第2話 上昇


手紙の送り主は彼女だった。もう顔も声も朧げな彼女が、僕に語り掛けて来た。内容は、手紙を出さなくなった当時の事への謝罪と彼女の体は今にも壊れそうになっている事を告げる物だった。そして、最後の便箋にはその大きさに似合わない程短い物だった。たった一言“あの日の約束を、覚えていますか”それだけしか書かれていなかった。もしかしたら彼女の伝えたかったことはこの一言だけだったのではないかと思わせる程、他の文章には無い強い何かを感じた。玄関先で膝から崩れ落ちた僕は自分の心が何処に有るのか全く分からなくなった。送り先の住所を調べてみると、北端の病院だった。彼女は入院先の病院のベッドでこの手紙を書いたのだろう。僕は一度力が抜けた足にもう一度力を入れて立ち上がって身支度を始めた。部屋を出て真っすぐバスターミナルに向かった。深夜バスに乗り込んで僕は北を目指した。彼女は今北の病院に居る。飛行機や新幹線よりも、今から深夜バスに乗り込めば早く着く事を知った後僕の足に全く迷いは無かった。一刻も早く彼女に会いたいという気持ちが僕の足をせかした。バスの中で見た夢は彼女のものでは無く、彼女と共に歩いた景色の中をひたすら一人で歩く夢だった。懐かしくて寂しくて、僕はそのうちに彼女の姿を探し始めた。何処かに居る筈だと、不思議な確信をもって僕はひたすら走り続けて探し回った。疲れ果てて座り込んでしまった僕を大きな影が覆った。でもその影の主の顔を見ることなく僕は車内のアナウンスで目を覚ました。未だ何も失っていない筈なのに酷い喪失感だった。


バスから降りると体がとても痛かったがそれでも僕は足を休めることなく目的地である病院へ真っすぐ向かった。タクシーよりも特急電車の方が速いと考えた僕は始発に急いで飛び乗った。早朝だった為か、中はガラガラで、強い光が東の空から差し込んで僕の目を射した。日の出を見たのはとても久しぶりだった。焦る気持ちとは裏腹に電車は速度を変えることなく一定の速度で確実に目的地に向かっていた。間の駅に止まる度にドアが閉まるまでの数十秒が酷く長く感じられた。彼女は、僕の事をどれだけ覚えているだろうか。僕は今迄彼女を忘れる努力をしてきた訳ではなかった。でも、記憶がすり減って行くのを横目に何かをする事も無かった。つまり忘れない努力はしてこなかった。其れが僕の中では正解だった。今迄は。君の中ではどうだったのだろうか。この手紙はほんの気まぐれによるものだったのかもしれない。数ある手紙の中でも短い物だったかもしれない。それでも、それでも構わないと思えた。もしそうだったとしても、この一通の手紙が僕の中に散らばった記憶をかき集めて両腕に抱えてここまで走ってくる理由に成ったのだから。


最寄り駅を降りて、タクシーに飛び乗った。運転手に素早く料金を渡して病院に急ぎ足で入って行った。中はまだ朝早いという事も有り閑散としていた。面会申請を行う際に手紙を見せると早朝で、親族でもないのにすんなりと通してくれた。彼女の病室は病院の最上階の奥まった個室だった。何の準備もせずに入れる所を見ると感染症では無いという事が分かり少し安心したが、それは大した心の休まりにはならなかった。ドアの前に着くと、急に緊張が走り、指一本を動かすのも困難になった。ドアを開けて第一声、何と声を掛けたら良いのだろうか。深刻な状況の中、笑顔でいくべきなのか、それとも神妙な面持ちで行くべきなのか。一人で誰かのお見舞いに行ったことの無い人間が、数年ぶりに会う人間のお見舞いに行くなんて、今考えればハードルが高かったのだ。そういえば、花などの土産品一つ持っていない。なんて世間知らずで野暮な男だろう。彼女に嫌われても仕方ないだろう。せめて彼女の病状を医者に訪ねてから来るべきだったのではないだろうか。いや、僕は一刻も早く彼女の顔を見るために此処まで来たのではないか。そんな勝手な葛藤をして突っ立っていると、後ろの病室のドアが開いた。静かな廊下にドアの音が響いたので僕は驚いて振り返った。看護婦はそんな僕を訝しげに此方を見たので、僕は彼女に小さな声で挨拶をした。その訝しむ様な目は変えずに彼女も僕に挨拶を返してくれた。僕はその看護婦に彼女の病状を聞いてみる事にした。しかしその看護婦は少し残念そうに眉を落とした後に厳しい声で僕に言った。患者の病状は親族や本人の了承を得た人間にしか知らせる事は出来ないと言った。言われて見ればその通りだ。赤の他人にペラペラしゃべる様な事でもない。それでもその看護婦さんは一つだけ教えてくれた。彼女の命はもう長くは無い。手紙にも書いてあった事だったが、面と向かって言われると違うショックが有る物だ。僕は挫けそうな心を必死に奮い立たせて尋ねた。後、どれくらい生きられるのか。その看護婦は僕を連れて、その階の受付にまで連れて行ってくれた。彼女について記されている大きなファイルを取り出して目を通した看護婦は短く答えた。

「彼女の専属医によれば持ったとしても一ヶ月。最悪の場合二週間持たない。そう書かれています」

それは一見長いように思えても、僕たちにとっては余りにも短い時間だったと、後々僕は思い知ることになる。


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