第8話 neophobia【2】

「動くな」


 背後からのその冷たい声にエシュは硬直した。


 かなり近い。


 それなりに屈強なつもりでいたエシュは、そのひ弱でモヤシでひきこもり、なはずのたったひとりの声に、振り向くことも出来ずにいた。

 いや、背中に降りかかる冷気にも似た感覚に、「振り向くべからず」と命令が下り、義務であるかのようにエシュの身体はこわばっていた。


 ひやり、とした感触が、首筋に落ちる。それはまるで氷の糸を押しつけられたようにも思える、冷たい金属の感触だった。

 それ、はエシュの視覚に入っていたわけではなかったが、やすやすとその鋭利さを感知させていた。


 エシュにとって思い当たる物体はただ一つ。

 おそらく、いや確実にナイフの類であろう。


 この男は長袖が『制服』だった。小さな刃物ならすぐに取り出せる隠し場所は列挙できるくらいにある。

 慌てて走って来たせいで、角を曲がった時点で自分は見落としてしまったようだ。どうやらこの男、曲がったと見せかけておいて、追跡者の死角にぴたりと身を隠し釣っただけのことだった。


 自分の腕が衰えたとは思いたくない。この結果はどう見積もっても、この男自身にかつて尾行された経験があってのことだ。そう言い聞かせているつもりでも、それでもエシュのプライドには傷の入る出来事であった。


 別段、葵がエシュの身体の一部を拘束しているわけではない。ただ彼の首筋に小さなナイフを当てているだけのこと。

 逃げればよい、対抗すればよい、相手はただ一人の上に、片手は買ったばかりの品々を詰め込んだ重い紙袋でふさがっているのだから。

 しかし、エシュは逃げようとしなかった。否、出来なかった。


 ただ棒立ちになっていた。


 そして、葵の突きつける刃は正確に、人体の弱点へ狙いを定めピタリと動かない。明るい陽の光の下でありながら、その暖かな世界に背くように、殺気がそこには満ちていた。

 葵は、己が優位だと認識していても、決して自分から警戒を解く気配はまるでなかった。相変わらず刃を追跡者の首筋に当てたまま、その様子をうかがっている。


 エシュは思った。ここは正直に会話を試みるべきだ、と。

 いまやその小さな刃物がエシュの命の結末を決める。この男が消すべしと判断すれば、そこでオサラバとなる。エシュはそれだけはどうしても避けたかった。


「まぁ、待て、待て。別に俺はお前に危害を加えるつもりはない」

「…………」


 凍てついたような沈黙が続く。葵は依然答えない。相変わらずこちらを睨みつけているのだろう。

 この男の野良猫のような慎重さなら、この数秒で嫌というほど理解している。

 誠実さをアピールし、かつ、明確な理由を言わなければ、この緊張状態から解放してくれないだろう。


 この葵という男を見くびりすぎていた、とエシュは口には出さないが悔恨を覚えていた。少なくとも、首筋ぴったりに刃を立てているその手元には、わずかな危なっかしさも震えも見られない。“慣れて"いるのだ。


 刃の重量に根負けして手首が緩んでくる、なんて気配はみじんもない。柄の握り方一つとってみても、しかるべき場所でしかも体系付けられた教えを受けたものだ、と思っても良いだろう。


(心配というか、なんというか。こいつ昔は一体どこで何をしてきたのやら)


 早瀬の言っていた“危険なこと"というのは、どこかのよからぬ誰かから危険な目に遭わされる方、ではなくて、哀れな誰かに危険な体験をプレゼントする方、を指していたのかもしれないな、という考えがエシュの頭に浮かんだ。

 とにかく、このままだんまりを続けていけば、自分の生存確率は確実にゼロに近付いていくだろう。


 思いすごしではない。現に、首筋にかかる押し当てた刃の圧力は先程から、心なしか強くなってきているのだ。


「あんたの叔父さん……早瀬から依頼を受けたんだよ」

「……早瀬さん……だと?」


 そこでやっと手首から切っ先まで通っていた力が抜ける。

 やっと冷たい金属の感触が首筋から離れていくのがエシュには良く分かった。


 緊張と白刃から解放されたエシュは、その刃が当てられていた部分をいとおしむようにさすりながら振り向き、後ろに立っていた葵とやっと対面した。

 刃を向けられていたのは実質たった数秒のことだったが、数日間の連続夜勤からやっと解放されたような気分になり、エシュは大きく息をついた。


「どういうことだ。説明しろ」


 相変わらず目の前のエシュを睨みつける葵を制しながら、エシュはこれからどうするべきかを考えた。


(まずは穏便に話せる場所へ移動しよう。長い話になるかもしれないし。というか、こんな所に長居して、不審者とか放火犯の下見扱いを受けるのはまっぴらだ……)


 エシュは既にあきらめの境地に達していた。


 ここまではっきりと対象者に捕捉されてしまったのだ。早瀬の名も出した以上、小芝居じみたごまかしで、葵の追及から逃れることは困難だろう。これからする会話の中で、対象者に依頼内容をバラすことになるのは避けられないだろう。

