりに人気はあるらしい。流派は骨法。たまには大手の団体と興行もしているようだし、親父の実力はプロレス界ではそれなりに有名なのだそうなのだ。いや、俺は直接親父の試合を見た事はない。家族のプロレスの試合なんて、何となく恥ずかしいじゃないか。

 だが、そのためか親父は暇になると息子の俺を残酷非道な関節技の実験台にする。

 俺が親父に隙を見せた途端、即プロレス技が来ると思ってもいいくらいなのだ。

 ……何て親父だ。

 更に俺だけならまだしも、たまに母さんにまでプロレス技を仕掛けている。

 前の母さんにも、今の母さんにも……。まったく、どういう夫婦関係だ。まあ、前の母さんも今の母さんもそれが幸福らしいので、愛情表現は人それぞれなのだろうな、とも思わなくもない。俺への愛情表現は要らないが。

「何だよ、親父……」

 プロレス技は来なかったものの油断はできない。

 俺はじっと親父の行動を待つように身構えた。

 すると親父は口端を歪め、実にろくでもない事を俺に向かって言い放った。

「てっちゃん、一つ訊いていいかい?」

「何だよ、気色悪いな……」

「娘達の中で誰が一番好みなんだい?」

「はあっ?」

 本当にろくでもない事を訊いてくれる。

 俺が呆れた顔をしていると、親父は何故か不機嫌そうに頬を膨らませた。

「何だよ、乗りが悪いなぁ……。一つ屋根の下に血の繋がっていない年頃の男女が一緒に住んでるんだぜ? 恋愛感情とか、いかがわしい感情とか、そういう情けない性衝動を胸に抱くのは、男として当然の事だろう!」

「どうしてそうなるわけ?」

「え……? ないの……?」

 俺が興味ない素振りで呟いてやると、何故か親父が非常に寂しそうな表情を浮かべた。

 俺は親父のその表情が少し気になったが、理由を聞けるわけもなく、続けて吐き捨てる様に言う事しかできなかった。

「ないなぁ……」

「どうして……?」

「ないものはないんだから、仕方ないじゃないか……」

 言っていて、少しだけ俺は泣きたくなった。

 親父の言わんとしている事はよく分かる。

 こんな状況で義理の姉妹に興味を持たないだなんて、その方がどうかしている。

 それは分かっている。俺だって分かっている。彼女達と付き合うとまではいかないにしても、少しくらい恋愛対象とかそういう目で見ても誰も文句は言わないだろうし、むしろそれが正常なのだろうと思う。

 だけど、俺にはそれができない。

 姉妹達だけでなく、うちのクラスの女子たちに対しても、それができない。

 しようとすると、俺の中の誰かが止めた。

 また同じ過ちを犯したいのか。また誰かを傷付けて、自分も傷付きたいのか。

 そう、俺の中の誰かが言うのだ。

「じゃあ、クラスの女の子達に好きな女の子とかいないのかい……?」

 不安な表情で親父が言うが、俺はそれに対しても不躾に反応する事しかできなかった。

「そんなの、いるもんか」

「誰とも付き合う気はないのかい?」

「ないよ……。別に俺はクラスの女子達を恋愛対象として見た事はないし、女子達だって俺に恋愛感情なんて抱いてないよ。面白がられてはいるみたいだけどさ。それに姉妹達と恋愛に堕ちることもない。……姉妹達は別に俺の事が好きなわけじゃないよ」

「分からないよ、てっちゃん? もしかしたら誰かがてっちゃんに惚れてるかもよ?」

「……ないさ」

 言うと親父が溜息混じりに小さく呟いた。

「俺が君くらいの年の頃にはたくさん恋をしてたもんだけどさ……」

「悪いけど、昔の親父の人生と俺の人生は何も関係ないだろう?」

「それはそうなんだけど……」

 親父はそれ以上何も言えないようで、俯いて頭を掻いていた。

 だけど、それは親父が悪いわけではない。

 俺が、悪いだけだ。

 俺が、後先考えずに生き急いでしまっただけだ。

「そういえば、親父?」

 沈黙に耐え切れず、俺は気付けば親父に訊ねていた。

「俺の恋愛云々もいいけどさ、どうして親父は母さんと結婚したわけ?」

「母さんって言うと、小麦ちゃんかい?」

「ああ、その小麦ちゃんだよ」

 本当は前の母さんと結婚した理由も聞きたかったのだが、それはまあ、今度としておこう。前の母さんの思い出は、今はあまり思い出したくない。辛い思い出があるわけではないが、何となく思い出したくはない。

「気が付いたら、だね」

 遠い目をした親父が、何かを思い出すみたいに小さく囁いた。

「気が付いたら……?」

「そうだね。母さんと離婚してから……、俺は小麦ちゃんと出会ったんだ。彼女とは会った時から気が合って、一緒にいると楽しいのは間違いなかったんだけど、まさか結婚するなんて思ってもみなかったよ。何となく……、いつの間にか……、気が付いたら、小麦ちゃんは俺と再婚してくれる事になったんだ」

「え……? 小麦母さんの方から親父に……?」

 意外だった。

 てっきり親父から小麦母さんに結婚を申し込んだんだと思っていたのだが……。

 それを俺が口にすると、親父が何故か申し訳なさそうな笑顔になった。

「そうさ。本当は再婚なんて考えてもみなかったからね。だけど、彼女は俺に言ってくれたんだ。やり直せる……って。逃げる事ではなく、その場に身を置く事で何かを見つけられる事もある……ってさ」

「そう……なのか?」

「やり直す……ってのは、俺が……ってわけじゃないよ。俺達が……。俺も、てっちゃんも……、やり直せる。そういう事なんだ。分かる? その意味?」

「……さあな」

 そう口に出しはしたが、本当は分かっていた。

 やり直す。その為に小麦母さんは親父と結婚してくれたのだという。

 他の何のためでもなく、立ち向かう事でやり直せるように……。

 やり直せる……のだろうか?

 俺には分からない。

 ただ、護りたい、とは思う。色々な物を。

 もう一度手にする事ができた家族という物を……。

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