第9話「ここまでおいで」
いつにも増してひどく疲れてしまった。
俺は深い溜息をこぼしながら、寄り道もせずに帰路に着いた。
帰路ではうちの姉妹達とは出会わなかった。
別に珍しい事ではない。
姉貴はと言えば放課後は毎日飽きもせずに街に繰り出すし、さとみは世渡りの上手い女だからか委員会なんかに入っている。残った真美も中学で女子テニスをしているらしい。まあ、そういうわけで、俺は大抵いつも一人きりで下校する。
友人が居ないわけではないが、悪友連中は部活動をしていたり、自転車通学だったりするので、徒歩で帰宅部の俺の帰路に付き合ってくれる親切な奴はいない。これを悪友の薄情と責めてはいけない。同じ状況なら俺だってこんな面倒な奴と帰宅はしない。
帰宅途中、真っ赤過ぎるほどの夕焼けの中で俺は風音を見掛けた。
でも、俺は風音に声を掛けはしなかった。
声を掛けようとも思わなかったし、掛けられる状況でもなかった。
風音は恋人の青木と楽しそうに談笑していた。
少しだけ俺の情けない胸が痛くなる。
勿論、それは俺のせいであり、気にするほどの事ではない。
ただ、この状況を邪魔しようものなら馬に蹴られて地獄に堕ちてしまうだろうし、彼らの仲睦まじい雰囲気を壊すほど俺は無粋じゃない。俺は遠くから風音たちを見ながら、過去の出来事に少しだけ思いを馳せていた。
今は遠いあの日、俺が風音に告白したあの日の事だ。
二年前、中学校を卒業する直前のあの日、俺は風音に告白した。
それは心からの行動だったし、ない勇気を精一杯振り絞っての告白だった。
ただし、好きだ、と言ったら笑われた。
あんたは恋愛対象にならない。あんたは弟みたいなもんだから。
そういう事を言われ、俺の初恋は終わった。
いや、初恋だったのかどうかは今でも微妙なところだ。確かに俺は風音の事が好きではあったが、それが恋愛感情だったのかどうかは今でもよく分からない。俺には恋愛感情というものがよく分からないのだと思う。
とにかく俺は風音に振られて以来、特に女性関係もなく今までやってきた。
別に女が嫌になったわけではない。好きになってはならないと思うだけだ。
そうやって俺が風音達を見つめていたからだろうか、俺の姿を風音が見つけて遠くから手招きした。こっちに来たらということなのだろう。少しだけ行ってみたい衝動にも駆られたが俺は思い止まった。ゆっくりかぶりを振ってやんわりと断る。
風音の表情が少し寂しそうに見えたのは、俺の自意識過剰だろう。
だけど、俺と風音では立場が違い過ぎる。
風音には彼氏がいる。彼氏がいる以上、俺よりも彼氏の方を優先してやって欲しい。成就されなかった恋を、いつまでも抱き続けるという人も大勢いるらしいが、俺はそうではないのだ。俺と風音が結ばれず、風音が彼氏と仲良くやっているというのなら、それはそれできっといい事なのだろう。俺にできるのは風音の幸福を願う事だけだ。
慈善家ぶっているわけではないが、そうしないと自分で自分を苦しめるだけだという事を俺は経験でよく知っている。諦めなければならない事なら潔く諦める。それがきっと人生において非常に大切な事なのだろう。
俺は踵を返し、そのまま俺は帰宅した。
今度こそ誰とも出会わなかったし、何も起こらずに帰宅できた。
「あら、お帰りなさい。哲雄さん」
自宅の玄関に入った途端、母さんが愛らしい割烹着姿で俺を出迎えてくれた。
「ただいま、母さん」
俺は小さく呟き、何とはなしに玄関の靴を見渡した。
俺と母さんの靴以外は見当たらない。やはり姉妹達はまだ帰宅していないらしい。
「今日はちょっと遅かったですねぇ、哲雄さん」
「ちょっと姉貴に頼まれたことがあって大変だったんだ。それより母さん……」
「何ですかぁ?」
「何度も言うけど、『哲雄さん』って呼ぶのはやめてくれないかな。俺としても『さん』付けはちょっと恥ずかしいしさ」
