二章 絶海の孤島

二十話 ワイバーン

 風が唸りを上げて、身体に吹き付けていた。

 必死に御者台の取っ手にしがみつきながら、篤紫は顔をゆっくりと動かして天を仰いだ。


 巨大な翼竜が、両足で馬車をしっかりと掴んでいる。鋭い爪がついた二本の指が、馬車内に入る扉をしっかりと掴み、篤紫の退路を完全に塞いでいた。

 かなり上空を飛行しているのだろう。薄い空気に呼吸が浅くなり、時折意識を失いそうになる。吹き付ける風は冷たく、身体の体温をゆっくりと奪っていた。


 正直、限界が近かった。


 しがみつくのに必死で、それ以上周りを確認する余裕もない。

「いやあああぁぁっ、おとうさんっ!」

 夏梛の悲痛な声が、少し遠くから聞こえてくる。

 幸い、直前まで御者台に一緒にいたタカヒロは、妖精コマイナを馬車内に運んでいって貰っていて、自分以外はとりあえず無事だと言うことか。


 どこまで飛ぶのだろうか――。


 どのくらいの時間を飛んでいるのかすら、すでに分からなかった。着ている衣類に断熱の魔術を描き込んではあるけれど、肌が露出しているところまではカバーすることができない。

 視界が霞む。手足が凍えるように冷たい。


 少し前に、周り一面が海だったことだけは確認している。ただ、それがどこの海なのか、調べることも、調べる余裕すらもなかった。

 視界の隅では、魔道馬が未だにもがいていた。体表を真っ白に染めながらも、ただ限界は来るはず。篤紫は飛ばされまいと、歯を食いしばった。


 恐らく、二時間近く時間を遡ると思う。





 「いい天気ですね。魔獣も出ませんし、出だしは順調といったところですか」

 馬車の操縦は、誰でもできるように簡単に作ってあった。

 馬車と魔道馬は二本の棒で繋がっている。その二本の棒がハンドルと繋がっていて、ハンドルを動かすと棒が曲がって魔道馬の進む向きを変えられるようになっている。

 アクセルとブレーキは魔道馬の意思に繋がっていて、踏むことで操縦者の意思を魔道馬に伝える仕組みにしてあった。


「魔獣が一体も出てこないんだけど、これって逆に異常じゃないのか?」

「一応街道として整備されていますし、道には魔物避けが等間隔に埋められていますからね。日中は殆ど遭遇しませんよ。

 さらに、牽引している馬が生き物ではありませんから、さらに安全ではないでしょうか」

 街道から近くの森までは、けっこうな距離が取られている。右後方には、午前中に半周回ったスワーレイド湖が、日差しを浴びてキラキラと輝いている。


 諏訪湖と同じ大きさだった旧スワーレイド湖と比べて、大規模魔法で面積が単純に十倍になったスワーレイド湖は、膨大な量の水をたたえていた。

 お昼に湖畔で昼食を取ったときには、透明で海の水色に近い色に、女性陣が感嘆のため息を漏らしていた。


 このまま山間の道を南東に進んでいけば、砦を経由してコーフザイア帝国に入ることができる。人間族も魔力を得られたからか、砦の検問は形式的なもので、簡単な魂樹のチェックだけで通過できるようになったそうだ。

 昔の名残で、人間族と魔族の間に多少の遠慮はあるものの、魔族が執拗に狙われる事件は激減しているようだ。


「昔に比べて、旅自体はしやすい世界になりましたね。ただ魔獣の生息圏の関係で、人間族魔族ともに実際の生活圏は未だに狭いままですが」

「いいんじゃないかな、そのおかげでこんな感じに自然を満喫しながら旅ができるんだから」

「そうですね。これで魔獣の被害がなければ、もっと世の中が栄えそうですが」


 人間族にしろ、魔族にしろ、人類が生きて栄えていくためには、それ相応の資源が必要になる。

 農作物であれば、畑を耕して収穫できる。ただ、鉱物資源や木材に関しては、そんな簡単にはいかない。


 木材を取るための森林は、殆どが魔獣の生息域であるため、材木伐採ですら護衛を含めた大人数で森に赴かなければならない。

 鉱物資源はさらに深刻で、より強力な魔獣が棲息する奥地にしか、存在していないのが現状だ。こういった場所は、各地の国が主導になって採掘が進められているそうだ。それでも、進捗は芳しくないようだ。


