百十二話 異能持ちの女の子

 もう一度、いつも通り瞬きをしただけだったと思う。


 まるでテレビのチャンネルが切り替わるかのように突然、周りから街の喧噪が聞こえるようになっていた。

 車のエンジンの音、街の雑踏。それらが立体駐車場の屋上にいても、はっきりと耳に入ってくる。

 遠くから救急車のサイレンの音も聞こえてくる。

 慌てて周りを見ると、屋上駐車場にはたくさんの車が駐車されていた。羊に変化しないオルフェナも何台か停まっている。

 暖かい風が頬を撫でていく。心なしか、湿度が上がったように感じた。

 それは懐かしい光景だった。

 ずっと忘れていた胸をくすぐる様な、そんな記憶の底にあった景色だ。


『ふむ、空気の匂いが変わったな。懐かしい排気ガスのを含んだ風気が、鼻先をくすぐっておる。

 どうやら先ほどまでの、荒廃した街並みは幻だったようだな』

「いや、ある意味あれも現実だったんじゃ無いのか? いずれにしても、どっちも想定外だけどな……」

 ついでに、桃華の足下で簀巻きになっている女の子も、完全に想定外なんだけど。

 時間停止か。

 少なくとも、桃が何かをやったと言うことだけは、はっきりと分かった。


「……何故、もう一人増えているんだ?」

 そしてさらに、ほんの瞬きした隙に、桃華の足下にはさらにもう一人、縄でぐるぐる巻きにされた女の子が増えていた。

 確認をしようと顔を上げて桃華の顔を見た時に、篤紫は金縛りに遭ったかのように動きが止まった。


「篤紫さん。一旦、ヒスイちゃんの車を出して貰えないかしら? できれば急いで。いいえ、今すぐに」

 その桃華の声に、篤紫は心臓を鷲づかみにされたような感覚に襲われた。


 これはそうだ、かつて同じ空気を感じたことがある。

 あの日は、仕事の時間が遅くなって、お腹がすいたから途中のラーメン屋に寄った日だった。帰宅したら桃華がご飯を食べずに待っていた、あの時と同じだ。

 ついでにそういう日に限って、すっかり忘れていた自分の誕生日だったりする。誕生日ケーキと豪華な料理を用意して待っていてくれたわけで……。


 その時は土下座して、謝り倒して、やっと許してくれた。それでも数日、機嫌が直らなかった。

 そんな恐怖の記憶。

 駄目だ。絶対に、逆らってはいけない。

 完全にお怒りモードの桃華だ。

 

「ねえ、何しているの。早くして欲しいわ。それとももしかして、もう一度言わなきゃなのかしら?」

「あ、はい……」

 とっさに、腰のホルスターから魔神晶石を取りだして、そのまま車の状態に戻していた。

「うわ……しまった……」

 戻しておいて、ここがナナナシアではなく、日本だと言うことを思い出した。

 屋上の駐車スペースには、普通に車が駐車されている。

 篤紫は冷や汗を掻きながら、慌てて周りを見回した。


 人がいる気配が……ないのか?


『篤紫よ、恐らく警戒せんでも大丈夫だ。

 不思議な何らかの力で、人払いがされておるようだ。恐らくこの二人のどちらかが目覚めれば、屋上にも人が戻ってくるはずだぞ』

「そうね、オルフの言う通りさっきの無人世界も、ここの屋上に人がいないのもこの子達の仕業よ。

 この二人はどちらも、おいたが過ぎた感じなのよ。ちょっと腹が立ったから、捕まえてみたわ」


 篤紫は身震いした。

 昔から桃華は穏やかな性格で、滅多に怒ったりしない。

 ただ一度火が付くと、完全に解決するまで絶対に止まらない……。


「それじゃ、ヒスイちゃん、後ろの扉を開けてちょうだい。荷物を運び入れるわ」

 人二人が、完全に荷物扱いになっているのか。

 ヒスイが頷いて扉を開けると、桃華が二つの簀巻き少女を引きずって中に入っていった。よく見れば、桃華は変身すらしていない。

 いつの間にか魔力で体を強化しているのか?


 引きずられていく二人は、意識が戻る様子がないな。いったい、何があったんだろうか……。

 桃華が大樹ダンジョンに入っていくと、その後をオルフェナが付いていった。ヒスイだけが篤紫の足下に来て、顔を上げて何か言いたそうに見上げてきた。


「わかってるよ。もちろん俺も行くよ」

 ふと、日差しが強くなったように感じた。


 思わず篤紫は足を止めて振り返った。

 人が、屋上駐車場にいた。さっきまで誰もいなかったのに、示し合わせたかのように車に乗って、停めてあった車の何台かが走り去っていった。

 恐らく女の子二人が大樹ダンジョンに入ることによって、世界から隔離された結果なのだろう。


 これは、何なのだろうか?

 ある意味、世界全体を改変するような力。

 もしかしたら、日本に住んでいた時に気付かなかっただけで、ずっと自分たちが知らないところで、日夜あの荒廃した不思議な世界が展開されていたのか?

 今は、膨大な量の魔力を持っているから、その世界改変の影響から除外されていたのか?


