第3話 邂逅

僕は病室のドアの前に看護婦さんと一緒に立った。緊張で硬くなる僕の横で彼女がドアをノックして、少し高い良く通る声でドアの向こうに居るであろう彼女に呼びかけた。

「関谷さん、面会です。開けますね」

少し小さくて懐かしい声がドアの向こうから呼びかけに答えた。

「はい、どうぞ」

看護婦さんがドアをゆっくりと開けると、そこは白い床と白い壁の空間に一つの窓と一つのベッドが有るだけの殺風景なものだった。ベッドの横に有る机には鮮やかな花が花瓶に活けてあった。其れを此処に持ってきた誰かの事を推し量る事はその時の僕には出来なかった。彼女の横顔に窓から入るまだ柔らかい日の光が掛かり、とても綺麗だった。前よりも少し大人びた顔付をして、変わらぬ声で、僕を呼んでくれた。

「久しぶり、隆弘君。どうぞ、入って」

僕は気の利いた言葉一つ言えず、ただ短い返事をしてその白い病室に足を踏み入れた。看護師さんは気を利かせてそそくさと出て行き扉を静かに閉めた。沈黙を破ったのはやはり彼女だった。

「ごめんね、急に呼び出して。でもこんなに早く来てくれると思ってなかった。背が伸びたね。もう私なんかよりずっと高い。背伸びしても届かないかも・・・。でも、もう」

「悪かった」

彼女の言葉を遮るように少し大きめの声で言った。そんな僕を見開いた目で見つめる彼女は思っても見なかった言葉を開口一番に言われた事に驚いているようだった。

「なんで、隆弘君が謝ってるの?私何も悪い事されてないと思うけど・・・」

僕が謝ったのは、彼女の記憶が薄れて行くのを唯じっと見つめて上書きもすることなく受け入れようとした事。それでいて手紙を出し続けなかった彼女を心の何処かで責め続けた事。そして今、僕がまた彼女に悲しい言葉を言わせてしまった事。上げれば切が無いだろう。

「僕は、君はもう僕の事を忘れてしまったと思っていたんだ。だから、手紙をもらった時は正直とても驚いた」

「忘れるなんて、そんな」

僕はまた彼女を責めている。

「でもそうだね。忘れられたら、いっそ楽だったかもしれない。私もそう思ったことが無いと言ったら嘘に成るから。隆弘君とお別れしたあの雨の夜の事を今でも時々思い出すの。本当はあの時、本当は・・・」

彼女は苦しそうに、白いシーツを握りしめた手を小刻みに震わせながら言った。其れが体の変異によるものでは無い事は僕にも分かった。その震える一回り小さな手に自分の手を重ねたいと思ったけれど、自分にはそんな資格が無いと思い留まった。

「僕は、あの日からずっと自分を責めて、そしてその気持ちさえ、忘れようとしてきた。君の記憶が薄れて行くのを感じてもそれを阻止する努力はしてこなかった。それが僕と君、お互いにとってそれが正しいと自分に言い聞かせて。でもそれは、僕にとって凄く辛い事でもあったよ」

彼女は僕のその言葉を真剣な目で受け止めてくれた。その真っ直ぐな目は僕の心を丸裸にさせる。昔と変わらない。ガラスより水晶よりも綺麗な瞳だ。

「隆弘君は、どうして自分を責めたの?さっき謝ったのは?私を忘れても構わないと思ったから?それとも・・・」

縋る様な目をした彼女は僕に擦り寄った。僕はどう受け止めたら良いのか分からず、困惑する。

「隆弘君は、自分の何を責めたの」

「全部だよ。僕の中にいる君を大事にしなかった事も、君は僕を忘れたと思い込んだことも、そして何より、あの夜。あの雨の夜に君の手を掴んで引き留めなかった事も。全部だ」声は自然と高くなった。彼女はそんな僕の手を取ってくれた。彼女の手は僕が思っていたよりもずっと柔らかかったが、それと同じくらい思っていたよりずっと冷たかった。顔を見ると、少し困ったような笑顔を浮かべていた。僕は彼女のその顔が昔から好きだった。

