第七話 二十年前(後編)
――美しい
浮民の里を訪れた槐は、嫁入り衣装を来た浮民の娘に心を奪われた。貧しい浮民の里では、婚姻の儀式とて派手な衣装を着ることは出来ない。一世一代の晴れ舞台といえども、わずかに普段の衣装よりも質の良い着物を着るだけだ。しかし、その僅かな差が、娘の美しさを引き立てた。
領主となった槐は、鬼ノ国を有り様を自分の目で確かめようと、多くの場所を視察した。有力者たちの館を訪れ、私腹を凝らしていないか、街なかを身分を隠してひっそりと忍び歩き、不穏な動きがないか。そして、ひととおり主要な場所を確かめ終わると、鬼民が入ることのない浮民の里を訪れ、遠くから眺めた。
浮民の里は、家々は貧しいが、田畑はきちっと整備され、能率的な美しさを備えていた。人も同じだ。浮民は体格自体は貧弱で、着ている服も質素だが、機能的な美しさがある。色白の肌は、たいていは病人のように見えたが、槐の目は、浮民の娘の陶磁器のような透き通る肌に吸い寄せられた。
「おい、何をぼっとしている」
「いや、田畑がきちんと手入れされていると思って関心してな。この様子であれば、今年の収穫も問題ないだろう。もうここはいい。次に行こう」
宗茂が槐に話しかけると、槐がごまかすように答えた。
――大丈夫か?
男が美しい女に見惚れるのは珍しいことではないが、今までに見たことのない槐の姿を見て、宗茂が懸念する。あまり、とらわれなければよいが。
しかし、宗茂の心配が消えることはなかった。逆に、つのった。浮民の里の視察後、槐は明らかに心ここにあらずといった状態が続いている。こればかりは、他人がとやかくできるものではない。宗茂自身もこの手の話には奥手だ。時が経つのを待つしかない。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
――浮民の娘が槐に笑いかけてくる。
――槐もまた、浮民の娘に笑いかける。
――若い娘の肌から、得も言われぬ芳香が漂う。
――槐の体の底から、欲望が沸き起こる。
――本能が理性を封じ込め、槐が娘を押し倒す。
不快な汗で濡れた体で槐は目覚めた。自分の体から獣じみた匂いが漂う。浮民の里で娘を見た時から、娘の姿が常に頭から離れない。それでも、日中は役目もあり、自制心を保っていた。しかし、夢の中では、だんだんと理性が無くなり、次第に本能の命じるまま、おのれを律することが出来なくなっていった。
最初は、そっと、やさしく娘に近づくだけだったが、次第に、より大胆に迫るようになった。そして、とうとう夢の中とはいえ、娘の体に触れた。
夢の中では、痛みは感じぬと言うが、夢の中で触れた娘の体は、柔らかいながらも、はちきれんばかりの弾力があり、強く抱きしめれば抱きしめるほど、体のうちから沸き起こる快感で、頭の芯が痺れんばかりだった。
夢はしょせん幻だ。なんとしても、この手であの娘に触れたい。あの娘の体を組み敷きたい、槐の心は、次第に現実と夢との区別がつかなくなっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
『浮民の里に鬼が出た』
ある日、宗近のもとに凶報がもたらされた。自分の代でも、自分の父親の代の時も起きなかった凶事が、よりによって、息子の宗茂が命守の時に来るとは。宗近は、やりきれない気持ちを無理やり押さえ込み、息子を呼んだ。
「浮民の里で一家が惨殺された」
「野盗の仕業ですか」
真剣な面持ちで、宗茂が答える。
「両親と息子、最近嫁いできた嫁の、四人が殺されておる。様子から見て一人の仕業だ」
「一人? いくら浮民とはいえ、たった一人に四人が殺されたのですか」
驚く宗茂に宗近が続ける。
「争った形跡があるのは嫁だけだ。残りの三人は抗う間もなく殺されておる」
宗近が一拍おいて続ける。
「息子が一刀のもとに斬られ、母親は蹴り殺されておる。そして、父親は首をへし折られている」
「馬鹿な!」
その事実の裏に潜んだ真実に、宗茂が気付き、思わず声を上げる。
「嫁は慰みものになったあげくに、なぶり殺された」
宗近が感情のこもらない声で言った。そして、声に力を込めて宗茂に命じた。
「人の味をしめた鬼は、必ずまた人を襲う。鬼を封じよ、宗茂」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、浮民の里へと通ずる道に、宗茂は潜んだ。
――鬼よ現れないでくれ。
念じる宗茂の思いが通じたように、刻一刻と、何事もなく時間が過ぎる。間もなく夜更けになる。
しかし、宗茂の思いは通じなかった。
宗茂の前に鬼が現れた。
爛々と鬼く目には狂気が宿り、殺気と獣の様な重圧が漂う。
槐の姿をした『鬼』が。
楠一族の三つ目の役目。それが、鬼となった藩主を倒すことだ。藩主の一族は生まれつき情が激しい。それは、時に、おのれ自身を失うほどの激しさとなる。まさに、今の槐がそうだ。
正気を失い、必殺の『鬼封じの剣』を振るう槐は、尋常のものでは倒せない。初見の相手では不可能だ。そのため、鬼になった藩主を倒せるものを、幼い頃より同時に育てる。
『敵を知り己を知れば百戦殆うからず』
どんな強敵でも、相手の力量や癖を見極めれば倒せる。しかし、それは相手も同じだ。
宗茂は剣を抜いた。そして、襲いかかってくる『鬼』を迎え撃った。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
体に激痛が走る。
全身の骨が軋み、全身の筋肉が痙攣する。
目を開き、痛みをこらえて立ち上がった槐の眼の前に、斬り殺された一人の男が転がっていた。
――誰だ? ここはどこだ? いったい、何が起きた?
いぶかしがる槐が、恐る恐る目の前の男に近づく。そして、うつ伏せになった男の体を転がし、隠されていた顔を見た。
「宗茂! どうした! いったい何があった!」
泣き叫ぶ槐に、かろうじて息のある宗茂が答える。
「正気に戻ったか。さすがは『鬼封じの剣』だ」
「宗茂!」
槐は、宗茂が、すでに助からないことを本能的に感じる。
「俺がやったのか!」
怯えて問う槐に宗茂が答える。
「いや、お前じゃない。鬼の仕業だ」
宗茂が微笑む。
「槐、悪いが、俺の代わりに親父を頼む」
そう言い残し、宗茂が目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます