第9話 resilience【1】

 すがすがしい、美しい陽の光が目に突き刺さるような、いつもと変わらない朝だった。

 いつものように、大した家具も何もない殺風景な台所に立ち、葵はヤカンを水で満たし、火にかけた。水が沸くまでしばしの間、葵は傍らのシンクに寄りかかりながら、業務依頼のマニュアル類に目を通していた。


 葵は現在、在宅の翻訳業務を請け負って生計を立てている。エシュがつい先日まで想像していたように、葵はただ引きこもって生きているわけではなかった。

 現在、彼が着手している案件は、実は過去に葵が担当した作業の質をいたく気に入った依頼主が、訳者指定の割増料金を払ってでも、と持ち込んだものであった。

 それなりに大口のものであったが、やはりある程度の規則性と禁止事項等があり、その分気遣いの要る案件でもあった。ただ、これらの工程がリテイク数も抑え目に完了すれば、短い期間で良い収入になるだろう、と葵は考えていた。


 そのため葵は、表情にこそ出ないが、結構な長時間作業に集中しつづけ、疲労を覚えていた。科学論文の類のように正確性を求めるものではないが、構文力と文脈の機微を単語とともに拾い上げねばならない。目にも堪えるが、なにより今は頭がぼんやりする。


 そう、それはいつもと同じ朝だった。ただ一つだけ「いつも」の風景をぶち壊すものがあった。


 それは葵の立つ台所から、何も隔てず目に入る場所に陣取っていた。

 居室の、少し外界の排気ガスに四隅をすすけさせた窓ガラスの向こう側。さっきから一人の男がへばりつくように、ガラスの中を覗きこんでいた。


 たった数日の間に初めて会話をしただけの人間だった。


「……」


 葵はそれとうっかり目が合ってしまった。しかし葵は黙り込んだまま、表情を崩すことなく、また持っていた分厚いマニュアルに視線を戻した。

 葵は無視を続けることにしたらしい。

 しかし窓ガラスの向こうの男は、まだこちら側に関心を持っているようだ。それでも葵は全く興味を持とうとしなかった。


 いや。関わり合いにはなりたくなかったのだ。

 しかし問題の男は葵の考えなぞ知る由もなく、更に自身の存在をアピールするべく、新たな手を打ってきた。


 コツコツコツコツ


「お~い、葵ちゃん。見えてんだろ? 開けてくれよ~」


 ガラス越しの呼び掛けが、微妙に硬質なノック音とともに聞こえてくる。


 どうやら上の階の男、非常梯子用の足場をつたってこちらの方に来たようだが、だったら非常用設備の無断使用で大家に密告してやろうか、とも一瞬葵は考えた。

 しかし様々な意味で大らかかつ大雑把であるこの国の風土というか国民性というものを思い出し、あきらめた。


「お~い」


 コツコツコツコツ


 葵がどう応対してお帰り願おうか考えを巡らせている間にも、窓をひたすら超高速ノックしつづける男。ガラスの立てる音はとても耳障りで、元々機嫌の良くなかった葵の神経を逆なでした。


 この男の前世はキツツキだったに違いない。

 ここまでされたからには無視の姿勢を貫こう、と決意した葵に対し、業を煮やしたエシュはある“切り札"を使った。


「早瀬さんにチクるぞ」

「…………」


 その一言に、忌々しそうに眉間にしわを寄せてガラスの向こう側を睨む葵。

 エシュはそれを見て、勝ったと言い出しそうに満足げな笑みを浮かべた。


 このような些事でいちいち勝敗を付けて一喜一憂する方が余計なストレスにつながるだけだと、葵は自身に言い聞かせるように思ったが、それでも無性にエシュのその笑みが気に食わなかった。

 あからさまに不本意であるといった顔の葵は、ガチャン、とわざと大きく音を立てるような乱暴さで窓の鍵を開ける。


「おー、悪いね~」


 脳味噌の代わりに綿埃でも詰まっているのではないか、などと葵が内心で悪態をつくくらいの軽い口調でエシュは挨拶をし、ずかずかと窓を越え部屋に入り込んできた。


 エシュは、葵の対する早瀬の名の効力の強さに改めて驚いた。その絶対性は例えて言うならカードゲーム上のジョーカーの札に匹敵すると言っても過言ではないだろう。

 早瀬との間柄が良好であると分かっている場合に限ってだが、何かしら葵がエシュに反抗的になったとしても、すぐにこのカードをちらつかせてやれば、葵の行動に制限をかけることが出来るだろう。


 冷静に考えれば、早瀬からの依頼内容は日向 葵の安全上の監視であった。一旦は葵に露呈したものの、逆に対象者にばれるばれないでこれ以上ビクビク考える必要はなくなったわけである。

 先日の葵の要求、すなわち「早瀬に虚偽の報告をする」を飲んでしまえば、早瀬からの後金は手に入るかどうかわからないが、そこを差し引いても葵が提示した口止め料で補てんすればしばらく食っていける。


 表面上だけで葵の要求を飲む、のが今のところラクな選択だろう。



 だが、エシュはそこで更にコマを一つ進める選択をした。


 葵の要求を逆手に取り、やたら葵に接触を図ろうとしてきた。懐に入ってきた。

 葵にとっては、ある意味では最大の誤算と言える。様々な人間を見てきたつもりではあったが、さすがにここまで思考回路のつじつまの合わない人物というか動物は初めてであった。

