第5話 白い顔 2
僕は此処一週間彼女の見舞いに行っていたが、その度に彼女はとても喜んでくれた。まるで一年ぶりに会ったかのように。久しぶりとは言わないが、暫く会えていなかった人間に会えたかのように。目を細めて。彼は俯く僕に構わずに話し続けた。
「分からないのも無理は無いよ。僕も最近まで考えもしなかった事でもあるし最初にそう言われても信じようともしなかった」
「彼女は何と言ったんですか」
混乱しやすい事なのでゆっくり話そうと彼は足を組み直した。
「理解しずらい事かもしれないけれど事はそう複雑では無いんだ。彼女は寝ている間に見ている夢の中で膨大な時間を過ごしていると言ったね。その言葉の通り彼女は実際の睡眠時間の何倍もの時間を夢の中で過ごしている。一般的に見ても深夜の夢は短くなりやすく、明け方の夢は長くなりやすい。長いと言っても普通の人間にとってそれは目が醒めれば長かったという感覚が僅かに残るだけと言うものだ。しかし彼女の場合は違う。彼女は夢の中でも彼女自身の意識を保ったままその中を生きている」
僕は、彼が言おうとしている事を掴み取ろうと必死に耳を傾けていた。何となく感じていた日々の中での会話に微かに抱いた違和感がくっきりと姿を見せ始めた。手のひらと脇に少しの汗を感じた。汗をかくのは久しぶりだった。そして僕は彼に的外れに成らない程度の質問を繰り出す。
「彼女の意識的には今何歳ぐらいなんでしょうか」
彼は口を開けたまま固まった。その口が閉じた時彼は今迄よりも少し険しい顔で僕に言った。
「彼女との会話の中で違和感を感じ取った、って所かな。察しが良い子は好きだよ」
彼は口元に悪戯な笑みを浮かべた。
「彼女の言う事を信じて加算していく形に計算すると、大体五十年かな」
「五十年?!そんなに・・・」
その数字は僕の予想をはるかに超えていた。五十年と今の年齢を足したら。そう考えるとぞっとした。彼女の精神はもうその地点にまで到達しているのか。
「あぁ、勘違いしないでね。夢の中での世界が全て繋がっていたりするなんて事無いから、精神年齢が其処まで行っている訳では無いよ。まあでも三十歳くらいには成っててもおかしくは無いだろうな」
頭を掻きながら彼は少し投げやりな口調で言った。僕を安心させるためにわざと砕けて言ったのだろう。僕の顔はそんなに曇っているだろうか。そう思ってふと右の壁際に有る棚のガラスに映る自分を見てみると確かにここ数年間の中でも一二を争う程に眉尻が下がっている。
「彼女の心臓に負荷が掛かるのはだな、夢を見ている間に有酸素運動をしているとき並みの心拍数を打ち続けているせいだ。通常寝ている間心拍数は起きている時よりも下がる。何もせずに座っている時と同じくらいにね。そんな状態が続けば、最初の内は疲れがたまる程度で済むかもしれないが、その内に負荷が掛かって心臓の疾患に成り得る事は、君にも分かるだろう」
「つまり、彼女の体は寝ていないのと同じ状況という事ですか」
「その通りだ。薬でいくらか誤魔化してはいるが、衰退していくのも無理は無いだろう」
「そんな状態になってどれ位なんですか」
「もう半年になるな・・・」
彼は僕の言おうとしている事を察して鋭い口調で差し込んできた。
「彼女は強い人だ。自分がもうすぐ限界が来て心臓が止まる事を伝えても尚、身の回りの人間に対して悲観的な言葉を言ったりしない。寧ろ笑顔で居る事を心掛けているから此方が元気を貰っている位だ。自分の弱さとちっぽけさに嫌気が射す程にね」
髪を片手でかき回しながら伏し目がちに言う姿は少し落ち込んでいるようにも見えた。彼も半年間彼女の傍に居た事で彼女の死に行く姿を見る事への痛みを感じている。
「良いかい、君も何らかの感情を彼女に抱いているだろうが、それによる痛みは君だけのものでは無い。僕もそうだし、他の人間にも同様の事が言えるだろう」
彼は僕を励ましているのではなく、悲観的な僕の姿勢を非難しているのだ。
「そうですね。貴方の言う通りだと、僕も思います。僕も彼女の存在に支えられています」
「君は彼女に好意を寄せているんだろう」
疑いや躊躇の無い質問だった。彼は確信に近い事を事実にするために僕に質問している。
「はい」
