第14話 placebo【2】
さんざん目的以外の用途に使ってばかりの非常用梯子の足場に腰をかけると、ちょうど窓から部屋の中が覗ける位置関係になる。
いつもエシュがやっているようにして、今日は葵がこちら側にやってきたらしい。
これは今まであまりなかったことのようであるが、一体どういう風の吹きまわしなのか、などに考え付く余裕はエシュには無かった。
「こんな暗い部屋で何をしている。電気代の節約か?」
「いや、そういう訳じゃねーけど……なんでここに?」
「お前がいつもやっていることをすると、なんで自分の時には文句になるんだ」
少しむっとした表情の葵は、エシュの返事や反応も見ることなく、そのままスルスルとまた元来た梯子を下りて階下へと向かっていった。なんとはなしにエシュは葵の後をついていこうと、窓枠をまたいだ。
窓の外、足が付く程度の所にはいつもと変わらぬ古い鉄製の足場があった。そこを踏みしめればキィ……と少し嫌な音もしたが、音に反してわずかな揺れもない。
ふと視線を上げれば、そこには夜空の色に染まり始めた、いつもの風景があった。かすかに近場の潮の匂いが夜風に乗ってやってきている。そうだ、いつもの街だ。
鉄の梯子をつたい葵のいる階へ行くと、まだ窓際に寄ってもいないうちから、ふんわりと温かみを帯びた、脂の乗った肉や魚の焼けた匂いが漂って来た。その匂いに刺激され、エシュの腹の虫は盛大な自己主張を始めるのだった。
一見すると、食卓は豪華に見えた。
皿に盛られた料理の数々は、ほかほかと湯気を立て、作ってまだ間もないのが良く分かった。すみまで掃除の行き届いた部屋、料理を取り揃えたテーブル、それらを煌々と灯りを湛え照らし出す照明。部屋の中に暗闇など無い。
本人は忘れてしまっていたが、かつてエシュが夢見た豊かな生活の象徴そのものを、切り取って実体化したような光景がそこにはあった。
「うお、何これ、すっげーな……」
素直な感嘆の声が上がった。さしものエシュも、この豪華な食卓には感心したらしい。
目を丸くしたままエシュは、葵に促されるまま窓枠を越え、その部屋に通された。間近で見るテーブルの上の料理は、豪華な印象を裏切ることなく種類も多く、コートニーで親しまれている一般的な家庭料理が並んでいた。
ある皿には明かりを受けて銀色に輝くアルミホイルの包みが乗っており、大きく開いた包みからは蒸し焼きにされたサーモンと玉ねぎと溶けたレモンバターの混じった香りが立ちのぼっている。
他の皿にも厚切りのハムステーキ、マグロのソテー、脂の乗った豚フィレの塩焼き、そして小さく野菜も添えられてある。
「で、このすっげえのを、見せびらかして終わり……ってわけじゃないよな?」
「……食材が有り余っていて困る。消費するのを手伝え」
どうやら葵はまた、あの商店街のおばちゃん達の食え食え持っていけという食材アタックを断り切れなかったのだろう。エシュは尾行初日にして散々マーケット中の女性に声を掛けられていた葵の姿を思い出していた。
そういえばあの時も、食材を半ば強制的におまけされていたのだ。マーケットに買い出しに行くたびに、あの攻勢があったのだとするなら、この食料の多さも理解できる。
「ああ、あのおばちゃん達か。すぐ思い出せた。そりゃあ余るほどなのは想像に難くないな」
「いいから座れ」
エシュは、それはさもありなんと笑ってみせたが、葵はそれに対しばつが悪そうに着席を促すだけであった。表面に出さないだけで、やはり本人なりには恥ずかしいのだろう。
とりあえず部屋の主の許可も下りたことで、エシュは席に着こうと椅子を引く。
だが先程まで感嘆の声を上げていたものの、落ち着きを取り戻していたエシュは、あることに気が付いた。
「しかし……なんか全体的に茶色っぽいな……」
エシュの指摘の通り、そこにズラリと並ぶ料理の皿の数々は焼き料理ばかりであり、焼き目の茶色ばかりがあふれかえっているのであった。
材料のバリエーションが豊かなだけで、数々の皿の中身は、ただ鍋で焼いただけだろうと思われる調理結果の産物ばかりだったのだ。ソースがかかっているなどとの工夫はみじんもなく、添え野菜も鮮やかなのだが僅かな量である。
野菜料理もあるにはあるが、ベイクドポテトすなわち焼いただけのイモのみと、食卓の上はほとんどタンパク質と脂質、炭水化物で満ち満ちていた。
そして不幸なことにエシュの祖先は食にうるさい地域の出身であり、また彼もその味覚に慣れ親しんできた者であった。
「……どうして鮭だけ、ホイルに包んであんの?」
「他の材料の匂いが移るのを防ぐためだ」
「鮭だけひいきすんな! 他の材料も愛してやれよ!!」
葵はどうやら無類の鮭好きであることがこの一言でうかがい知れたが、鮭の風味を損なわないこと以外にはまるで興味がなかったようだ。
そういえば葵の家にある鍋と言えばフライパン一本くらいしか見たことがなかったのをエシュは思い出した。まさかと思うがあの一本でこれらを全て焼いていったのではないだろうか、とエシュの想像は悪い方向に傾いていくのであった。
「……次に増やすのはテレビじゃない。調理器具だ……」
磨き上げられたカウンターテーブルのひんやりとした温度が、伏した頬には心地よい。
目の前ではビール瓶の表面に付いた水滴が重力に負け、ゆっくりと落ちていった。瓶がどれほど良く冷えているのかが良く分かるほど、瓶にはまだまだびっしりと水滴が付いている。
「世の中って、不条理だよな……」
ボソリと誰に聞かせるわけでもなくエシュは呟いた。
「ん、どうしたんだ? 藪から棒に」