「タカヒロさん。コマイナが風邪をひきそうなので、馬車の中に連れて行ってもらえないかな」

「ほう、この方はダンジョン・コアではないのですか?」

 少し前に一緒にお昼を食べたときには、みんなと一緒に湖畔をはしゃぎ回っていたはず。ところが、出発して御者台の指定席に乗ってすぐに、またかわいい寝息を立て始めた。


「元ダンジョン・コアなんだけど、今は魔族だよ。魂樹がないから種族名までは分からないけれど、普通にみんなと一緒にお昼を食べていたでしょ」

「言われてみれば、そうですね。不思議なものですね」

「この世界の神秘だと思うよ。魔素溜りから生まれ落ちる魔獣ですら、れっきとした生き物なんだから」

 馬車はゆっくりとした速度で進んでいる。

 妖精コマイナを抱きかかえて、馬車の中に入っていったタカヒロを見送って、篤紫は再び進行方向に視線を向けた。


 何かが空を通り過ぎたのか、視界が一瞬陰った。


 空を見上げると、翼竜が通り過ぎて行くところだった。大きく広げた翼は遠目に見ても大きかった。背筋に冷たい物が流れた。

 翼竜は上空を大きく旋回すると、鎌首を馬車の方に向けた。目が合ったような気がする。


 アクセルを目一杯踏み込んだ。

 魔道馬が、一瞬迷ったそぶりを見せると、意思を理解できなかったのか軽く駆け足で走り始めた。生物じゃない事の弊害が、もろに影響しているのか。


 焦る。ハンドルを握る手が、汗で滑り出した。


 ゴウッっという音とともに、横殴りの風が馬車を軋ませる。振り返れば、少し前に馬車がいた場所を、翼竜が通り過ぎて行くところだった。

 やばい、やばいやばい。


 どうみても、頭の大きさだけでも馬車と同じくらいある。篤紫はもう一度、アクセルを強く踏み込んだ。

 今度はさすがの魔道馬も危機を感じたのか、全力で駆け始めた。道はしばらく真っ直ぐ、街道から森までも距離がある。遮蔽物が全くないこの状態は、あまりにも危険だった。


 森に突入できれば翼竜の襲撃を避けられそうだけれど、木の丈から察するに馬車を隠せるほどの高さはない。


 ガガガッッ――!


 突然翼竜が馬車の前を横切って、地面を抉って再び空に舞い上がった。翼竜が抉った轍に馬車が跳ね上がり、制御を失って横向きに滑り出した。

 魔道馬が、足を取られて横に滑り出す。篤紫は慌ててブレーキペダルを踏み込んだ。


 まずい、完全に翼竜の思惑にはまった――。


 次の瞬間、ガシッという大きな音とともに、翼竜の足に馬車が掴み取られ、大空に魔道馬ごと攫われた。あっという間に、地面が遠ざかっていく。

 篤紫は投げ出されそうになるも、何とか御者台の取っ手にしがみつく事ができた。そのまま速度を上げて、高高度まで運ばれた。


 酸素が薄くなる。気温も一気に下がっていく。

 まさか、こんなことは想定していなかったので、ホルスターを装着していなかった。そもそも両手が離せないので、何もすることができない。


 時間との闘いが始まった。




 見渡す限り海だった。それ以外に何があるのか分からない。吹き付ける暴風に、薄目でしか確認できなかった。

 

 魔道馬がぐったりとしていた。馬具に吊り下がったまま、時折首だけが動いている。

 既に腕の感覚がない。


 雲に突入したところで、馬車が大きく揺れた。感覚がない腕が、自然と手すりから手を離していた。

 篤紫は空に、投げ出された。


 馬車から離れる刹那、窓に張り付いている家族の姿が目に入る。


 夏梛が、涙に濡れた顔で大きな口を開けて何か叫んでいるところだった。

 桃華が、口に手を当てて大きく目を見開いていた。

 扉に手をかけて必死で開けようとしているタカヒロを、シズカとユリネが必死に押さえていた。


 他は分からなかった。

 空中に投げ出され、馬車を掴んだ翼竜が轟音とともに飛び去っていった。一瞬あって、遅れて来た暴風に激しく翻弄される。上空にさらに飛び上がった後、自由落下が始まった。


 そのとき篤紫は、意識を失っていた。

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