彼は僕のその答えに何の反応も示す事無く話し続ける。
「君と彼女の関係について突っ込んで聞くつもりはないけれど、彼女が手紙を書いたのは君だけだよ」
「えっ・・・」
「いや、君がもし彼女が書いた手紙の内の一通に過ぎないと思っていたらそれは大変な勘違いだからもしそうなら彼女が可哀想だからね」
「僕にだけ・・・」
「彼女はそういう事を言わない人間だからね。僕が言っておいた方が良いと思った」
嬉しい、とは思わなかった。そもそも他の誰かにも手紙を送っていたとしても、それは僕にとってそれほど大した問題では無かっただろう。しかしその事を僕に伝える事で彼が何かしらの僕の反応を見たがっているのは明白で、そんな彼に僕は微かなイラつきを感じた。
「おかしいとは思っていました。手紙を見せただけで彼女に面会できた時は」
「そう。それは一階の受付の子たちに僕がもし彼女の書いた手紙を持ってくる男の子が来たら通してやってくれと口添えしておいたからね。何かあったとしてもそれは僕が責任を取るとも」
彼のお陰で僕はあの時すんなり通してもらえたのか。感謝するべきなんだろうが、僕は膝に置いていた握りこぶしに力が籠った。
「貴方はどうして彼女の為に其処までしたんですか」
「唯の一患者に何故其処までっていうことかな。大丈夫、僕は年上が好みなんだ」僕は浅はかな自分の考えを見透かされて恥ずかしくなった。
「そう黙るなよ。揶揄って悪かったよ。少し意地悪な事を言うとね、彼女が君に会う事で何かしらの変化を見せるんじゃないかと思ったんだよ」
「研究者としての、学術的好奇心ですか」
「君はそういう興味を抱く事は無いのかな」
「有ってもそれは生きている人間に対しては抱きませんね。」
「あまりそんな目をされるとこんな僕でも凍死しそうになるよ。大丈夫、僕はマッドサイエンティストっていう訳じゃないから」
「そうですね、彼女も貴方の事は信頼しているみたいですし」
「僕に嫉妬するのはおかと違いだよ」
「いいえ。僕にそんな資格は有りませんよ」
そう言うと彼は少し眉間に皺を寄せて不思議そうな顔をしたが、その直後に豪快に笑った。
「若いな。君は。まあ、年齢的にも十分若いのだから当然か」
彼の笑いっぷりに流石に隠し切れなくなり、身を乗り出して聞いた。
「何が可笑しいんですか!」
「君は彼女に対して何かしらの罪悪感を抱いているからそんな風に思っているんだろう。しかしね、罪悪感で行動まで制限する事は防衛本能に従っているに過ぎないんだよ」
「なっ。何故ですか。自分が犯した間違いに後ろめたさを持ってはいけないんですか」
「いけないなんて言ってないよ。間違いを犯す事も同じくいけない事では無いさ。例えそれで誰かを傷つけたとしても。其れを取り戻す事は出来なくとも上から塗りつぶす事を試みないのは、怠慢に過ぎないよ。君は賢い。それ位の事は分かるだろう。それに資格なんてのは自分で決める事じゃないよ。相手次第ってやつさ。君は彼女の口から資格が無いとハッキリ言われたわけでもないのに踏み込んですらいないんだろう」
僕は何一つ言い返せない自分に驚いていた。でも同時に彼の挑発の意味が分かってきたようにも思えた。
「なぜ僕が此処まで言うのか。別に君を糾弾したい訳では無いよ。そんなことしても僕のメリットには成らない」
「貴方は焚きつける事で僕が彼女の内に踏み込んで行く事を図っているのでしょう」
彼は僕の顔を目を見開いて数秒覗いた後にのけ反りながら笑った。
「そうか、気付いていたか。でも、それを咎められるいわれはないよ。僕の仕事の内だ」
こういう人間が僕は嫌いだ。
「彼女は貴方のそう言った思惑を承知しているのでしょうか」
「承知しているかどうかは分からないよ。でもきっと見抜いているだろうね」
「納得しかねますが、それでいいとしましょう。所でもう一つお聴きしたい事が有るのですが、良いですか」
「いいよ。一つと言わず何個でも」
僕はここ数日の間ずっと不思議に思っていた事を彼に聴いてみた。けれどそれは答えが欲しくてした質問では無い。いい加減彼の思惑通りに僕自身の情報を彼に渡したくないと思ったから。
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