そこにはレイモンドも同席していた。彼が不審げに目の前でだらしなくカウンターに突っ伏している親友に返答した。彼らがこうして会うのもかなり久し振りの事だ。
そんな久々の再開でも、彼らはいつものように馴染みのバーで、のんびり酒をひっかけている。
愚痴なり近況なりを肴にビールをあおる彼らの姿は、おおよそ2か月前とさほど変わっていないように見える。
「いんやぁ、ちょっとこっちの話」
「ああ、そう……なんかいつもそんなんだよな」
エシュの言葉に、レイモンドがまたかと言いたい風にビール瓶の中身をあおった。
一応は互いに親友と位置付けているはずの両者ではあったが、それでもエシュの辞職などで接点が少なくなれば“こっちの話"ばかりが増えてしまった。
すっかりレイの知らないことの方が、この友人の日常生活の大半を占めるようになってきている。
レイはふと、エシュが転職をした当初の頃を思い出した。
原因はひどく若者の夢を砕くようなものだった。かつて警察内部である事件が起こった。
本来ならば決して起こってはならぬものであり、因果関係を白日の下にさらし悪事を元から断たつべきものであった。若い彼らはそう息巻いていた。
しかし、事件を追うにつれ組織はその根幹を隠蔽し、州の秩序の番人としてプライドの無い姿を彼らに見せたのだった。
結果、エシュは己のいる組織そのものに見切りをつけることを選んだ。そしてレイモンドはそれでも組織に残る事を選んだ。
警察から離れた直後からエシュの攻撃性ははっきりと見て取れるものがあった。組織外の社会に単身飛びだした彼を最初に愕然とさせたのは、皮肉なことにそれまで警察の一員として守ってきたはずの大衆の、愚かさであった。
ちっぽけな決まりごとひとつ守れない中年男が、それを守らなかったがために誰かを殺すかもしれない恐れも考えず、またそんな彼らを検挙し犠牲者が出るのを未然に防ぐその予算がどれほどのものかも考えず、昼間からバカでかい声で警察の悪口雑言を吹聴してまわる。
あまつさえ、警官に立てついてやった自身を英雄扱いしろと横柄に振る舞う。それ以上も含めそのような場面に幾度となく彼は出食わした。自身らの生活に不都合さえ起こらなければこの世に問題は存在し得ない、とばかりに、大衆社会が与えるものを漫然とただ口を開け直接餌を流し込んでもらうのを待っているような衆愚がそこにはあった。
秩序を守る仕事というものは、そんな大衆のファストフードのようなものなんかではないとエシュは思いたかった。
そうしてののち、エシュの生活サイクルは劣悪なものとなった。レイもエシュが離れてからはじめの頃は、暇があればエシュに声をかけ飲みに誘っていた。が、近況を聞くたび親友の精神的余裕が明らかに削がれているのを、それとなく彼の言葉に感じていた。
収入の不安定さは、仮にトータルで大金を稼げたとしても日々の緊張を強いるようだ。エシュもその緊張感にさいなまれていたのだろうか。様々な話題において 短絡的で粗野な論調が牙をむいていた。
レイはそんな親友の姿を内心いたたまれなく感じていた。
今、幸いにも目の前の男からは、そのとげとげしさはだいぶ薄らいでいる。
それがここ2カ月かそこらの間に急に起きた変化であった。彼ら二人ともが、共に同じ職場で働いていたあの頃と変わってきているのだと、レイは柄にもなく郷愁を感じていた。
「あー、うん……お前にも言う時が来たら言うわ」
レイは思いもしなかったエシュのその返答に、つい持っていた褐色の瓶を手から滑り落としそうになった。
「あんだよ、あぶねーな」
何とかレイは瓶を空中でキャッチし、中のビールを床にぶちまけて無駄にするのをなんとか阻止できたが、その瓶の中身が引っかかりそうになる位置にいたエシュは、思わずレイモンドに文句を言った。
「いくらなんでもクリーニング代請求するぞ」
「いや、その……びっくりした。お前がそう言い出すなんて」
「あ? そうか」
ついこの間までこの男は全てにつっけんどんでやけっぱちで、何かしらの問題を課かけていたとしても全て自分の殻の中に押し込めていたような人間だった。
それより以前の彼とはとうて比べ物にならないほどに、他人にも避けられるようになっていたほどだ。そんな男が今ここに至って『言う時が来たら言う』などという言葉を発するなど、レイは思ってもいなかった。
「うん、なんつーか昔のようだ」
「昔も今も俺は俺なんだけど?」
「丸くなったというか……お前、なんか生活変わったか?」
生活の変化ねぇ、とレイモンドの指摘を受けエシュはこのところの生活をかえりみてみたが、恒例のように賞金首を張り倒しては賞金をもらい、時折舞い込む調査依頼で他人のプライバシーを侵害し、なんとか家計の足しにしようと日雇い仕事をし、と2か月前とさほど変わらない生活を送っている。
強いて、変化をもたらしたものを挙げるとするなら、下の階の住人くらいしかいないだろう。
「へぇ、こんなカンシャク玉をこうも手懐けるとは。世の中凄い人間もいたもんだ」
「誰がカンシャク玉だ、誰が!」
レイの軽口にエシュはガンガンと座っているスツールの脚に蹴りを入れることで対抗してきた。
がいんがいん、と金属部分の振動が、座っている人間には多少痛いものの、悪友がかつてのような明るさを取り戻しつつあることの対価であるかのようにレイは感じていた。
願わくばこのまま、エシュの身辺の状況が改善されることを、友人は口にこそ出さなかったが、切に願うのであった。
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