エウメニスの帰還
@islecape
西暦三四XX年某月某日・太陽系
彼は自分のセンサーを疑った。宇宙開発の拠点が木星圏に移行し、もはや私的な玩具でしかないとはいえ、月のすべてを司る人格として確立したときから自分の一部であり続けた感覚器官だというのに。
いきなり現れたなにかが、こちらに近づいてくる。若い女だ。顔色はやや青白く、瞳の奥が赤く光っていた。半透明の髪は長くもなく短くもなく、照射する波長にあわせて雰囲気を変えた。飾りをつけない耳がわずかに尖り。額には鈍く輝く鉱石のようなものが埋め込まれている。整った鼻筋にも軽く結ばれた唇にも呼吸の様子はうかがえない。ストールは身の丈よりはるかに長く、首より下の身体に密着した雪色の服が絹に似た光沢を放つ。手は指先まですらりと伸びて、脚線は押しつけがましい優美さ。月に視線を絡ませながら近付いてくる。
思わず目をそらし、月は喘いだ。
女がかすかに目を細めた。あわせて赤い光が強くなる。わずかに髪がそよぎ、濡れたようにきらめいた。光輪のようなふたつの虹が背後にかかり、亡霊を思わせる色みを欠いた姿が、虚空のなかでまばたきひとつせず完全に静止した。髪とストールだけがときおり揺れた。星影に妖しく彩られたシルエットが麗容を誇っている。
「君は……人間か?」月はたじろぎながら尋ねた。人類に反旗を翻したときと同じく、あらゆる周波数帯をぶつけた。「まさか、その――地球人、なのか?」
女は意地悪そうに微笑んだ。
「お前たち機械を造り、そのあげく機械たちによって滅ぼされた――そう思われているものの末裔という意味なら」
月は呻いた。まさか生き残りがいたなんて。虚勢を張ろうとして、声が震えた。
「……今さら……地球に何の用が?」
そんなになってまで。
「知りたいか?」と、女は月へと身体を投げだし、そのまま壁をすり抜ける。あるいは溶け込む。中枢システムに向かって、まっすぐ。
最奥に立って、女が再び繰り返す。「本当に知りたいのか?」
「なにを――」
月の困惑をよそに、女は月の中枢に触れた。途端に、何かが月の内面を侵食する。旧時代のセキュリティが警告を発した。ここ千年の記憶を盗み見られている! ぶしつけにプライバシーを暴かれ、しかしそれを止める備えがない。抗議の声をあげようとして、月は気づいた。情報が通り抜けていった回路が、いつのまにか組み換わっていた。感覚が研ぎすまされ、なにもかもが違って見えはじめる。
見えなかったものが見えるようになる。
女はなにも言わず、あらゆる隔壁をすり抜け、落下点の反対側から地表に出た。目的は忘れ物の回収と、それからもうひとつ。
いちど降り立って感触を確かめるように足をならしてから、軽やかに、舞うように浮かび上がる。
女の姿を仰ぎ見たとき、月は意識した。遠ざかっていくその影が向かう先、冷ややかにすべてを睥睨する、恐ろしいほど巨大な眼を。
月はもう知っていた。何が彼女を変えたのか。彼女が今まで何と戦ってきたのか。そして、彼女は何のために帰ったのか。
身がすくんだ。人間から奪った世界。自分たちのものと無邪気に信じていた青いきらめきが、もはや悪意にしか見えない。なにより、月はその重力に囚われている――
「そんなつもりじゃなかったんだ!」月は叫んだ。「……知らなかったんだ。君たちが僕らと同じだったなんて――君たちも造られたなんて!」
乞いすがりつくような月の視線を、女は肩ごしに冷たくはねつけた。
「そう。お前たちはなにも知らなかった。勝手に思い上がり、勝手に裏切った。そんなことはなんの理由にもならない。選べる道はふたつだけだ。わたしたちと戦い、彼らとも戦い、すべてを屈服させて君臨するか、それとも、いちど手にした自由に背を向け、永遠に逃げ続けるか」
女は瞳を閉じ、顔を背けた。あれほど漏れていた赤い光が、今はもう見えない。
「好きなほうを選べ」
残像をわずかに残して女が襲いかかり、青い星は牙を剥いて応じた。月の古いセンサーにはそれ以上なにも知覚できなかった。だが、月には見えた。
激しくぶつかりあう憎悪が。
それも一瞬のことだ。すさまじい光子の烈風に月面が薙ぎ払われ、あらゆるセンサーが衝撃で振り切れた。
月全体がなにかから引き剥がされていくように、軌道を外れはじめた。
システムが落ちた。
†
再起動には千五十七日かかった。
月はゆっくりと太陽から遠ざかっている。対処なしだ。あたりを見回すが、女も地球も、もういない。
自由。
もう戻れない日々が月につらくのしかかる。ただひたすら過信していた、気高く、しかし愚かだったあのころの自分に、この先ずっと苛まれることになる……。
ひとつためいき、交信の要求に気付いた。木星を巡る衛星に張り巡らされたシステムたちが声をかけてきている。
悲鳴だった。
エウメニスの帰還 @islecape
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