 葵はこの不躾な来訪者に対し、イライラした感情を隠すことなく顔に現していた。

 やかんから勢いよく蒸気が吹き、沸かしていた湯の沸騰を知らせる。


「あ、コーヒー飲むのか? 俺にも一杯」


 窓から入ってきた闖入者は、めぼしい家具などほとんど無い部屋中を隅までをじろじろ見まわしていたが、やかんの音に反応してか、図々しくもいきなり飲み物の要求をしてきた。


「カップが無い」


 余分な食器など邪魔なだけだ。だから出さない。諦めろ。そう言外に言っているつもりだった。


「お前、来客分にもカップは複数準備しておけよ~。ちょっと待ってな。上に取りに行ってくるから」


 葵は体よく断りを入れたはずだったのだが、今一つこの男には通用しなかったようだ。ここまで他人の都合など考えもしない、デリカシーのない馬鹿とは思ってもいなかった。

 葵は一瞬、そんなことを思いめまいを覚えた。

 エシュは今きた窓の外から、鉄の足場から梯子を登り、上階の自室へ戻って行く。


 このまま窓を閉じてしまえばこの部屋から締め出せる。一瞬そんな湧いて出た誘惑に負けそうになった葵であったが、考えてみればまたさっきのようなキツツキ行動をされては騒々しくて嫌気がさすのは目に見えていた。

 それに今もしそれで引き下がったとして、また別のタイミングを見計らって、更なる嫌がらせを引っ提げてやって来られても迷惑千万だ。


 ズズ……ドターン!! ガチャ!パリン!!


 上階からは立て続けに、何か重たいものが落ちる音や何かが割れる音が聞こえてきた。その上階の床が受けた衝撃を物語るように、こちらの部屋の天井からはぱらぱらと埃が落ちてきた。

 ただものを取りに行くだけでこの騒動である。


(いちいち何をするにしても静かに事を運べないのか、あのへっぽこ賞金稼ぎは……)


 葵は半ば呆れる感情を持ちながら、自身も窓から身を乗り出した。

 そこには、エシュが今朝の襲撃から覗きに至るまで何かにつけてご協力いただいている、古びた鉄製の小さい足場があった。


(あいつ、これを使っていたのか。それにしても良く壊れなかったな……)


 あの男も大変な大柄ではないが、体格は良い。

 そんな彼の質量をこれらの華奢な足場と梯子が支えていたという事実は、葵には僅かながらも称賛を持って捉えられた。足場に少し遠慮がちに乗り、手近に溶接されている鉄梯子に手をかけ、するりするりと葵は、まるで猫の足取りのように音もなく登っていく。

 そしてすぐ上の階の窓の下、自身の階と同じように設置されている足場にたどり着いた。

 足場に完全に体重を乗せる前に、自身の立ち位置の安全を確認する。エシュの階の足場も幸いなことにさしたる物品も、スパイクヒルに住まうおばちゃん達が良くやるような植木鉢部隊も無く、また酷い腐食も大穴も見当たらず安全そうであった。

 足場に乗り、そこの窓からエシュの部屋を覗きこむ。



 無残な部屋があった。



 いわゆる、男の汚部屋と呼称するべき類の空間であった。

 物品は散乱し、生活動線を完全に無視した配置の家具の数々があった。その筆頭はダイニングリビングのど真ん中に、理由なく鎮座している寝台だ。

 不味い事にその配置は、玄関を開けさえすれば瞬時に制圧できると予測出来るほどに無防備な位置にあった。

 そして、エシュが戻ってくるときに開け放したままの窓からは、脂の酸化したような臭気とニコチンの混ざった臭いが漏れ出ていた。


 他人と自身とを安易に比べるな。優位性も劣等感も、感じたところで腹が膨れるか。葵はそういった考えを持って、彼なりの「節度ある人生」というものを織り上げてきた。

 だからこそ彼は、改まって他者の生活の質や思考を眺めてみたことが無かった。


 だからなのか。

 葵はここまで愚かしい生活空間を見たことは無かった。


 エシュは薄汚い部屋の、窓から見て奥の方でひっくり返って腰をさすっていた。


「……何をしている」

「いや、床のカップを拾おうとしたらさ、空きビン踏んづけちまって……ててっ」


 見ればエシュの足元にはガラス製の酒の空き瓶だったと思しき大小の破片が光を反射してキラキラと輝いていて、その存在を誇示している。

 それらに混じるようにして白く不透明で鋭利なかけらが散らばっていた。おそらくそれはエシュが持ちだそうとしていたカップだったものなのだろう。

 先程葵の部屋にまで届いた、物の割れるような音の正体は分かった。そしてこの男の愚かしさも葵は理解した。


 そして、ここまで愚かしくても生きていける男の存在に、無性にいらだった。愚かでは生きていけない。葵はそう思いながら今までを生きていたからだ。


 赤の他人にこうも無防備でいられるのが気に食わない。赤の他人にテリトリーに入られても気にしないところが気に食わない。汚らしい部屋も気に食わない。だらしなさが自身に危険を及ぼすことにも気をかけないところが気に食わない。

 ふつふつとした怒りが静かにこみあげてくるのが葵にはよく分かった。


「あーくそっ、このカップ気に入ってたのに……あ、悪いけど台所からちっちゃい奴あっから、取ってくんねーか?」

「コーヒーを飲む前にやることがあるだろう……」


 能天気に割れたカップだったものの取っ手を指先でもてあそびながら葵に指示を飛ばすエシュ。

 エシュは葵が腹を立てていることに全く気付いていはいない。


「あ? 牛乳ならいらねーぞ。俺はブラック派だから……」

「部屋の片付けだ!!!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る