第19話 されど世界は闇と踊る

 聖地セクリトは一日二日で迎えるほどに帝都の近所にある訳じゃない。

 俺達の一行は数日をかけてゆっくりと進んだ。時にゴブリンと出会い撃退し、時にグラシャの耳をモフって落ち着き、時に人食い花に出会い焼却し、時にアイリスに膝枕をしてもらい落ち着き、夜に行軍すれば久しぶりに骸骨兵と出会いグラシャが卒倒し、時に暴走しそうになったレオさんを引っ叩きながら、長い旅路を進んだ。


「と、到着だ……」

「長かったわね…………」

「……疲れた」


 そして、いよいよ聖地セクリトに到着したのだった。完…………ってならないのが辛いところだなぁ。ここまで前哨戦みたいなもので、本番はここから何だものなぁ。もうひと頑張り、いきますか!






 聖地セクリトは霊峰のふもとに栄える町と聞いていた通り、確かにやや標高の高い山地に町はあった。大きな町だが人も多くごみごみしている感じや、景色に大きな山が見える感じが少し日本を思い出す。とはいえ、町で最も巨大な建築物であるアスラ教会聖堂は異世界ならではのものか。


 到着した教会関係者は聖堂前の広場で様々なセットを立て始めた。おそらくこの広場で講演をするのだろう。



 そして到着してから三日後。遂にその式典当日になった。


「すごい人ですね……!」

「アスラ教会の徳がどれだけのものか、これだけで分かると言うものだな」

 

 式典当日、俺達は大司教や神父が講演をする広場の警備についていた。まるでアイドルのライブを彷彿とさせる、凄まじい人数の観衆を目の当たりにして俺も身が引き締まる。レオさんはいつも通り涼しい顔をしていて、少し羨ましい。


「さて、そろそろ式典開始の時間だ。皆、いつテロが起こってもいいように気を引き締めてな」

「了解!」


 レオさんのしゃきっとした声に俺たちも背筋を伸ばす。…………任務に関して、確かにレオさんは大真面目だ。マヤちゃんの言っていた通り、マジで騎士団のエースの顔をしている。おいおい、これがあの変態かよ。


 おっと、余計な事を考えている場合じゃない。たった今、魔導吹奏楽器が鳴らされ、式典の始まりの合図を告げている。…………だが、簡単にテロなんて起こせるとは思えないんだがなぁ。俺達騎士団の護衛もいる上、町には至るところに教会関係者が見張りとして立っている。何か起こればすぐに誰かしら駆けつけられる完璧な配置に。さらに言えば大司教などの高位聖職者を暗殺出来そうな場所も教会関係者が先に抑えている。まさに厳戒態勢。これでテロなど起こしても返り討ちに遭うだけだ。やるだめ無駄、馬鹿の極みという不名誉な称号しか手に入らない。


 …………あれ? もしかして俺、今フラグ立てた?


 嫌な予感を振り払い、式典広場の高台に目を向ける。そこには、まず最初に挨拶を告げるアスラ教会のトップ、ロゥ大司教が登壇していた。もう式典は始まっている!


「…………愛しき神の子らよ。今日の日輪は一段と輝いておる」


 ロゥ大司教は厳かな声音からスピーチを始めた。彼は齢90を超える相当なご老人だ。伸びた眉毛はその年季を見ただけで感じられ、しかしてしわの寄った目元から覗く瞳は今も光を失っていない。何とも元気なお爺様だ。俺もアレくらいの年までボケずに行きたいものだなぁ。


「大司教は先代の皇帝陛下と親友でな。しかし、ロゥ大司教は教会による政治加入を全て撤廃する事に成功した素晴らしいお方なのだ」

「それはすごいですね」


 レオさんの言葉に俺は感心して頷く。政教分離ってやつだな?


「大司教の持つ杖を見たまえ。あれこそが噂に名高き魔杖【ブルー・アルカディア】さ」

「【ブルー・アルカディア】?」

「……………………帝国で最も強い杖。持ち主の魔術師の魔力を限界まで高めるって噂」


 レオさんとアイリスの解説に感心しながら、大司教の手に持つ青い長杖を見やる。……アレか、最高クラスの武器ってやつか。普通の方法じゃ手に入らない感じの、やべーくらいステータス上がってラスボスも余裕になるやつ。……ついゲームで考えちゃうな俺。そう言えば、俺のソシャゲのアカウントどうなってんのかな……。連続ログイン切れちゃったかなぁ……。