 早瀬からの依頼は完全に、この時点をもって継続は実質不可能となった。



 結局エシュは、早瀬と交渉を行った時と同じ喫茶店で、彼の甥に今度は問い詰められる破目となった。

 しかも全く同じボックス席に着き、同じように注文するはアメリカンコーヒーというところまで、何もかもそっくりそのままだ。否応なしに既視感というものがそこにはあった。


「……で。どういうことだ」

「いや、どうしたもこうしたも……あんた、心当たりあるだろ」


 早瀬は葵にとってどういう人物か。それによってはエシュの運命は違っていた。

 その両人がもしいがみ合う仲ならば、今、エシュはここに座ってすらいなかったろう。この男はそういう、自身に警戒心を持たせる存在に対し、非常に冷徹になれる人間なのだ。

 そんな人間が早瀬の名を聞いて引き下がるのだから、この甥にとって叔父は上位にあるものだと、そこまではエシュでも類推出来た。


 そんな物騒な人物に対して、わざわざ早瀬が心配して監視の依頼をしてくる心当たりとは。その心配の内容は加害か被害かは知らないが、そんな身内同士の心の機微は他人では知り得もしないし、聞いたところでエシュは心理学の知識は持ち合わせてはいない。


 ただ、葵が己の内面に目を向け、思い当たる節があればよし、無くてもそれは家族間のもの。ここではエシュ主導で話をつなげるための問いかけでしかない。

 案の定、葵は目頭を押さえ考え込む。そしてため息をひとつつき、切りだしてきた。


「……いくらだ?」

「それは言えん」

「倍払う」

「どういうつもりだ」

「『何も困らせることは無い』早瀬さんにそう報告してほしい。受けてくれるなら、今提示した金を払おう」


 それはまるで、ロブスターや仔牛のセリのような速度の応答だった。


 しかしそうやって葵が金の話をし出したあたり、既にエシュに勝ち目が見え始めていた。葵は早瀬との接触を回避したがっている。しかし、それは忌避ではない。憎悪の感情はそこにはない。


「依頼人に虚偽の報告をしろと?」

「あんたは依頼された業務を早々に失敗している。前金は契約上丸取り出来るとはいえ、未払いの後金に関しては、成功報酬でも実働日数の換算でも、ロクな払いにはならないだろうな。自営業で賞金稼ぎ、となれば生活は不安定と相場は決まっている。今週はいくつパンを食べられたのか? あんた、それでいいのか?」

「それならこっちは叔父さんに対して“日向 葵が嘘の報告を流すようにと脅迫してきました"って流してやってもいいんだぜ?」

「…………」


 一瞬、葵の眉がピクリと動いた。早瀬の存在は確実にカウンターとして効いているようだ。


 双方の間に沈黙が降りる。


 どうやらやはりこの男、あの叔父とやらに相当頭が上がらないようだ。むしろ弱みに近い。

 この早瀬というワードが今後もカギになってくるだろう。そんな使われ方をされるなんて本人は露知らずであろうが、ここはひとつ頑張ってもらおう。とにかく早瀬、と持ちだせばこの男はいとも簡単に黙る。今ここでの交渉の主導権すらあっさりと、こっち側にやってきたのだから。


 エシュはこのチャンスを逃してはならない、と思った。今この会話の中で、彼と我とは対等である、と完全に彼に認識させねばならない。


「俺だって一応『元』プロだが、あの依頼主はお前さんの能力や特技など、ある種の特殊性を知らせてこなかった。調査をするにしても、提供されたプロフィールにこんな大きな穴があっちゃ、話にならねー。対象者が調査活動に対し牽制できる方法を知っている前提を、こちらが知らされていない状況下で、俺は仕事を失敗した。それにも拘らず、依頼主が俺に対して認識するのは『仕事を失敗した』その一点のみだろうと、想像に難くない、な?」

「…………」

「これはフェアではない。そうだろう?」

「…………む」


 そこまで一気に言い、エシュは少し冷めてしまったアメリカンコーヒーを、ぐいっ、と飲み干す。エシュの言っていることは半ば言いがかりに近いが、葵に自身の存在をばれてもなお、飯のタネと命を亡くすわけにはいかなかった。


 小手先だろうと何だろうと要は勢いである。


 そこに矛盾や理不尽があっても白を黒と言い放つことも勢いがあれば可能なのだ。世の中はそうして回っている。

 そして、葵の顔をまっすぐ見据え至極まっとうな表情をしながら、こう切り出した。


「ここはひとつ、俺とお前が仲良くなるのが一番いい手だと思うわけだ」

「…………」


 葵はエシュの提案に、うんともすんとも言わなかった。

 いや、完全に勢いにのまれたような、間の抜けた表情でエシュを見つめるだけであった。何を言っているのか良く分からない、そんな心情を物語るような目つきだったことは良く分かる。


 これは滑ったのかもしれない。そうエシュは内心焦りを感じたが、口から出た言葉は引きもどせない。エシュは続ける。


「友人関係があるように見せときゃ、あの叔父さんだって胃を痛めることもないだろ。どうだ?」

「お前、頭沸いているだろ」


 やっと葵の脳味噌が息を吹き返したのか、少々子供じみた減らず口が返ってきた。


「お互いの共存のためには、これが一番だと思うがな」


 ならばこちらは大人らしく優位であるように振る舞って見せる。

 ここまで葵の気勢を削げば、今一応の身の安全は確保できる。エシュの今の目的はあくまでも保身止まりであった。


 あまり葵に、本気で友達付き合いを望まれても、それはそれで精神的に不都合である。


「お断りだ」


 結局葵は、エシュと友人関係となるという提案に乗ってくることは無かった。卓上に自分の分の飲み物代とチップを置いていき、さっさと葵は店を出た。


「さてと……次はどうするかな」


 席に一人残されたエシュも、全てが良好だとは言えなかった。


 第一、現段階では肝心の収入源は収入減である。対象者に監視者が捕捉されているなどとは最悪な展開である。

 ただ少なくとも対象者からは今後命を狙われずにいられるだろう。これからの監視業務及び報告を何食わぬ顔で続けられるかどうか。それによってエシュの今月の献立が決定するのだ。


 座席の背もたれに身体を預けながら、背を伸ばしたエシュは、じっくり次の手を考えることにした。

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