第17話 Hedgehog's Dilemma【1】
金持ちの家に生まれたお嬢さんが街の不良に恋をして、周りの反対押し切ってゴールインなんて、三流ドラマでは良くある話である。
ドラマはそれで良い。話はそこで終わってしまうものなのだから。
実際にそこから産み出された子供に待っている現実世界というものは、善悪の感覚も麻痺する暴力の毎日でしかなかった。
スリやイカサマ賭博で他人から金をだまし取る街中の鼻つまみ者であった父親と、そんな男につき従い支える素晴らしい妻という悲劇のヒロイン役に酔いしれる母親。
エレグア・グラムを育んだ環境は、そんなどうしようもない世界であった。
父親は感情の起伏が不安定ですぐ不機嫌になり、そのたびに彼は殴られた。殴られないためにと、出来るだけ父親の視界に入らないようにする事をいち早く学んだ。
学校から帰ってきても父親がリビングでくつろいでいるのがわかった時は、決してその視界に入らぬよう家の裏手に回り込み、裏庭の木をよじ登って二階の自室の窓から忍び込むなどという曲芸を彼はよくやっていた。
父親がへそを曲げたせいで夕飯が貰えない時も多かった。何日も風呂に入る事を許されず、自身の体が臭うときもあった。
おかげで彼は臭いだの不潔だのと学校でも散々につまはじきにされ続けた。ひとたび誰かが物を失くしたなどと騒げば即、彼が盗んだのだと同級生らに囲まれて小突かれ、街中では石を投げられた。
その時代の学校の思い出と言えば、そんな毎日の繰り返しだったことくらいしか彼は覚えていない。
そんな苦痛を息子に強いていた父親が、ある日を境に突如、それまでの生活がまるで嘘だったかのように、始終上機嫌でいるようになった。
それは単純なことで、潤沢な金を得ただけの話だった。ただ、その金の出所は、母方の祖父母が実の娘である母に、離婚や別居・それにかかる当面の生活資金として用立てたものであった。そんな大事な金を彼の母親は、あろうことか何も考えず夫に渡してしまっていたのだ。
結果として、そのことに気付いた祖父母が母親を問い質したことにより、母親の愚行は発覚した。
しかし、子供を抱えた親でありながら彼女の主張は「女の子が出来たら、まっとうな職に就くってあの人は言っていた! このお腹の子さえ産まれれば全部上手くいくわ!」「お金があるなら、無い人にあげるのが常識でしょ!」などと、目を覆いたくなるほどに幼いものであったことを、エシュは良く覚えている。
結局エシュの家庭は崩壊し、彼と、自制心がないだけの母親と、彼と13歳も年の離れた生後間もない妹とが、祖父母の住まう街に移り住み、父親と切り離されることとなった。
彼自身は生活圏が変わったことにより、のびのびと出来る様になったと思っている。事実、父親の脅威にさらされなくなり、なにより健康的かつ人間的な生活が送れるようになった。
またそれまでの抑圧された生活から身に付けた処世術のおかげもあってか、彼の新たな学生生活は大きなトラブルに見舞われることもなく、非常に充実していた。
この頃にエシュはレイモンドという、長の付き合いをすることとなる悪友との出会いを果たしている。
その間彼の父親は、妻の父母から定期的に金を渡されていた。おかげで逃げる金蔓を追いかけまわす必然が無くなった父親は、離れた妻子に全く執着を見せることはなかった。
逆に、復縁をせがむ妻に対し「義父さんと義母さんの頭が冷えるまで、離れて暮らそう」と諭してすらいたという。
そして、エシュが高校に進学する頃。彼の父親は麻薬の密売に手を染めた挙句、逮捕された。
勾留中に祖父母は直接父親と交渉し離婚を成立させた。
祖父母の主張は「子供のことを思うなら離婚してやってほしい」というものであったがその実、彼らの言う「子供」とは「孫」ではなく「自分達の娘」を指してのことであったろうなとエシュは思っている。
そうして父親に離婚に応じさせる対価として、保釈金およびその他の金銭を祖父母が負担するという条件のもと、離婚そのものはなんとか成立した。
そして父母の離婚から間を置かずして父親は死亡した。
チンピラはチンピラらしく留置場で誰かに喧嘩でも吹っ掛けて殴り殺されたのだとエシュは当初思っていたが、事実はそれに反して、風邪をこじらせたことによる肺炎での病死だった。
母親はたいそう涙を流して夫の死を嘆き悲しんだが、エシュには父親を悼む気持ちはかけらも湧かなかった。親が死んだというのに冷たい奴だ、などと母親からは罵られもしたが、エシュにとっては母親の存在そのものが既に取るに足らないものであった。
ただその時、彼の頭を満たしていたのは、彼へ萎縮と恐怖しか教えることをしなかった父親の死のあっけなさへの安堵と、それでありながら、これまでの己の苦労は何だったのだという落胆、無常観であった。
父親の幻影を振り切るかのように、彼は警察官という職業を選んだ。
総じてエレグア・グラムという男は、幸せな家族というものに全く縁のない人物であった。
