第18話 Hedgehog's Dilemma【2】
夕暮れ時の住宅街をエシュは歩いていた。
それともなく目指すのは海の見える方角だった。幼い頃からエシュは、己の力ではどうにも解決できない難問が立ちはだかると、人気のないところに一人物思いにふけることが多かった。
誰も心配して探しに来ることもなかった当時の彼は、自分の限界までそこにいて、取りとめのない事をよく考えていた。
遠くにある建物の影の向こう側には、赤い夕陽を受けて輝く水平線が見える。朱色に染まった街並みが低い陽の光が作る長い影とともに、さみしそうに今日の終わりを告げている。
スパイクヒルズの坂を道なりに下って行けば、葵がよく行くマーケットが見えてくる。そこは遠目から見ても仕事帰りと思しき老若男女でごった返し、皆一様にレストランの品定めや買い出しにいそしんでいるのが良く分かった。
エシュは元々、人ごみは好きではない上、今はそれ以上に人に会いたくないと思っていた。こと、この市場にあふれる温かい「普通の家庭」を想起させる活気は、苛立ちを抱えたままの彼には毒でしかなかった。
マーケットの敷地の横道を足早に通り過ぎ、彼はマーケットの下階層の駐車場へと降りる。
そこは敷地外を走る高架道路の騒音が低く響く、コンクリートの柱がずらりと並ぶ空間で、上の階層のにぎわいとは打って変わり規則性と無機質さに彩られたそこはとても人気が少なかった。
低い角度で差し込む西日に赤く染まった柱をすり抜ければ、いともあっさりと何者にも阻まれることなく建物を抜け出ることが出来る。
マーケットの敷地を一歩出れば、目の前にはまた先程の物より更に太い柱達が行儀正しく並んで立っている風景に出くわした。
そこは地図上では国道を示す線で隠され存在するのかなど皆気にも留めない部分、高架と太い柱に支えられた国道を頭上に戴いている区域であった。そこにも車両が留められるようにと、柱の足元周りを中心に駐車場が出来ている。
法律が許す限り使えるスペースは有効活用するべき、という考え方が見える土地の使い方をエシュは好ましいと常に思っていた。
国道を通る車のタイヤの唸りが頭上から反響して聞こえてくる中を、エシュはそれを全く気に留める様子もなく駐車場を横切るようにして渡る。
そこを通り過ぎてしまえば、目的の場所はもうすぐだ。
そこは、いつ来ても潮の香りが濃く漂う場所であった。
確かに海沿いの地域ではあるのだが、そこにあるのは人の気配を全く感じさせない化学工業プラントに、感覚器のスケール感を狂わせんばかりに巨大さを誇っているようにそびえる幾つもの資源タンク、規則正しく積み上げられた色とりどりのコンテナと、それらを甲斐甲斐しく世話するように動きまわるクレーン達だ。
海と聞いて、ダイヤのような夏の日差しやそれを受けて輝く白い砂浜、ハネムーンで浮かれる花嫁の瞳よりも澄んだ真青の海水、などと連想したお気楽者など、この現実の風景はいとも簡単に嘲笑ってみせる。
工場ラインやコンテナ管理など人間が命じた作業の為にただ動いているはずの機械達だが、まるで意志を持って生きているかのように思えてくる。道路も標識も人間の為ではなく、そこで働いている機械達の為に構成され存在しているかのような錯覚すら覚える。そこはそんな魔法の様な魅力を持っている場所だった。
オレンジ色に染まった地平線と紺色の空を仰いで、黒い影に彩られた巨大な鋼鉄の鶴首がそびえ立つ。
ちっぽけな人間のアイレベルから見上げれば化学プラントもガントリークレーンも、終わる今日を背負いまだ見ぬ明日を追い発達し続ける機械の宮殿のように見える。
エシュは幼少期の頃から、化学物質と騒音にまみれているだけではないかと言われがちな、こんな海が好きだった。
スパイクヒルに住み始めた時も、一等初めに探したのはこの風景だった。無防備に人々がバカンスを楽しむような海よりもずっと好きだった。
こちらの風景の方が、より海の本来の姿だと感じていた。いや海のではない、そういった風景こそ海と人類との関係性の本質を物語っているのだとエシュは思っていた。
無機質で冷たいと、彼の言う本質を理解しない人間達は言うのであろう。そんな人間達と相容れなくて済むからこそ、余計にエシュはこの風景に愛着を感じていたのかもしれない。
家族でも学校でも異質でしかいられなかった。同じ異質な存在なら、機械の王国のような世界の方がはるかにましであった。彼らは小言を言わない。彼らは蔑まない。まだ己を受け入れてくれるような気がしていた。
「相変わらず殺風景だな」
彼のように好き好んでこの周辺をうろつく人間はあまりいない。誰にも会いたくない気分であった彼にとって時間をつぶすには格好の侘しさであった。
周囲は燃えるような赤から薄暗い紫紺へと、染まる色を変え始めていた。
散々葵を怒鳴ったものの、いまだエシュのイライラは収まってはいなかった。葵の早瀬に対する不躾な反応は、改めるのが当然であろうと子供ですらわかる事だ。
