四章 桃華の世界
五十七話 桃華の世界
気がつくと、森の中に立っていた。
桃華に魔力を流したときに立っていた位置に、ちょうど夏梛とリメンシャーレも立っていた。
「……ここが、おかあさんの神晶石の中?」
柔らかな風が、木々の梢を揺らしていた。木漏れ日が射し込む森は、あくまでも優しい世界だった。
ここの世界のどこかに、桃華を蝕んでいるバグがいるのか……。
「とりあえず、自分たちの状態を確認しなきゃだな」
今は全員変身している状態だ。周囲を警戒しながら、一人ずつ変身解除と、再び変身をしてみる。三人がそれぞれに変身し終わったところで、誰からともなく安堵のため息が漏れた。
「はああぁぁ、よかった。いつも通りに変身できたよ。
おかあさんの中だから、変身解除してから変身出来なかったらどうしようかと思った」
「でも、何となく違和感がある気がします」
拡張収納も特に問題なく、しばらく検証してみてもリメンシャーレの言った違和感が何かが分からなかった。確かに、いつもの変身と違って何かがしっくりこないのは確かだったけれど。
ふと、腰元のスマートフォンをたぐり寄せた。
時刻はちょうど正午、念のためアプリの動作も確認しておく必要があった。
アプリのデータは、星のメインサーバーである魂儀にある。アプリを見ていくと、特に問題なくデータが読み込めるみたいだった。
一通り見終わって待ち受け画面に戻ったときに、篤紫の手が止まった。
「……時間が、戻っている? いや意味が分からんぞ」
アプリの確認で既に十分くらい経っているはず。しかし画面の表示は十一時四十八分になっていた。慌てて上を見ると、木々の隙間から見える太陽は、若干真上から動いているような気がした。
「篤紫さん。何かあったのですか?」
夏梛と交代で、着替えの魔道具を試していたリメンシャーレが、急に動き出した篤紫に気がついた。周りを警戒していた夏梛も、慌てて駆け寄ってきた。
「なに、おとうさん何か分かったの?」
「時間の流れがおかしい。二人とも、スマートフォン取り出してくれないか?」
「わかりました」
「うん、ちょっと待って」
画面を点灯させて、それぞれの時間を確認してみると、時刻は全く一緒だった。ただ、さっきよりもさらに時間が戻っている。
「うわ、これどういうこと? あたしたち普通に動けているのに、時間は戻っているって意味がわかんないよ」
「ここが桃華さんのの世界だからでしょうか?」
「少なくとも俺たちの体は、今ここにある体だけで、向こうの世界からは無くなっているはずなんだよな。
これは、実はすごく不味い状態なのだろうか……」
辺りを見回しても、木々を揺らしている風には、何も変わった様子は無かった。何だろう、胸騒ぎがする。
「取りあえず、人の居そうな場所に向かおうか」
「うん」
「はいっ」
三人は森を慎重に歩き始めた。
一時間ほど歩いただろうか、木々をかき分けてなだらかな坂を下っていると、水の流れる音が聞こえてきた。程なくして、視界が開けて川に出た。
「ええっ、なにこれ。川が逆に流れてるよ?」
もしかしたら、頬を撫でていた風すらも、吹き戻っていた風だったのかもしれない。見れば、川が下流から上流に向けて流れていた。
川幅は五メートルくらいあるだろうか。流れは緩やかで、水は綺麗に透き通っていた。川の中には魚の群れがあって、流れに沿って泳いでいる。
生き物には影響が無いと言うことか?
「すごく不思議な光景ですね。手で触れた感触は、私も知っている水です。
手ですくってもちゃんと下に水が落ちるのに、川の流れは上に向かっています」
「ほら見て、木を投げ入れたら川上に流れていったよ」
正直、この世界をどう捉えていいのか分からなくなってきた。
てっきり、中に入るとすぐに桃華のバグに遭遇するものと思っていた。それなのに何の痕跡も無いだけでなく、ここまでに何者かに襲われる事も無かった。
稀に、小鳥が空を飛ぶ姿が見えたり、野生の鹿が遠巻きに見ていた程度か。それくらい平和な世界だった。
ただ時間が、ずっと逆に流れていた。目の前の川も、時間の影響を受けているのだと思う。
「オルフにも、カレラちゃんにも電話が繋がらないし、完全に違う世界なんだよね?