「あ、ごめんヒスイ……行くよ、行くってば」

 ヒスイに服を引っ張られて、慌てて篤紫は歩き出した。




『来たか篤紫』

 大樹ダンジョンの中に入ると、オルフェナが入ってすぐの場所で待っていた。

 いつもの大樹の大きく広がった枝の下、時折葉っぱの隙間から漏れた光が、足元をキラキラと照らしている。


「オルフ、桃華はどこに行ったんだ?」

『桃華なら、商館ダンジョンに向かったぞ。どうやらあそこで二人を吊すようだな』

「えっ、吊すの?!」

 気絶させて、縄で簀巻きにしただけじゃ気が済まなかったと言うことか。


 目の前には竜人族の作り出した、巨大な家が建ち並ぶ街並みが広がっていた。 

 竜人族の街並みに合わせて、敢えて少し離れた場所に商館ダンジョンを移転させたと、タカヒロが言っていたか。大樹沿いに走って行けばそのうち着くと言っていた。

 篤紫は脇にオルフェナを抱え上げると、大樹沿いに駆け出した。


 竜人族の標準個体が、身長三十メートルはあったか。一部の氏族なんて身長が百メートルもあったはず。

 それに合わせるように建てられた建物は、平屋でも屋根までが六十メートルはある。二階建て家屋ともなると、百五十メートル近くあるようだ。

 遙か奥の方に見える建物は、百メートル級の竜人に合わせてさらに規格外の大きさだ。

 その見上げるほどの街並みを横に見ながら、大樹沿いに走る。

 いや、思いの外遠いな……。


『おや、篤紫殿じゃないか。また外の状況が色々と変わったみたいだな。いつも楽しませて貰っているよ。

 既に大樹広場にあるモニターに、みんな集まっているよ。用事が済んだら、顔を出して行ってくれないか? みんな篤紫殿の話を聞きたがっている。

 それにしてもリアルタイムの映像は、やっぱりいいな』

 突然の声に、思わず篤紫は足を止めた。

 ちょうど通りがかった赤竜族のシューレッハが、遙か上から声をかけてきた。例の身長百メートル級の赤竜族だ。

 返事をしようとして見上げたけれど、相変わらずこの巨体には辟易する。シューレッハから見たら、俺たちは蟻くらいの大きさしか無いはずだ。正直言って、よく気がついたな、レベルだ。


「俺たちは普通に旅をしているだけのつもりなんだけどな。

 わかった、あとでそっちに顔出すよ」

『ああ、大樹広場にいるからな』

 笑顔で手を振ると、もの凄い速度で歩み去って行った。

 

 うん、踏まれないように気をつけよう。今の俺だと簡単に死んじゃいそう。




 商館ダンジョンに着くと、軒先に蓑虫が二つ吊されていた。

 取りあえず首は上向きになっていたので、命の危険はなさそうだった。二人ともどうやらまだ、気絶したままのようだ。

 その上、二回のバルコニーには、バケツを持った桃華が今まさに水を――ぶっかけた。


「……うっ、くはぁ」

 氷が床にばらばらと落ちた。桃華は、水に氷を混ぜたのか。

 よほど冷たかったのだろう、水をかけられた女の子が一気に覚醒したようだ。

 大きく目を開けた。

 そして、縛っていた縄が燃え上がった。


 炎は、女の子の体を縛っていた縄だけを焼き尽くすと、同時に黒髪だった髪の色が炎のように真っ赤に染まった。

 地面に足を付けた女の子は、そのまま跳躍して十メートル離れた場所に着地する。


 咄嗟のことに、篤紫は脇にオルフェナを抱えたまま、目を瞬かせることしかできなかった。ちなみに、まだ商館ダンジョンの入り口まで五メートル位ある。

 えっと、この子って日本人なんだよね……?


「うくっ……てめえら、何晒すんねんぼけぇ――ぐふウっっっっ」

 女の子はぐっと腰を落とすと、両手を燃えさかる炎に変えた。真っ赤な髪の毛がまるで炎のように大きく広がる。篤紫はすぐに動けるように腰を落とした。

 その女の子の腹に、桃華の拳が突き刺さった。

 途端に燃えさかっていた炎が消えて、女の子は膝から崩れ落ちた。


「誰が勝手に暴れていいなんて、言ったのかしら? 命が無事なだけ、有り難いと思いなさい。もう一人を起こすまで、そこで大人しくしているのよ。いいわね、返事は?」

「うっ……ぐふう……ふ、ふぁい……」

 腹部を抱え込んだまま、女の子は横向きに倒れ伏した。

 まさに凶悪な、時間停止の片鱗を見た。

 直前まで二階でバケツをひっくり返したまま、下を覗き込んでいたはずだ。それが忽然と消えて、女の子の前に顕れた。篤紫にはそう見えた。


『桃華の時間停止魔法は、まだ成長するぞ。実は桃華が、どこの世界においても最強なのかも知れぬな』

 オルフェナが厳かに呟く。


 全くそう思う。

 篤紫は、桃華が敵では無く妻で良かったと、心から思った。

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