第13話 placebo【1】

 いよいよ一日が終わりを告げるような気分に駆られ、健全な生活を営む人間は明日の気配を感じながら終業時間に思いをはせる。夕方の雰囲気というものは独特なものである。

 昼間の喧騒とは替わり、家路を急ぐ人々が行き交う街の風景は活気こそあるが、やはりどこか疲れているのか、彼らは無防備な空気をはらんでいる。



 そんな夕方の街並みの風情から隔絶した部屋の中にエシュはいた。


 葵とひと悶着あった時から依然として変わらない、何故かベッドが部屋のど真ん中に鎮座しているというデタラメな、あのリビングルームだ。窓から差し込む陽光はすっかり傾いで薄く、ようやっと部屋の中を確認できる程度の明るさしかない。その僅かな夕日に照らし出されてやっと物体の輪郭を確認できるくらい、部屋の中は明かりも落ちて暗かった。


 そんな中、エシュはただベッドに大の字に寝転がり、モーターの小さな唸りを伴ってゆったりと回転をするシーリングファンをぼんやりと見つめていた。


 彼には考えておくべきことがあった。だが、与えられた情報は対応に困るようなものを含んでいた。

 最良の対処が今すぐには見つからない、考え付かない。今はまず、頭の中の情報を整理するためにも、“何もしない時間”が必要だった。


 天井のファンの平べったいブレードが、エシュの視界の中をのんびり何度も通過していった。


「…………あいつ、どう思っているんだろうな」




「それが、君の答えなんだね?」

「はい」


 それは直近の早瀬とのミーティングでのことであった。


 早瀬はエシュに対して、ある重要な問いかけをしてきたのだ。それは葵に関することであり、以降も関わりを続けるとするならば、エシュが望まないとしても深く関わらざるを得ない“これから”になることを暗に言っていた。

 ここで素直にエシュが引けば、また元の日々が待っているだろう。階下の住人の顔と彼の奇妙な生活を知ってしまっていることを除いて。


 早瀬は黙してエシュから視線をそらさなかった。エシュの表情を観察して見極めようとしているのか、早瀬はテーブルに肘をつき指先を組み、やや上目遣いの双眸で、じぃ、とエシュを窺うように見る。


 エシュはその早瀬の様子にかすかに居心地の悪さを感じ、少しでも良い印象を与えようと居住まいを正した。彼の言う、この先に何があるのかなど、エシュはおおよそ深く考えてもいないし、葵や早瀬に対し、己がどのようなポジションで関係性を保持したいか、など到底思考には存在しなかった。


 それでも彼の中では、単純なことを言うならば、「好奇心」がむくむくと育ち始めていた。自分が一体、彼らの中という小さな社会の中ででも、一体何者に成り得るのか。そこに興味が芽生えていた。エシュの中では、首を突っ込み続ける理由は無い、が、彼らから離れる理由もなかった。

 そうして、エシュは早瀬を真正面から見据え、穏やかに頷いた。と、同時にふと、猫を拾ってしまい、面倒を自分が見るから家に置いてやってくれ、と言って親に懇願した、幼い頃の己の姿が脳裏によみがえっていた。


 早瀬は、エシュのその反応から、少し安心したような表情を見せた。肩の力を少し抜き、そして早瀬はゆっくりと、こう切り出した。


「葵君には、記憶が無い」


 少し、驚いた。

 エシュにはその「記憶がない」という、映画の中でしか聞かなかったような言葉が今、目の前の男性から放たれているという事に戸惑いを覚えていた。理解に数秒の時間を要したエシュは、思わず眉根を寄せた。


「記憶が無い、といっても普段の生活の動作や行動は覚えている。だけど……」

「自分の過去を知らない……ってことですか?」


 早瀬は、そんなエシュの反応もある程度予測していたらしく、かすかな苦笑を見せながら、こくりと頷いた。


 過去を知らない男、という点においてエシュは内心混乱する半面、ああそういうことだったのかと妙に納得する部分もあった。


 前職が警察官であるはずの自分の尾行を苦もなく見抜いた件にしても、やけにナイフの取り扱いが手慣れている件にしても、さながら映画の登場人物のようにやってのけた。エシュの中における「記憶喪失」という言葉の非現実性と葵の非日常的なスキルの発露は、一本の線で繋げられるもののようにエシュは感じていた。


 早瀬からの情報が無かったことも頷ける。人間誰しもが多面性を持っているものである。葵が早瀬に言わなかった何がしかがあって不思議ではない。


 それでもしも、言わなかった記憶を失ってしまったならば、もう、申告しなかった“何か”はその存在すら他者の目からは分からなくなってしまう。


 極端な話もしかしたら、早瀬の知らない“葵”はとんでもないことをしていた人間だったのかもしれない。


「あの子……葵君の事をほんの一時期だけ預かっていたことがある。まだ彼は小学生で、そのくせ当たり前の無邪気さってのがない子供だった。何かに抑圧されていたのか、僕の所に来た当初はあまり笑わなかった。彼がいなくなった後も、僕はずっと気にかけていた。僕が葵君に再開出来たのは本当に偶然……“ラッキー”でしかなかった……。そして、その時には、既に記憶はなくなっていたんだ」

「どうやって、幼い頃にしか会ってないはずの葵の消息を知ったのですか?」


 葵がもし、何か事件に巻き込まれたとかならば、ほぼ必ず事件そのものの情報も公共の電波に乗る。

 もし早瀬が葵発見の旨を事件の情報で知ったのならば、しらみつぶしに管轄署の事件情報を当たっていけば、葵の記憶に近付けるヒントを引き当てるかもしれない。

 エシュは思わず口に出していた。


「そこはまだ、君には伝えられないよ。だけど……」


 早瀬はエシュの目の前に、一体どこにしまってあったのだろうか、また更なるファイルを差し出した。


「記憶を喪失した葵が、発見された当時の様子をまとめたものだ……」


 ファイルの厚みが、エシュに正体の知れないプレッシャーを与える。


「見る、見ないは君の自由だ」




 その後、自宅に戻ってからエシュは取りとめもなく考えていた。


 それ以外の事をする気力もなく、ただリビングルームのど真ん中のベッドに力なく身体を沈めぼんやりと、自分の思考が整頓され終わるのを待ちわびながら、無為な数時間を過ごしていた。

 普段の労働とは少し頭の使う部分が違うのだ、と自分自身に言い訳もしてみたが、依然として自分の脳味噌は“少し難しい話”でしかないはずの葵の境遇を考えただけで、まるでフードプロセッサーにかけられたような気分になる。


 エシュは沈みゆく気分を振り払おうと、ゴロリと横に寝がえりをうった。そうして窓のある方をやっと向くことになったエシュは、そこであるものに気が付いた。


 窓枠の向こう側、夕暮れの空に薄暗く彩られる景色の中にまるで溶け込むようにして存在する影のかたまりがあった。その、影がわだかまっているようなかたまりは、人の形をしていた。


 一瞬、エシュはそれがなんであるかわからず、思わず身体が硬直するのを感じた。すっかり考えることに頭の体力を費やしすぎて、自分は幻覚でも見たのかと疑ったくらいだ。


 コツ……コツ……


 その人影は、自分がするのよりもはるかに控えめに、窓のガラスを叩いてきた。目が慣れてきたのと、その音の具合から、エシュはやっとその人影の正体がわかった。


 目下、エシュが頭を悩ませる張本人こと葵そのひとであった。

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