「だったら、だったらもう謝る必要も、自分を責める必要もないよ。隆弘君。私ね、あの雨の日に貴方に引き留めてほしかったの。だからすごく悲しくて、そんな期待をしていた自分が恥ずかしくて、貴方を責めて、そんな自分が嫌いで。忘れよう。貴方の事を忘れればこんな自分を見なくて済むし、苦しみも和らぐ。手紙のやり取りを無くしていったのも業と。こうすればお互い自然に忘れる事が出来る。当時の私はそう考えたの。それでもやっぱり私は、忘れられなくて。夢に見ては会いたいと願ってそんな自分を否定しなければ自分が保てなくなる気がして必死に・・・。馬鹿だよね。一人で同じ所をぐるぐると回って挙句の果てに自分の足に自分で躓いて」

彼女の声は、途中から涙で揺れて、シーツにシミが幾つも浮かび上がっていた。だから僕は力無く僕の手を握りながら俯く彼女のその顔を覗き込んで右手の親指で頬を伝う熱を拭った。彼女の手が僕の手を追いかける様にまた握る。

「ねえ、隆弘君。どうして、来てくれたの・・・」

彼女は涙で潤んだ目を瞬きながら僕に聴いた。僕はその理由を答える事が出来なかった。それは決して彼女に対して黙秘したのではなく、伝えるすべを持っていなかったからだ。僕は自分の今迄の行動を理由付る事が出来なかった。

「分からない。分かっていたら、もう少し格好が付いたんだろうけど」

そう言うと彼女は困ったように笑った。

「隆弘君。自分が何言ってるのか、分かってる?」

「格好悪い事を言っていると、思っているけど・・・」 

「違うの。格好いいとか格好悪いとかの問題じゃないの。これは私の心の問題」

「君の心の、問題・・・」

彼女が少し大きめの溜息をしてから、僕の手を強く引いた。急な事で僕は体勢を崩してベッドに手を付いた。すると彼女は僕の両頬を両手で挟んだ。

「会わないと分からない事が多すぎるのは、寂しい事なのか、大事な事なのか。手紙を書いてから貴方がこうして此処に来てくれるまで、その事ばかり考えていたの。でもそんな事の前に大前提として貴方が此処に来てくれるかどうか、それこそが私にとっては問題だった筈なのにね。私は不思議と少しも心配していなかった。だから正直貴方の訪問を聞いてもそんなに驚かなかったの。其れよりも私の事を見つめる貴方の悲しそうな瞳に驚いた」

僕は、悲しそうに見えるのだろうか。僕は誰かにそんな事を言われたことは無かった。無表情の僕を周りの人間はつまらない人間だと言うだけで、僕の心を汲み取ってくれる人間なんて、後にも先にも彼女だけだった。そして今も、それは変わらない。

「僕は、君のそういう所が好きだったんだ。でも同時に怖かった」

痛いほどの静けさが僕らを包んでいた。彼女の肌の温度に比例して空気も冷たくなって。

「私も、貴方が怖かった。それは今も変わらない」

僕の両頬からそっと手を離してまた俯いた。僕は崩れた体勢を直してベッドに腰を下ろして彼女を見つめたけれど、彼女は俯いたまま続けた。

「でも、あの時の気持ちと今の気持ちは、違う物。それはハッキリと分かるの。でもきっとそれは貴方も一緒。そうなんでしょ」

彼女は僕に涙で揺れる瞳を向けた。僕は彼両腕を彼女の背中に回した。彼女の柔らかい髪が僕の頬に当たり、彼女の匂いが強く香る。僕たちは互いに想い合う心をもう隠す必要も抑える必要もない。それなのに、僕達の間には確かな壁が有る。それは昔も。こうして触れていても、爪でガラスを引っ掻く様に僅かな傷をつける事は出来ても砕く事は勿論罅を入れることも叶わない。それは僕達がお互い別々に過ごしてきた時間の重みを表す物でもあり、歪みを生む物でもある。本当の彼女を知る事も出来ない。其れが今、はっきりと分かってしまったから、僕たちはお互いに泣き続けた。悲しみがそうさせたのではなく、どうやっても手に入れらない物を目の前にして悔しくて、虚しい気持ちが、僕の心に大きな穴を空けた。その穴に吹き込む風は余りにも冷たかった。世間の風の冷たさも知らない僕には、涙が出る程にそれが辛かった。彼女を抱く腕に力を込めてもその時間が僕たちの体を貫いていた。痛くて辛くて、とにかく泣き続けた。涙が枯れるまで。その時は、壁を通して僅かな彼女の体温を感じる事が出来たような気がしたという事だけが、僕の心を支えていた。

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