フローリングのひんやりとした冷たさを感じながら、葵はただぼうっと天井を眺めていた。
殴り倒されてから、彼は一切合財何をする気力も湧いてはこないようであった。やかんの甲高い警笛も鳴りっぱなしのままである。殴られた頬を床に当ててやれば、殴られて僅かに腫れた頬の熱がじんわりと床に吸い取られていった。
「…………」
壁掛け時計の秒針のコチコチという硬質な音が、静まり返った部屋に響きわたっている。
台所のステンレス製のシンクからは、水が落下して跳ねぼつりぼつりと音を立てている。蛇口のパッキングが少し緩んでいるのだろう。今度、配管工に設備のチェックをしてもらった方が良いだろうな、と葵はぼんやりとそう思った。
全ての音が大きく感じた。
今や時刻はそろそろ夕暮れから夜に変わる頃になろうとしていた。未だに灯りをともさない薄暗い室内は、安心こそ出来るものの一抹の寂しさがあった。数十分か数時間か、すっかり立ち上がる事すら葵は放棄していた。
仕事だって、まだ今日やるべき分は残っているのに、再開する気力が湧かない。気分が乗らない。何がしかの行動を取る気力が葵の中からは失せ切っていた。全てを投げたい、全てを投げ出してしまいたい、そんな気分であった。
葵も頭では、エシュの言うことを理解しているつもりであった。しかし、真っ向から突き付けられたことで、どうしても納得できないままでいた感情が脳内で反乱を起こしたのだ。
感情をコントロールできなかった。この事実は葵にとっては非常に衝撃的であった。
いつ、どこの誰からそう言い含められたのかは知らないが、どんな場合でも腹の中は見せることはあってはならぬ、そう常日頃から自身に言い聞かせていたというのに、それが破られたなどと認めたくはなかった。
ピリリリ…、と突如ジーンズのポケットに放り込んでいた携帯電話が振動した。
己の交友関係の狭さとこのタイミングからして、おそらく掛けてきたのは早瀬だろうと葵は予想した。
エシュから苦言を出された後でなんとも気まずいような気もしたが、この着信が何かのきっかけであるような気がした。
むくり、と床から上体を起こし葵は電話を取った。
「……はい」
「あ、えっと……葵君?」
「はい」
通話の相手は、やはり葵の予想した通り早瀬であった。
平素は早瀬の声に受け答えするだけでも緊張感を持っていた葵だが、何が作用したのか今はあの妙な緊張を感じない、穏やかな気分になっていた。
「さっきはゴメンね。びっくりさせちゃった?」
「エシュと……一緒にいたことですか?」
「何か、いつも以上に葵君ピリピリしていたから、まずかったかなって思って……」
「……別にそういう……」
「さっき喫茶店でエレグア君にね、怒られちゃったよ。たった一人の家族なのに何を遠慮しているんだって。あんた、逃げているだけなんじゃないかって」
「逃げて……いる?」
「うん、逃げていた。葵君に危害が加わらないか心配で、エレグア君に頼んだのも。エレグア君が葵君と仲が良くなったのはビックリしたけど、恥ずかしい話、君が心配だと言っても結局は他人任せだ」
「……そんなことは」
ない。といい終わる前に、早瀬が言葉を遮った。
「いいや、その通りだよ。みんな僕のエゴだ。たった一人の大事な家族、だなんて言っているくせに失敗が怖いままだよ」
「…………」
「機嫌を損ねないか、いきなりふらりと消えてしまわないかと恐れて、葵君との距離は離れたまま、近付けないでいる卑怯者だよ」
「…………」
「本当にごめん」
葵は何も返答出来なかった。
「僕はもう逃げないことにするよ」
「……はい」
「きっと、最初はものすごくぎこちないものかもしれない。それでも僕を叔父だと思ってくれるかい?」
「いえ……その、よろしくお願いします」
短い通話を終えた時、葵は身体から一気に力が抜けたのを感じた。
案ずるより産むがやすし、ということわざを具現化したかのように、いとも簡単に叔父全てではないにしても意志の疎通が図れてしまった。
叔父と名乗られてから1年近く、ずっと葵が抑え込んでいた悩みはものの数分で霧のようにかき消えていた。あの時間はなんだったのだろうか、という脱力感に葵は包まれた。
ふと解放感とともに、いかんとも形容しがたい淡い怒りを感じた。葵はすぐにその感覚に思い当たる対象を思い出した。
エシュだ。エシュには先程、散々に怒鳴られた上殴られたのだ。
彼の行いはどこまでも葵にとって「理不尽で自分勝手」というものでしかなかった。理不尽に一方的に、相手に対する配慮や立場を考慮しない己の意見を正しいと言い張り、怒鳴りつけてまで人に押し付ける。
暴力に訴えてまで自分の考えが正しいのだと信じたくてたまらない、そんな愚かしさをあの男に突き付けてやるべきだ。知らしめてやるべきなのだ。
そう決めるが早いか、葵は床から完全に跳ね起きた。
そして簡単に身支度を整え、携帯電話を掴み、陽の落ちかけたスパイクヒルへと飛び出して行った。
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