ここって何なのかな。おかあさんの中の世界にしては、あまりにもリアルすぎるんだけど」
篤紫が悩んでいると、川面を覗き込んでいた夏梛が首を向けてきた。同じように川面を覗き込んでいたリメンシャーレも、答えが気になってか顔を向けてくる。
「電話していた時のナナナシアの話は、夏梛も聞こえていたよな?」
「うん、聞こえていたよ。おかあさんの中に入る、しか説明無かったよね。
あたしだって、すぐにバグと戦うことになるかもって、覚悟していたんだよ?」
「俺だってそのつもりだったさ。
まあ……あいつは、いつ話をしてもだいたいあんな感じだけどな。正直、苦手なタイプだよ」
篤紫は足下にあった石を拾い上げて、対岸に向けて強く投げた。石は、篤紫の手から離れた瞬間、猛烈な速度で森の中に吸い込まれていった。
『ギャアアアァァ――』
何かにぶつかって石が弾け散る音とともに、悲痛な叫び声が森に響き渡った。遅れて暴風が石を追って森を吹き抜けていき、木々に繁っていた葉っぱを全て吹き飛ばした。
「えっ、なになに?」
「……!」
川辺で座っていた夏梛とリメンシャーレが、慌てて立ち上がった。
派手な音とともに、対岸で何かが倒れる音が聞こえて、再び森は静けさを取り戻した。川の音がサラサラと耳に心地よい。
「ここが桃華の中だから、どこまでやっていいのかいまいち掴めなかったけど、まあそれなりでいいのかもな。
下手すればこの世界は、ナナナシアより広いのかもしれない」
「えっ、どういうこと? って言うか、さっきの何よ、おとうさん?」
篤紫は夏梛の足下を指さした。
「森から抜けてはっきりと分かったけど、足下の影がたぶんずっと変わっていない。ここでは、けっして太陽が沈まないんだと思う。
あー。ちなみにさっきのは、たぶん巨人?」
夏梛とリメンシャーレは、篤紫の言葉で足下を見てみた。そこには影が足下にだけあって、ちょうど頭を傾けたからか、その部分だけ飛び出た形の影になった。
そのまま二人は一斉に、真上を見上げた。そこにはずっと変わらず、真上に太陽が輝いていた。
「一つ目巨人……」
川がかなり深かったので、夏梛の魔法で川を対岸まで凍らせて、滑らないように慎重かつ急いで川を渡った。凍った川面はしばらくすると、照りつける太陽で溶け始めて、やがて砕けて川の上流に流れていった。
その対岸の、葉が全て落ちた森の真ん中に、胸を抉られて魔石を破壊された一つ目巨人が、仰向けに倒れて絶命していた。
その足下には、篤紫たちの頭ほどもある、大きな石が積み上げられていて、遠くから狙われていたみたいだった。一つ目巨人の右手には、石が一つ握られていた。
「これってもしかして、危なかったのかな……」
「どうだろうな。川幅からすると、威嚇するだけだった可能性もあるよ」
「威嚇ですか、どうしてその必用があるのですか?」
「それはたぶん、シナリオのルートから外れるからじゃないかな」
「えっ? なにそれ。ゲームみたいじゃん」
「そうですよ。そんな本の中の物語みたいなことなんて……ある……かも?」
途中で何か思い当たる節があったのか、リメンシャーレが目を見開いた。夏梛に振り向いて、目の前で指を立てた。
「夏梛さん。ありますよ、ほら。商館の中で、桃華さんの部屋の本棚にあった……」
「そんなまさか、あれだよね? 『トラックに轢かれたからって、異世界転生したくない』って本のことだよね」
「そうです、それです。主人公のレイスさんが川で水を飲んでいたら、サイクロプスに威嚇された、って言う一幕がありました」
「え……そんな、まさか」
夏梛とリメンシャーレは、同時に篤紫に振り向いた。
「たぶんそれで間違いないと思うよ。桃華のお気に入りの本だったかな」
篤紫は、苦笑いを浮かべた。
だって、あれ。俺が書いた物語だもの……。
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