百二十九話 月とウサギ……はっ?

 予定通り五日ほどかかって、それまで徐々に大きくなってきていた月が視界いっぱいにまで大きくなった。

 そこまで来てワイバーンは急に減速して、月の手前で一旦停止した。


 そんな様子を、昼色を食べながらゆっくりと眺めていた。


「すぐに月には下りないのですの?」

「何処に下りるのか、確認しとるんとちゃうんか。月も広いやろうし、案外目的地が分からへんのやろうな」

「あ……なんでしょう。わたくし、妙に懐かしいような気がします……」

 紅羽と瑠美がモニターの前で喋っていると、桃華と一緒に厨房から戻ってきたミュシュが二人の隣に駆け寄っていった。

 そういえば、ミュシュは記憶喪失のままなんだっけ。もしかしたら、出身がここの月なのかも知れない。いやまさかだけど。可能性はゼロじゃないな。


 篤紫はテーブルで、いつも通り抱き上げたヒスイに魔力を注ぎながら、分厚いサンドイッチを口に運んだ。

 カチャンと言う音とともに、食堂の扉が開く音が聞こえた。


「あら、ルルガさん遅かったのね。みんなで先にお昼食べているわよ」

「すまねえ、管制室で車体のチェックをしていたんだ」

 部屋の入り口ではルルガと、その後からつづいてマリエルが入ってくるところだった。二人は桃華から、サンドイッチとオレンジジュースの乗ったトレーを受け取っている。

 受け取ったトレーを持って、篤紫の反対側に座ると、仲良く食事を食べ始めた。


「ルルガ、なんか問題があったのか?」

「逆に何も問題はないな。数値にも異常はなかったからな、どのみちワイバーンが動かないことには始まらねえ」

 未だにモニター画面の景色が動く様子はない。

 何故停止しているのか分からないけれど、完全に宇宙空間に静止していた。


 しばらく待っていても動く様子がなかったので、ルルガとマリエルは鍛冶工房に帰っていった。桃華と咲良も、二人で厨房に入って行った。


 相変わらずモニターにかじり付いている瑠美、紅羽、ミュシュの三人を横目で見ながら、篤紫もいくつか魔道具を作り始めた。

 篤紫の隣では、コマイナがヒスイを抱っこして篤紫の作業を眺めている。

 コマイナの膝の上に座っているヒスイは、じっとモニターに移る月面を見つめていた……。




「やっと、動き出しましたの。どこに向かうのですの?」

 ワイバーンはゆっくりと月面に降下していく。

 やや南寄りに進路を取って、激しい起伏がある岩の大地に向かっていることが分かった。

 この光景は何となく知っている気がするのだけれど……。


「あ、これは知っとる。あれや、グランドキャニオンやね。規模が元よりもっとおっきい感じやけど」

 紅羽とモニターを見ていた瑠美が、興奮して紅羽の肩を叩き始めた。

 あれから夕方までワイバーンは滞空したままで、再び食堂に集まって夕食を食べているところだった。

 今日の夕食は手の込んだカレーで、どうやら香辛料から作ったようだ。桃華と咲良が半日厨房に籠もっていて、途中からいい香りがしてきたので楽しみにしていたのだけれど。

 手作り独特の香りがあって、とても美味しかったのは言うまでもない。


「……ここは、大峡谷グラウンドキャニアン……です。わたくし知っています……」

「えっ、ミュシュちゃんいきなりどないしてん? ちょっと待ってな、近づけんで」

 一生懸命背伸びしているけれど、背が小さいミュシュにはモニターは高すぎて見づらそうだ。

 ミュシュの顔を覗き込んだ瑠美が、慌ててミュシュを抱き上げた。視線が上がってモニターに近くなったミュシュは、瑠美に抱きかかえられたまま両手をモニターに伸ばした。


「ミュシュちゃん、この景色を知っておりますの?」

「はい。わたくしは、この景色に見覚えがあります……」

 何となくそんな気はしていたけれど、やっぱりミュシュは月から攫われてナナナシアに連れてこられたんじゃないかな?

