第15話 Stanford prison【1】
しかし良い事というものには終わりがあるものである。
それは何度目かの早瀬との定期報告の後だった。
すっかりなじんでしまった喫茶店のドアを開けたところで、買い物帰りの葵と出くわした。
「よう、葵。また、おばちゃんの買ってけ攻撃食らったのか」
葵が買い出しに行くともなれば、マーケットのおばちゃんらのおまけ攻撃を確実に喰らってくるのが、彼らの間の会話でもお約束となっていた。
事実、今日も今日とてとても独り身の買い物ではない量にまで買い物袋が膨れ上がっている。エシュの軽いからかいに、葵は一瞬ムッとした表情を見せた。彼に抗議しようとし口を開きかける。
だが、葵は何かに気付いたのか黙ってしまった。何かあるのかと不審に思いもしたその瞬間、エシュの後ろから、ちょうど喫茶店から出てきた早瀬の声が聞こえてきた。
「あ、えっと。……葵君、その……元気?」
葵の口は閉ざされたままであった。何一言も返さない。
ピリピリとした独特の緊張感を漂わせながら、早瀬から目をそらし、ただ頷くだけだった。そこには友好的という文字はいっさい思い描けない。
「そっか、それは……よかった。なにか困ったこととか……あるかな?」
家族というには見ている他人にすら距離感を感じさせる会話であった。
いつもにこにことした相好を崩さない早瀬の眉尻が、いささか困ったように下がっている。
「……大丈夫です」
「そう。……なら、いいんだけど」
三人の間、というか葵と早瀬との間に硬質な沈黙が流れる。
「急いでいるので、これで……」
「あ、おい!」
そこまで忙しい人間じゃないだろう、とエシュは文句を言いたかったが、その前に葵の姿は逃げるように自宅に続く入口の向こうに消えてしまった。
「変な奴……。あいつ、いつもはああじゃないんですよ」
「うん、だろうね」
「だろうねって、早瀬さん……」
「……葵君との距離が実はうまくつかめないんだ。『家族』っていっても家族そのものに縁があったわけじゃないから……変な話だよね」
ははっ、と声を出して自嘲するように早瀬は笑う。エシュにはその様がどうにも苦しかった。
悲しいかな、エシュ自身はさほど世間的にも幸せと言われるような家庭で育ったわけではない。むしろ実際問題としても言うと最悪な生活を送っていた部類だ。
絵に描いたように碌でもない父親と、父親に従うことくらいしか能のない母親。そこに不満があっても、自身の力では解決できないという事実しかなかった自分。
そういった家庭をつぶさに見ていたエシュにしてみれば、甥のあり方に親身になって心配いる早瀬のような存在は、己がどんなに願っても神が与えなかった存在は、とても珍しげなものであった。
それでも、手を差し伸べたいのだという彼の願いが届けば良い、と思っていた。早瀬の境遇に同情していた。
エシュは葵の、あのザマがどうにも腹立たしかった。
ドカドカと音を立て、常日頃そうしているようにエシュは葵の居室に上がり込んだ。しかしその玄関先から踏み込んだ時から、どうにも部屋の空気がどんよりと沈んでいる。
それでも構わずエシュは、玄関から続く廊下を突き抜け、すぐ奥のリビングルームへと足を踏み入れた。
「おい、どうしたってんだよ?」
葵は、リビングルームではなく、そこと続き間になっている台所にいた。
やかんは水で満たされたばかりなのだろう、その表面がずぶぬれのままだが、それを沸かそうとガスレンジに乗せ、ガス台を着火させようとしている葵の姿が確認できた。
「何が?」
「いや、急に戻るとか言い出すから……」
ガスレンジに対峙したまま葵は、一切こちらを見ようともしない。
「用事があったからだ」
そう答える葵の発言とは裏腹に、ガスレンジのつまみをガチャガチャと回している。
ボロ家であるが故、着火の際にどうしても癖のあるそれは、それでも通常時のこの男ならたったの一回で火を着けられるはずのものだ。
「お前さぁ、いつもあんな感じなのか?」
「いつも?」
「早瀬さんへの態度だよ。いつもああやって無礼な態度をしているのか?」
やっと火が着き、やかんのまわりの水滴が音を立てて蒸発する。その様を眺める葵は、エシュの問いに一切答えず黙したままだ。
気ままに部屋に入ってはのんびりさせてもらっていたはずの部屋の空気は重々しく、エシュにしてみればどこか未知の場所にいるような気さえした。
「……エシュ、早瀬さんから何を聞いた」
いつもよりワントーン低い声が部屋に響いた。エシュは葵の次の発言に身構えた。
「こうやって、自分と接触するのも家に入り込んだのも、全部早瀬さんから金で頼まれてやったことなんだろう」
葵の不躾な決め付けにエシュはより一層苛立った。
早瀬を指して、何でも金で解決するような言いようをしたのにまず腹が立った。そうとしか叔父を見られないくせに、早瀬はそうとは知らず心配をしているのかと思うと不愉快極まりなかった。
仮に金が貰えたとしても、ここまで親身に葵の『友達』を務めあげられる業者がほかにいるか、という自負もあった。
この男は周囲の人間がこうも心配して行動しているというのに、自分の行動の異様さも立場も分かっていない。心配してもらえるそのありがたさにありがたみを感じているとは到底思えない姿勢そのものが気に食わなかった。
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