「今日を以て、我らアスラ協会は創立400年を迎える。何故この世界には悲しみが蔓延るのかと先代たちは悩まれた。そして、その僅かでも世界より消えるようにと祈り、その願いの種を残した。そう、皆が同じ道を歩めるようにとする、一つの道しるべ。それがこのアスラ教である」


 セクリトの町の喧騒が遠くに聞こえるほどに、式場全体は静寂に満ちている。この場の誰もが、あの半世紀以上を生きた敬虔なる神の使徒、ロゥ大司教の言葉を聞き逃さないようにと息を殺しているのだ。何か静かですねぇ。


「…………なんか、尻尾がピリピリする」


 ふとグラシャが眉を顰めてそっと呟く。……グラシャの第六感が反応しているだと? そんな、もう何か危機が近くにいるというのか?


「……ふむ。抑えきれない憎悪、または怒りが見える。トーマくん、敵はもう目の前にいるようだ。いつでも動けるようにね」

「そんなまさか……!?」


 レオさんまでそう言い、少し身体に魔力を回し始めた。レオさんの身体の周囲に、少しパリッと静電気が弾ける。…………レオさんの魔法属性は雷。攻撃力・攻撃範囲・敏捷性に優れ、戦闘能力的には全属性で最優とされている。これもレオさんがエースたる所以か。

 待ってくれ、でも、目の前には、群衆しかいない。帝国各地からこれを見に来た貴族や商人はもちろん、一般平民まで大勢いる。そんな、敵って……。


「我々には、これまでに数々の試練があった。耐え難き事件もあった。悲しき戦乱もあった。時にそれらが我らの耳を塞ぎ、目の前に闇を見せ、道を誤らせようともした。しかし、我らはここまで来た。先代たちが託した祈りを400年守り通した。そしてこれからも、未来永劫受け継いでいかねばならない。…………今日は、我々の心が400年に渡り一つとなっていた証明となる記念すべき日である。人類に愛と平穏を。心に正義と優しさを。世界に安息と救済を。…………今日この日を、皆と共に祈りを捧げられる事を、私は幸せに思う。この敬虔なる神の子らに、永劫の平和と幸福を……」


 ロゥ大司教はそう言って、スピーチを締めくくった。群衆から拍手喝采が湧き上がる。……声だけで、あの人が優しくて強い人だって事がわかる時間だった。なんだ、この世界の聖職者って良い人じゃん! 聖職者といえばろくでもない人しかいないイメージがあったんだけどなぁ。これはフィクションの読み過ぎだな。ははは。


 ロゥ大司教が魔導拡声器の前からずれると、次に聖都セクリトの町長が登壇した。スーツをぴしっと決めた中年男性だ。彼は大司教と固く握手を交わすと、自身が前に立った。


「――――あー、んんっ。ロゥ大司教の後では緊張してしまいますな」


 町長は魔導拡声器の前でそんな事を言いながら姿勢を改める。


「記念すべき日に、こうしてここにいる事が光栄でなりません。このセクリトには、霊峰よりいつも神が我々の日頃の行いを見ておられます。私の敬虔なる日々の行いが、このような舞台に上がらせていただいた所以と存じます。――――私が町長です」


 ――町長の第一声がそれだった。…………なんか、嫌な予感がする。それほど個人的に非常に嫌な出だしだった。……そう言えば、町長さんはちょっと生理的に嫌いな顔をしていた。そう、他人を犠牲にしても町を守りそうな顔をしている。この瞬間、俺はあののっぽの中年ジジイを信用しない事に決めた。今回はまずい謎茶すら出ていない。背筋に嫌な汗が出て来た。


「ロゥ大司教のお話は素晴らしいものでありました。…………が、しかし。この中に敬虔なる神の子は、いったいどれほどいるのでしょうか?」


 ……何か、話の空気がおかしくなってきたのをその時察知した。何か嫌な寒気が肌を掠めて鳥肌を立たせる。グラシャはすでに槍を握りしめて今にも戦闘に入りそうなほど力んでいるし、レオさんは身体中に雷魔力をチャージして少し輝いている。まさか、町長が――!


「人類に愛と平穏を! 心に正義と優しさを! 世界に安息と救済を! なるほどそれは素晴らしい! ならば何故祈るだけなのか! 何故魔を廃さないのか! 何故、真に敬虔なる神の子を排斥しようとするのか! さぁ立ち上がれ同士たちよ! 真に正しきは我らであると、神に見せつけるのだ! 御照覧あれ霊峰セクリト!!」


 完全におかしなテンションで演説をしていた町長は、咄嗟に懐から何かを取り出す。それはきらりと陽光を反射する、銀色の短剣――!