 一生懸命モニターにかじり付いているミュシュを見るに、たまたまとは言え月に来られて良かったんだろうなって、思った。


 そんなほんわかした空気で、みんな油断していたんだと思う。


 ワイバーンは大きな岩棚にの上空にさしかかると、突然掴んでいたホワイトケープを離した。それもかなり上空で。


「何なんや、どないなっとんや、わわわわわっ」

「お、落ちますの。まずいですのっ!」

「きゃああああぁぁぁ……」

「はっ? 待てマテまて待て! いきなり車を離すのかよ、何の準備もしてないぞ? くそっ、急いで運転席いかないと」

「篤紫様、私も行きますっ」

 篤紫は慌てて立ち上がると、運転席に向けて駆けだした。その後をコマイナがヒスイを抱きかかえたまま付いていく。

 今さら慌ててもとても間に合わないのだけれど、さすがにそのままじゃ駄目だろうし……間に合えっ。


「ねえ、ルルガちゃん変形した時の操縦ってどうやるのかしら?」

「んあ? そんなの難しくないぞ。ハンドルが固定されるから、そこに魔力を込めてイメージするだけだぞ。あとは、感覚で分かるだろ」

「ありがとう、やってみるわね」

 そう言うと、桃華はその場からかき消えた。


「はっ? 桃華どこ行ったんだよ、いきなり消えたぞ」

「馬鹿ねルルガ。瞬間移動したに決まってるじゃない」

「いや、無理だろマリエル。空間転移は、夏梛かペアチフローウェルしか使えなかったはずだぞ」

「そだっけ? 私はそこまで知らないわよ」

「うおおいっ!」

 そんな夫婦漫才を瑠美、咲良、紅羽、ミュシュの四人が冷たい目で見ていた。




 商館ダンジョンの出口を抜けて車内……に入ったけれど、後部座席の前方にもう一つ扉が出来ていた。これはもしかして変形している?

 急いでもう一つの扉を抜けると、運転席には桃華が座っていた。


「あら、遅かったじゃない。もう倒しておいたわよ」

「……んなっ?」

 岩棚には、首が折れて息絶えたワイバーンが横たわったていた。

 ついでに、車窓から見える景色が妙に高い。

 うん、これは――。


「人型に変形したのか?」

「ええそうよ、ここまで勝手に連れてきておいて、用事が済んだらさっさと捨てるなんて許せないもの。

 ついでにホワイトケープの人型変形も試してみたのよ。いいわね、これ」

 ハンドルに手を置いている桃華は、何故か生き生きとした顔をしていた。

 見れば、巨大な人型のまま器用に解体を始めている。さすがルルガの設計製造だけあって、動きがとても滑らかだ。

 あっという間にバラバラになったワイバーンは、商館ダンジョンの収納に次々に収納されていった。うん、すごいなこれ。


「それよりも次は、四足走行型よ。ちょっと気になるものが見えたのよ」

「岩場に何かあったのか?」

「兎がいたわ」

「ウサギ?」

「そうよ。兎が一匹、岩間からこっちを覗いていたわ」

 思わず、コマイナと顔を見合わせた。


「ミュシュの故郷……なのか?」

「もしかしたら、そうかも知れません。ミュシュさん呼んできますか?」

「いや、モニターで見てるから大丈夫だろう。とりあえず桃華が見た場所まで進もう」

「そうね、変形させるから着席してちょうだい」

 篤紫がヒスイと並んで助手席に座って、コマイナは扉をくぐって後部席に移動していった。

 桃華がセンターパネルにある変形ボタンを押す。

 前席と後席を仕切っていた壁が溶ける様に消えて、視線が半分くらいに下がった。赤い頭部に青銀色の胴体をしている、若干不格好な四足走行モードだ。

 単純に戦闘力であれば人型モードに軍配が上がるけれど、悪路走行においては四足走行モードに軍配が上がる。




 桃華の意に沿って、四足走行モードになったホワイトケープは、岩棚から飛び降りて側面を垂直に駆け抜ける。

 車内に姿勢の影響がないとは言え、急に視界が九十度変わるのは分かっていても身構えてしまう。


『形態変換によるエネルギーロスは、今のところ無いな。桃華達が魔法の練習をしてくれていたから、商館ダンジョンの補助魔王晶石は魔力が満タンになっている。

 車体の状態はオールグリーンだな。これなら、四足走行モードの限界速度が倍くらいは出せるかも知れねえ』

 突然入ったルルガの車内通信に、驚いて椅子から立ち上がりかけて、シートベルトに体が引っかかって変な体勢で座ることになった。


「篤紫様、大丈夫ですか……」

「ああ、すまん。びっくりしただけだ」

 桃華が操るホワイトケープは、谷底を抜けて再び垂直の壁を駆け上がった。

 ナナナシアのグラウンドキャニアン峡谷や、地球のグランドキャニオンと比べて、ここの大峡谷は岩山や岩棚の規模が十倍くらい違う。

 谷はあくまでも深く、転がっている岩も遠目に小さく見えて小さいものでも十メートルはある。

 形状が車だと、ここは全く走れる場所がない。


 やがて、登った上にあった平棚の奥に、大きな洞窟が見えてきた。

 その洞窟の手前で、ホワイトケープが止まった。


「着いたわよ。ここが、さっき遠目に兎が見えた場所よ」

「いや、どこにもウサギはいないみたいだけど……?」

 篤紫が一生懸命、横の窓から地面の方を見下ろしていると、隣のヒスイが篤紫の腕を揺すってきた。


「どうしたヒスイ?」

 ヒスイの方に顔を向けると、前方少し斜め上の方を指さしている。

 指を差された方に顔を向けると、いた。兎が。


「あら、遠くから見たから小さいと思っていたけれど、大きな兎ね」

 桃華が楽しそうに車両モード変更スイッチを押した。

 滑らかにホワイトケープが、四足走行モードから人型モードに変形した。


 そこには、体高十メートルはある、緑色の兎がじっとこっちを見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る