第16話 Stanford prison【2】

「どこまで知っている」

「じゃあ、お前はどこまで知られてないならいいんだよ?」


 この期に及んでまで葵の秘密主義者振りに従ってやる義理はない。

 正直、今のエシュから見れば葵は、身内に心配をかけているただのクソガキ様だ。独り立ちだの成人しているだの言ったところで、一人前の面をするにはまだ早い。


 部屋に沈黙が降りる。しゅんしゅんと湧きたつ湯気の音が耳に触る。


「お前が”葵”なら良かったのにな……」


 そう、ようやっと葵が呟いた。しかしエシュは初め、その言葉の意図していることが良く分からなかった。


「お前と話している方が、早瀬さんも楽なんだ」

「そりゃあ、いくら叔父でも、あんな態度とって即逃げ出すようなクソ甥よりも、他人であれそれなりに良好な関係でいようとする人間の方が、話しするのも楽だろうよ!」


 葵の突然の発言に思わずエシュは声を荒げた。


「お前が葵なら、ってどんな言い草だ!他人は羨むくせに、肝心の早瀬さんの事は何一つ気遣ってもいねぇくせに! お前は早瀬さんの家族だろ!? 切っても切れない関係じゃねーか! 仏頂面下げて家族ってやつを遠ざけているのはお前の方じゃねえか!!」

「それは全部……自分が本物だったならばの話だ」

「……どういう……?」


 葵の返答は、それまでのエシュの問いかけからはかけ離れたもののように思えた。


「野たれ死ぬところを早瀬さんに拾って貰った。他にも、自立するまでの支援もしてもらった。それだけでも、自分が一生かけてでも返しきれない恩を受けていることは分かっている」

「だったら何で……」

「だが、自分の記憶が戻らないかと期待してあの人が話しかけてきても、それは記憶の中にいる早瀬さんの甥っ子の話なんだ。自分にはその記憶などない。ましてやそれまで早瀬さんに会った記憶もない」

「…………」

「甥の話を聞かされても、それが他人の話にしか聞こえない。期待に満ちた顔が曇るたびに、自分がどこまで人の期待を裏切る出来そこないなんだろうと思った」


 自分が何処の誰かもわからない。ひどくあやふやで曖昧な不安さなど、誰も彼もがわかってくれるものではない。


「今でこそ『葵』という人間の枠を与えてもらっているが、もし本物が現れたら……自分はお払い箱になるだろう」


 やかんの口に取り付けられたプラスチック製の警笛が鳴り響く。葵の淡々とした、呟くような独白は、その小ささとは裏腹に、やかんの音に負けることはなかった。


 なんとなく、エシュは頭の中の霧が晴れるような感覚に襲われた。それは、今まで納得したふりをして、早瀬や葵に踏みこんで訊かなかった領域の話であったからだろう。


 なぜ早瀬が、エシュに葵の調査を依頼したのか。

 なぜ早瀬が、葵と仲良くして欲しいとまで頼んだのか。

 そして先程の、早瀬と葵のそれぞれがよそよそしい様は何故なのか。


 早瀬は、葵が己に対して遠慮とある種の恐怖を抱いていることを知っていたのだ。


 早瀬が表立って関われば、葵は恐らく萎縮して仮に問題があっても相談など決してしないだろう、ということは想像に難くなかったのだ。


 だからこそまだ自身よりは歳も近く、なにより同じアパートメントに住んでいるエシュを雇い、葵に近付けさせ監視カメラの様なことをさせていたのだ。

 更にはエシュに葵の過去を話し、それ以上葵に係わるか係わらないかの選択権すら与えて、葵により深く関わらせるに足り得る人物かどうかまで、彼は厳密に判断していた。


 どれだけ葵のことを心配しているか、そして過剰だと思いつつも危険なことが近づいていないか。それを察知するためにも信頼できる「目」が彼には必要だったからだ。


 エシュは、早瀬の独白を思い出す。




「あの子との別れは、唐突なものだった。ある日、家に帰ったら全部消えていたんだ。本人だけじゃない、服も道具も写真すらも……葵の存在に関する何もかもが、僕の家から消えていた」


 彼はその時以降、家族という存在に一切恵まれることはないまま今に至っていた。


「もう、家族を失いたくない……」




「……いい加減にしろ!!!」


 思わず、葵の左頬に一発、腕のスイングもそのままに拳を叩きつけ、そして振り切っていた。衝撃を受け、体勢を崩してよろめいた葵の襟首を、エシュは逃がさんとばかりに掴む。


「てめぇどんなに心配されているのか考えたことねーのか!? どれだけありがたい事なのかわかってるのかよ!!」

「……お前に何が解る」


 視線をそらすかと思ったが、葵もこちらを真っ直ぐ見据えてきた。


「偽物の人間の気持ちなんて、お前なんかに解るわけないだろうが!」


 間違ったことは言っていない、という目だった。自分が葵ではないかもしれないと、本気で思っているのだ。

 そこまで己を分かっていながら、なぜ本物として振る舞い続けるのか。居座り続けるのは何故なのか。


 いや、今ここで葵が本物か否かを求めているわけではない。なおさらにエシュには、目の前の男が不愉快でならなくなった。


「だったら黙って消えればいいだろ!! ニセモンじゃねえかってビクビクしてるくせに、恩は受け取る!? ニセモンって思うならもちっとしおらしくとかしねえのかよ!?」

「…………」

「無礼な態度はいっちょ前に取るくせに、そっちの方で捨てられるのは心配しないたぁ随分ずぶとい神経してるよな、恐れ入ったよ!! えぇ、この糞ネクラ野郎!!」

「失せろ。二度と関わるな」


 ここまで言われても、なお反抗的な態度を見せ、決して己の主張を曲げる気配のない葵に、エシュは感情を吐露してすっきりしたどころか、ますます不快感を覚えた。


 葵から視線をそらしエシュは振り向くことなくまっすぐ玄関へと向かっていく。それを葵が追いかける様子はまるでない。


「だったら一生ウジウジ引きこもっていろ!!」


 そう一方的に言い放ち、玄関のドアをエシュは苛立ちをそのままに叩きつけるように閉めた。

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