「危ない――!」


 俺が叫ぶのと同時に、銀の短剣は振り払われる! あまりに唐突な一撃だったが、ロゥ大司教は咄嗟に身を一歩後ろに下げ、何とか腕をほんの少し切る程度で回避した!

 だが、第二の攻撃がすぐに来る! ここからでは誰も間に合わ――!


「聖地の町長までも過激派に成り下がったか! 救いがたい!」


 その瞬間、隣にいたレオさんの姿が消えた。

 いや違う、レオさんは全身の魔力を使って、一瞬にして壇上まで飛んだのだ。な、なんて速さ!


「ぐうっ!?」


 レオさんはそのまま町長を蹴り飛ばし、壇上から叩き落とす! あの頭ゴブリンすごいよぉ! 流石【夜明けの星】のエースさん! マジで戦闘能力だけはやべぇな!


「我らは過激派に非ず! 我らこそが真なるアスラ教! 神聖アスラ教なり!」

「腐敗せしアスラ教滅ぶべし! 魔族滅すべし!」

「今こそ我らは正しき道を示す時! いざ立ち上がれ!」


 町長を弾き飛ばしたその時、さっきまで静まり返っていた聴衆の中から、如何にもやばい声を発し暴れ出す連中が出て来た! 過激派だ! そうか、もう既に群衆として目の前に!


「殺せ! 殺せ! 魔族を許し道を外したロゥ大司教を殺せ!」

「奴に従う邪悪なりし神父も殺せ! これは聖戦である!」


 まずい! 過激派の蜂起で、他の一般大衆も恐慌状態に陥っている! 逃げ惑っているのが一般人、そして壇上に向かってきているのが過激派だととりあえず見分けはつくが、あまりに場所が混沌としている!


「アスラ教団全員に告げる! 過激派と応戦せよ! ただし住人が怪我をしないよう、厳重に注意を払え!」


 その時、アルトリウス先生が魔導拡声器を手に壇上に上がり、その場の全員に聞こえるように叫ぶ。それと同時に、フレイヤさんたち三姉妹も前に出た。


「行きますよフラム、スカーレット。アルトリウス様が仰った通り、一般の方に攻撃を当てないように気をつけなさい」

「了解、行く」

「ったく、虫けら如きがハシャギやがって!」


 フレイヤさんはワンドを、フラムさんは双剣を、スカーレットさんは籠手を装備し、慣れたような陣形ですぐに過激派と衝突した!


「何と悍ましい耳だ! 人のカタチをした悪魔め!」「くたばれ魔族が!」

「馬鹿の一つ覚えみてぇに言ってんじゃねぇぞ気狂い共! おらよぉ!」


 そしてスカーレットさんが炎を纏う強烈な回し蹴りを放ち、向かって来た過激派の人間を近くの建築物の壁に吹き飛ばし、


「死ね」

「がぁ!?」


 フラムさんがその双剣で瞬く間に喉元をかき切り殺し、


「あなたたちのような存在に魔力を使うのももったいないのですが、仕方ありません。 ――集いし猛炎は、我が敵を滅ぼす灯とならん。【ジラプス】」


 フレイヤさんがワンドの先から真っ赤な炎の魔弾を発射し、相手を炎上させながら吹き飛ばした――――。



 ――――えっ。死ん、だ……?



「血迷った奴らめ! 裁きを受けろ!」

「最早貴様らこそが異教徒だ! 死ね!」


 フレイヤさんたちだけじゃない。この式典会場は、アスラ教徒の戦闘員と騎士団が過激派と衝突し、お互いを殺し合う戦場と化してしまっている。罵声と悲鳴、それから断末魔が飛び交い、剣戟の音が響き、様々な魔法攻撃の光が交差する。

 …………いつかは来ると思っていた。こういう対人の戦闘が。魔物相手じゃない……ともすれば命を奪いかねない、本気の死合いが……。だけど、これは違う。何だ、この訳が分からない醜い争いは。俺は、こんな光景を見るために異世界に来たのか…………!?


「全く、こんな案件に君たちを出させるなんてマヤも悪い女だ!」


 アルトリウス先生に大司教を任せたレオさんが俺たちの元まで戻って来た。彼の声を聞いて、俺もほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。そ、そうだ、俺は……!


