第19話 Personal Space【1】

 遠くから大きな崩落音が聞こえた。どどん、と腹に響くような音だ。恐らく倉庫のどこかの屋根が崩れ落ちたのだろう。大量の煙か煤かホコリだかが空気を満たし、エシュは熱気が更に強くなったような気がした。

 熱風で髪が揺れ、仰向けになった体の上では風に巻き上げられた煤煙が舞っている。灰もホコリも容赦なく顔にも床にも降り注ぐので、息をするのも目を開けるのも一苦労なくらいである。


 己の命運は尽きている。この先に待つ結末といえば、窒息するか、瓦礫の下敷きになるか、こんがり上手に焼かれるかの、どれかしかないだろう。そう思うほどに彼は万策尽きていた。


 コンクリートの堅い床を走る煙は徐々に色濃くなっている。これが発火点に達すればいとも簡単にエシュは炎に呑まれてしまうだろう。



 既に運命に抵抗する気はなかった。抗ったところで苦しいだけだ。思えばろくでもない20と数年の人生でしかなかった。せめて最期の時くらい苦しむことなくすんなりと死なせてほしかったが、カミサマというものは何故こうも意地悪な存在なのだろうか。


 人生の最後に見られると言う走馬灯とて、どれほどのものだろうというのだろう。正直、とても期待は出来ない。


 誰が泣くというのだろうか。自分が死んで、誰が泣いてくれるのだろうか。祖父にも祖母にも母親にも思い当たらなかった。


 彼らの言う「家族」の中に一度たりとも自分が数えられていたことがあっただろうか。年の離れた妹も果たしてどうだろう。涙を流すどころか、己の事を覚えていないかもしれない。


 せめて、いや、きっと昔の職場の仲間は悲しんでくれるのではないだろうか。そう思わないと物悲しすぎて死ぬに死ねない。レイモンドは多分、暑苦しいくらい泣くとは思う。彼は情に厚い、という表現がぴったりくるような男だからだ。

 腐れ縁なノリで、なんだかんだと長い間続いた付き合いだったから、そういったところは良く分かっている。


 しかし、困ったことがあった。エシュにはそれ以上思いつかなかったのである。エシュ自身も平素より友人が少ないという自覚はあったが、覚悟していた以上に思いつく人間が少ないと言う事実に多少なりとも驚いていた。

 歳をとれば少ないながらもそれなりにもう少しは増えていたかもしれないが、今の彼は残念なことに死ぬにはまだ若すぎた。


 人は流してもらえた涙の分だけ天に近付けると聞いたことがある。

 ならば、泣いてくれる人間の少ない自分には、死後の世界もまた碌でもないものなのだろう。


 やはり碌でもない人生だったのだ。誰にも気付かれることもない。助けてももらえない。己の人生そのもののような最期ではないか。



 喉が焼け焦げるような熱気とごうごうと鳴る炎の音の向こうから、かすかにじゃりじゃりとした音が聞こえてきたのは、そんな事を考えていた時だった。

 何者かが歩を進めることで踏みつけられたコンクリートの床と砂とがこすれる音だ。誰かが近くまで来ているのだ。


 一体それは誰なのか気にはなったが、今目を開けたところで熱気に眼球の水分を奪われるだけだし、何よりそれが誰であろうとも今のエシュにはもうどうでも良い事であった。目を開けるのもおっくうだと、放置した。


 ごつっ、と頬に何か硬いものが当たる感覚がした。

 熱い空気に晒されていた彼の皮膚にはその衝撃は少し痛覚を伴うものであり、エシュはその感覚によって意識を現実に引き戻された。


「本当にトラブルばっかりに首を突っ込むんだな。年相応に少しは落ち着いたらどうだ」

「俺の死神って男かよ……しかも、一番会いたくない奴とか……」

「奇遇だな、こっちもお前が一番会いたくない人間だ」


 夢でも死神でもなんでもない、当の本人がそこに立っていた。仁王立ちになった白髪の青年は全身ずぶ濡れで、不機嫌そうな表情をしてエシュを見下ろしている。

 先程の頬の衝撃は、恐らく葵が靴先の小突いたものなのだろう。


 倒れている相手に声をかけているくせに、葵自身は一切かがんだ気配は無かった。心なしか彼の気配からは呆れの感情も伝わってくる様な気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る