「そうかなあ? ドラマとか観てたらお義母さんは息子さんのことを『さん』付けで呼んでるじゃない? だから、そういうのがいいかなって、思ったんだけどぉ……」
「それは婿養子の場合だと思うし、俺は婿養子じゃないんだから呼び捨てでいいよ」
「それじゃあ、お母さんのほうが恥ずかしいじゃない。若い子を呼び捨てなんて、何だか不倫してるみたいでイケナイ感じだしぃ……」
「そうですか……」
俺は呟きながら応接間に入り、ソファにゆっくりと身を沈めた。
とてとてとて、という効果音が入りそうな仕種で母さんが俺の後から歩いて来た。その仕種を見つつ、本当にこの人は三十七歳なんだろうかと普段の疑問を抱いていた。身長はあまり大柄でない俺より頭二つ小さく、身長は真美と同じくらい。体重も中年太りすることもなく、昔の痩せていた体型を維持しているようだ。その体型はとても三人も娘を産んだとは思えない。しかも、顔つきも髪形もかなり幼い。真美と並んだら仲のいい姉妹にしか見えないほどなのだ。
更に付け加えさせてもらえば、性格も殆ど小学生か中学生みたいなものだった。前述の通りに母さんの作った弁当は幼稚園児の『おべんと』みたいだし、真美と一緒にアニメを観ては大声で笑い、大声で泣いている。
「どうしたんですかぁ、哲雄さん?」
「母さんって本当に若いなぁって、そう思ってたんだよ」
俺が包み隠さずに本音を言うと、母さんはぽっと顔に手を当てて頬を紅く染めた。
この仕種もやはり三十七歳のおばさんには見えなかった。
「もうっ、哲雄さんたら。お母さんにお世辞を言ったって、何も出ないわよぅ」
「いやいや、お世辞じゃないって。本当に母さんは若いなって思ってるんだよ」
まあ、それは必ずしも、褒め言葉とは言えないけど。と頭の中だけで俺は付け加えた。
そんな俺の考えも露知らず、母さんは更に頬を紅く染めていた。
俺より倍以上歳を取っているというのに、その仕種はとても可愛らしかった。
ああ、そういえば母さんの本名は山口小麦と言う。あまり詳しく知っているわけではないが、親父から聞いた母さんのプロフィールはこんな感じだ。
山口小麦。三十七歳。旧姓、加古川。
真美を産んですぐ前の旦那と死別。以降、親子四人で地道に生活。
職業、専業主婦。特技、家事。趣味、昼寝。
親父とどうやって知り合ったのかは不明(親父に聞いてない)。
ところで、照れる母さんを見つめながら、俺はどうでもいい事を思い浮かべていた。
今日知り合ったばかりのあの人、ロリコン会長の事だ。
ロリコンは真美のようなロリータ、幼い少女に興味を持ってしまうという。
そこで俺が気になるのは、幼い少女が好きな人は幼い少女に見えるおばさんでもいいのだろうかという事だ。例えば真美とそっくりなほど幼いうちの母さんを会長と邂逅させてみた場合、一体どのような反応を見せるのだろうという事である。
年齢が三十七歳である以上、ロリコンはおばさんを受け容れないのだろうか?
それとも外見さえ幼ければ、年齢などどうでもいいのだろうか?
そういえば話に聞いた事がある。どこをどう見ても幼児なのに、設定では十八歳以上という設定の登場人物が、成年漫画などでは腐るほどいるらしいという事を。特に幼く見える人物が、実は物凄く年上だったりすると、逆に人気が出る事もあるらしい。
だが、そういう登場人物が受け容れられているのだとすると、やはりロリコンは外見さえ幼ければ、年齢などどうでもいいのではないだろうか。否、むしろ外見さえ幼ければ、男であろうが女であろうがドンと来い! なのではないか。
……気になる! 凄い気になる! これは是非とも会長に訊ねてみたい!
いや、訊ねるのも失礼なんだけどね……。
「どうしたんですかぁ、哲雄さん?」
俺が人知れず面白い想像をしていると、母さんが怪訝そうに首を傾げた。
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