「行くぞ皆! こんな戦い、さっさと終わらせるに限る!」

「「「はい!」」」


 レオさんに従うように俺達も動き出した。そうだ、今俺がやるべき事は呆けることじゃなく、一刻も早く事態を収束する事だ!


「いたぞ、悪魔だ!」


 動き出した俺達に早速向かってくる集団がいる。……そんな、馬鹿な……! あんたは……!

 

「悪魔の子、そして血迷った騎士の小僧……! 再会する日をずっと待っておったぞ……!」

「村、長……! みんな……!」


 相手の顔を見たグラシャが絶望の表情を浮かべる。俺達の目の前に現れたのは、ドイヒ村の村長と、村人たちだったのだ。ふざけんな…………! どうして、また俺達の目の前に立ちはだかる!


「逃がさぬ。決して……悪魔の子は、消さねばならぬ!」

「いい加減にしろクソ野郎! 何故そこまでグラシャを目の仇にする!」

「悪魔を殺すのに理由が必要かたわけェ!! 貴様は呼吸する事にいちいち理由をたてるのかァ!」


 俺の本気の怒鳴り声に、村長はより強い怒りの叫びを叩き返して来た! …………何だ、それは。お前たちにとって、グラシャを殺すのは人として当たり前って事か。…………そうか、そうなのか。


「…………あまりに、酷い……!」


 アイリスが今までに見た事が無いほど激昂し、殺意すらも感じ取れそうなほどの気迫で杖を構える。…………これが、こんなのが過激派ってやつなのか。…………これは……駄目だ……。乾いた笑いすらも出て来ない。言葉が通じない。意思疎通が全く出来ない。まるで異星人と話しているかのような心地だ。

 そうか、だから、フレイヤさんたちはただ殺すのか。コミュニケーション不可能。ならば実力行使しかない。お互いは分かり合えないという一つの相互理解の末、殺すか殺されるかのやりとりしかできないんだ。


「…………行くぞ、トーマくん」

「――――――はい」


 …………抜刀は出来ない。命を奪うような事までは、俺にはとてもじゃないが無理だ。けれど、無力化する事ぐらいならば出来る。だから村長、もう一度アンタをぶん殴る。そして止める。このふざけた戦いを一秒でも早く。悪意しかない戦いを、ここから消し去る!


「お前たちみたいなのがいるから、世界はいつまでも――! うおおおおおおおおおおおおッ!!」


 そして俺は、雄たけびをあげながら、過激派たちのど真ん中に突撃していった。


 今にも泣きそうだ。どうしてこうなる。どうしてこんな世界が出来る。認められない。筋が何一つ通ってない考えで争いを起こす人も、救いようがないから殺すのが正しいってなる世界も!

 …………そうだ、俺は、この醜い争いが理解出来ない。何がテロだ。何が聖戦だ。過激派あいつらの言う事が何一つ理解出来ない。胸が気持ち悪くて今にも吐きそうだ。視界に映る全てが俺のはらわたを煮えくり返すものに見えて、一刻も早くここの空気を肺から吐き出したいと身体が叫ぶ。俺という存在そのものが、この邪悪で醜悪な状況に拒否反応を示している。


 そうだ、久しぶりに思い出した。

 人の世界は、悪意で歪んでいるんだって事を――――! 異世界だろうが、ここは、優しい世界なんかじゃ、ない……!…………助けてくれ、誰か。俺は、どうしてここにいる。どうしてこんなにも世界は暗いんだ――!







 ――予想よりも、事態は早く収まった。

 というのも、やはり教会・騎士団連合と少数過激派では頭の数も個人の力も差がありすぎたからだ。事前に対策もとっていたし、一時間もしないうちに、俺達は過激派のテロを鎮静化させた。…………その一時間もにも満たない時間は、俺にとっては凄まじく長く感じたのだけれども。


 村長たちは俺達が取り押さえ、セクリトの町の牢屋に入れられた。……彼らがどんな結末を迎えるのかは知らない。知った事ではない。地獄でも異世界でもいい。もう二度と俺とグラシャの前に現れなければ。


「大司教、傷を見せて下さい。いい塗り薬がありますから……」

「あぁ、すまないな」


 事を終えた俺達はセクリトにある教会の聖堂に入り休憩を取った。…………正直、今日はもう何も出来そうにない気分だ。今までのどんなクエストよりもきつかった。今も少し吐きそうなほどに気持ち悪い。人の死、それから、村長たちの悪意を、俺の精神はまだ受け止めきれていないようだ。

 視界の端では、町長に切り付けられた大司教の腕を一人の神父さんが診ていた。………大司教も肝を冷やしただろうに。でも、軽傷でよかった。


「ひどい顔ですね、トーマくん」

「先生……」


 聖堂の柱の寄りかかって休む俺に、アルトリウス先生が声をかけてきた。なんとか姿勢を正すと、先生は革袋の水筒をくれた。……ありがたい。喉がからからだった。


「トーマくんは初めてですか? 過激派と戦うのは」

「こんなに大規模なのは初めてです。正直、二度とごめんです。こんな事」

「君の言いたい事は分かります。あなたは人の死を認められないのですね。…………いえ、もっと言えば、この争いそのものが、認められないのでしょう」


 ……あぁ、それは実に腑に落ちる言葉だ。まさに的を射るという表現が相応しい。それほどに、今の先生の言葉は俺の胸にすとんと落ちた。そうだ、俺は、今回のテロの全てが認められない。


「何故、教徒が過激派になるのか。彼らに聞けば、一応は様々な答えが出てきます。『家族を魔物に殺された復讐』、『魔獣変化モンスターフォーゼという魔物を認められないから』、『自分たちが何か間違っている事をしているとは思えない』…………そういった事がね。しかし結局、そのどれもが私たちには理解が出来ない理由である事には変わりません。」

「くっ……、どうして、世界はこんなにも……!」


 怒りで革袋の水筒の口をぐっと握りしめてしまう。【夜明けの星】の皆の温かさに浸かっていたのもあって、この事件は本当に堪えた。分からない…………優しい世界なんてものは、そもそもないのか……!


「……あぁ、いい。その怒りと悲しみ、そして少しの諦観。世界を愛しながらも蔑むその瞳。やはり、君だったか…………」


 その時、アルトリウス先生が俺の頬に手をやって、かなり近い距離で俺の顔を覗き込んで来る。…………あの、先生? 近い、ですよ……? 


「平和に対する並々ならぬ執着、そして邪悪に対する常軌を逸する嫌悪。誰もが君を『幼稚』と蔑むだろう。哀れむだろう。…………故に、君を愛せるのはこの私だけだ。君こそ、優しい世界の王に相応しい…………!」


 アルトリウス先生の言っている話が読めない。分からない。今の先生の瞳は、いつもとはまるで違う、吹雪のように冷たく切り裂くような凄みを持っていた。…………先生、いったい、何の話を――――?



「がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



 その時、聖堂の空気を切り裂くような痛々しい悲鳴が聞こえた。

 ばっとアルトリウス先生が離れたのでふり見れば、さっきまで無事だったロゥ大司教が、切られた傷口を抑えてのたうち回っていた……! な、何が…………!


「が――がが――――!?」


 そして大司教は口から泡を吹き、白目をむいて、糸がきれたようにがくりと動かなくなってしまった――。


「…………やった。やってやった……! やりましたぞ神よ! 見たか腐敗せしアスラ教徒共! これが神のご意思だ! ヒャーハハハハハハァ!!」


 大司教の死を確認して、そう狂ったように叫ぶのは、さっきまで大司教の傷を診ていた一人の神父。…………その手には、まだ塗り薬がある。――まさか!


「やりました! やりましたぞぉ――――っ……?」


 その時、いつの間にかアルトリウス先生がその神父の目の前に動き、一刀のもとに斬り伏せた!


「な――何故……!?」


 その神父は致命傷を負い、そのまま仰向けにくたばる。先生はその塗り薬を手に取り、においを嗅ぎ、顔を顰めた。


「…………これは傷薬などではない。強力な猛毒を含む劇薬だ。まさか、教会の中に隠れ過激派がいたとはな……」


 場にいる教会関係者たちの表情が凍り付く。テロが終わり、ほとんど被害も無くさて一安心といったこのタイミングで……! どこまでも、どこまでもえぐいやり方をするな過激派……! 大司教が何をしたっていうんだよ……! あいつらは、ただ自分たちが認められていないその逆恨みだけで人を殺すのか……!


「…………何という事だ。これでは、式典が続けられない……」


 レオさんも無念そうに腿を叩く。グラシャとアイリスも悔しそうに歯噛みしていた。こんなにも苦労して、なおこの有様とは……! あまりに、あまりにも苦々しい結末だ……!




 ――――任務失敗。

 報酬金なし。俺の残り借金――――7910万C也。

 ……………………優しい世界は、どこにある。

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