しかし、葵に反省の色は全く見られなかった。葵はあんな出来た親戚に恵まれた上、ああも不遜な態度でいても笑いかけていてもらえるのだ。
どんなに揉み手で媚びへつらっても、己に与えられたのは蹴りにげんこつ、張り手に罵倒。それでも自分を護る為とはいえ、常に道理の通らぬ父親の顔色をうかがい縮こまって生きていた。
そんな思いの強いエシュには、葵のありようは己を惨めな気分させるものでしか無くなっていた。このわだかまる気分が解消されないままアパートに戻っても、下階の葵を意識してしまうだろう。
嫌がらせこそしなくとも、何から何まで不快感を現すようになるだろう。このまま戻らなくて済むならどんなに良いだろうかなど、自分の力ではどうにもならぬことを考えては、またため息をつきエシュは視線を上げた。
そこでエシュは異変に気付いた。辺りはすっかり陽も沈んで真っ暗になっている。
そのはずだのに視線の先にある一角の空と建物の壁だけがぽっかりと、まだ太陽は落ち切っていないと主張しているかのような赤い色に照らし出されていたのだ
「何だ?」
訝しさを感じたエシュはそれの正体を確認しようと、その光のあるところを目指し安普請の倉庫が立ち並ぶ中を駆けだした。
たった数メートル進んだだけで鼻腔の奥に小さくささくれるような刺激を感じた。それと同時に彼の目はごくわずかながら、周囲の景色に写り込む赤が濃くなっているのを感じていた。
現場のある方向に着実に近付いているのは明白であった。
ひときわ明るく、赤い光が漏れる倉庫裏の角を曲がれば、その先の一角から火の手が上がっているのがエシュの目に飛び込んできた。
「こりゃ、やばいな」
エシュは目も前の火事に焦りを感じながらも、つとめて冷静を保とうとした。
今のところ小火ではあるがそれも時間の問題である。炎の周りではバチバチと小さいながらも何かが爆ぜる音が立っている。
倉庫という場所柄から梱包材や段ボールなど可燃物は豊富なはずである。エシュはこれを放置するわけにはいかなかった。しかし今ここにいるただ一人で消火活動をするのは、とてつもなく危険な行為である。
火事の通報、そして消火の手助けを求めるため、そこを一旦離れようと踵を返したその時。
かすかにだが、甲高い泣き声が真っ赤な炎の向こう側から聞こえたような気がした。
意外に思われるかもしれないが、エシュは他人が思っているよりもセンチメンタルな男だ。メランコリックな心情をかきたてるような風景に心奪われ見とれてしまう事も多かった。こと、夕焼けの燃えるような太陽の色は特に好んでいる。
だが別に、火に焦がされたい欲求まで彼にあるわけではない。
倉庫内のじゃりじゃりとした地面の上にエシュは丸太のように転がっていた。そこから見上げる天井は高く、燃え盛る保管物や建材の炎を受けて赤く浮かび上がっている。
彼はしまった、と思った。あの泣き声が気になって、一人この燃え盛る倉庫の中に立ち入ったのだ。早く声の主を助けなくては、と焦って事の順番を間違えた。
とっさのこととは言え、冷静さを欠いた行動は彼を危機に追いやっていた。
なにが弾みだったのかは分からないが、鉄製のパイプの束の雪崩に彼は巻き込まれてしまっていた。
かろうじて全身が鉄パイプの餌食になる事は免れたが、脚は完全に堅く重い障害物に絡め取られた格好になってしまっている。
脚の感覚からどうやら骨も筋肉も無事という奇跡は確認できたが、その幸運は鉄パイプが重石になっているという不運で相殺されている状態だ。
ここぞという時に不運に見舞われるのが彼という存在なのだろう。まるで目の前の人間をいたぶり追いつめるかのように、火勢もまたじりじりと着実に強さを増していた。
エシュは仰向けの状態のまま腹に力を入れ、なんとか這いずり出られないものかとなけなしの努力を払うも、パイプ同士も複雑に絡み合って外れることはなく、無駄に終わった。
そうこうしてもがいている間にも、熱気であぶられた頬がぴりぴりと痛みを発し、彼は体中の水分が蒸発してしまうような気がした。
火災が化学工場で起こっている物ではないだけましなのかもしれないが、残念ながら彼が今死にそうであることには変わりがなかった。
じわじわと距離を詰めていることをうかがわせるように濃い煙と熱と振動、そして赤い光が強くなってきているのが、もはや天井を眺めることしか出来ることがなくなったエシュにも良く分かった。
カートゥーンのヒーローならば、こんなヘマはしない。どんな大きなピンチがあったとしても仲間が助けにくる、って決まっている。
最後に必ず勝つのはヒーローだ。
だが、残念ながら俺はカートゥーンのヒーローでもない。
ヒーローに成敗されるようなヒールですらない。
ヒールに狙われた哀れな被害者ですらない。
俺は「誰」にもなれない。
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