第7話 neophobia【1】

 早瀬との面談のその翌日から、早速エシュは対象の尾行を開始した。


 しかし尾行とは言ったものの、対象者こと日向 葵の自宅の扉を見張っていたが、実際に彼が家の外に姿を現したのは、開始日から2~3日も後の話だった。

 既に時間も普通の会社の始業時刻などとっくに過ぎたあたりで、太陽もすっかり高くなっていた。


 エシュの頭の中には、相手がどんなバックボーンなのかなど考えに入っていない。


 完全に対象者を「ただの引きこもり」としか認識しておらず、その一方的な判断のもと、知らず知らずのうちに葵を敵視し始めていた。



 日常の喧騒に逃げ隠れして生きている、唾棄すべき小心者。


 仕事がない事で金のない苦しみも知らず、逆に、仕事があることで汗水たらして上司に小突かれて薄給を得る惨めさをも知らず、そのくせのうのうと生きている横着者、いや“種族"。


 それがエシュの中で凝り固まっている引きこもり像であった。



 彼は、社会がそんな種類の人間達に手を差し伸べ生き延びさせようと働きかけることは間違っていることであり、労働し稼ぎ納税を怠らず、それでも資本主義的社会の中において無個性な大衆として、搾取の対象としての扱いをされるばかりの「一般市民」に対してこそ、この世界は公平であるべきだと思っていた。


 残念ながら、悲しいまでに彼は「元」警察官であった。賞金稼ぎに身をやつした今であってもなお、法の番人としての視点を抱いたまま生きていた。


 彼は犯罪を犯さねばならない理由というものに興味がなく、そして同様に「一般的生活」を送らない人生を選択する理由にも、全く興味は持てなかった。

 彼は「普通に生きていないもの」に対しては不寛容であり、それら「普通に生きていないもの」こそが犯罪を犯すのだと、ある種の脅迫的感情を伴いながらそう思っていた。



 葵はどうやら目的があって外に出たようで、市街でも特に大小様々な商店や露天商が軒を並べる区域を目指し、まっすぐ向かっている。

 街の風景は、通勤ラッシュはとうに終わっており、あわただしさから解放され落ち着きを取り戻していた。


 そろそろ商店や飲食店が客を迎え入れ始める時間帯であり、労働者同士がせかせか我先に仕事場へと向かっていた早朝の風景とはまた違う、客向けの柔らかな活気で満ち溢れていた。

 とても同じ街に闇社会だのなんだのと後ろ暗いものがあるとは思えない光景だ。


 アーケード状に低い屋根を付けた程度の造りをしているマーケット場の中でも、鮮度が命の商品を扱う店舗は人の目が留まりやすく出入りもしやすい場所に陣取っていた。マーケットの中でもその辺りは人の往来が多く、そのためエシュにとっては人々の影にまぎれて対象者を観察するには不都合がなかった。

 対象者の目当ては日用雑貨や食料品の類だった。まあ、カスミを食べて生きていない限り、押し並べて人類全てに必要である、ただの買い出しだ。


 ただ、その他人から、こと女性からは好ましい外見をしているようで、店のおばちゃんに「あんたもっと食べなさいよ!」と絡まれている。気の毒なことに、それは行く先々の店においても同様であった。

 しばらくの押し問答ののち、対象者も彼女たちの強引なまでのおまけ増量攻撃に根負けしたらしく、買い込んだ野菜は、当初に予定していただろうと思われる分より相当膨れ上がっていた。

 どうも彼は母性というものをくすぐるらしい。



 そういえば、こうして出歩いている今もそうだが、依頼主から提供された資料の写真の中でも彼のファッションは常に長袖着用だ。めぼしいバリエーションがあるわけでもない。派手な色柄のものはチーフ一枚カフス一つすら見られなかった。

 更に髪の毛は長く、伸ばしっぱなしで、色は灰色。そんな色の髪など若い白人ではさっぱりお目にかかったことは無い。

 黒髪ばっかりのアジア人の中ではことさらに異質である。


 外見も異質であったが、より異質だったのは彼の住まいであった。


 話は少し前のことに戻るが、依頼主の情報収集力は一体どうしたと言うのか、むしろエシュに依頼を持ち込むよりも、己の手で解決策をひねり出して持って行った方が、よほど効率的に話が進んだのではないかと思うほどの事実を、彼はいきなり突きつけてきた。


 よりにもよって、彼の指示した監視対象はエレグア・グラムの居室のすぐ真下に住んでいる、というのだ。


 そこまで知っているならなぜ、赤の他人に甥を任せるのだとも思ったが、目の前の収入のことを考えると、無気に断るのは得策ではなかった。

 それに何よりそこから推察できる状況が、いつか見たサスペンス映画の主人公のようであり、その体験が出来る可能性に興味と好奇心を抑えきれなかったのもある。



 そういった経緯から依頼を受諾したわけだが、その依頼主が提供した情報を頼りに、更には自分の住居がすぐ上の階であるという“特権"を利用して、有事以外は外壁にへばりついているしか能のない非常梯子に協力してもらいつつ、対象者:日向 葵の居室の様子を窓ガラス越しに見てみたことがある。


 それはまるで、何者かに整えられた廃墟の一室、と例えるべきだったのかもしれない。そんな空間だった。


 エシュの部屋と葵の部屋は、間取りは全く同じはずであった。

 家具の配置や部屋それぞれに割り振られる寝室だの書庫だの物置だの趣味部屋だのといった役割が同一とは限らない、という条件を鑑みても、そこにある物はあまりにも少なかった。

 とにかく家具も無ければ道具類もない。そこに存在するのは、備え付けのキッチンと冷蔵庫、そしてただゴミ箱があるだけだった。


 そして、その程度の生活感の無さであっても、人の住みかである以上存在するはずのものが無かった。


 その部屋には人が住んでいる、などと仮に何も知らない他人に言って見せたとしても、撮影用のセットのようだと返答されるのではないか、と思うくらい、気配というものがそこにはなかったのだ。



 ただ、納得はいく。日向 葵という男とその部屋は良く似ている。


 何処を見つめているのか解らない、そんな目だ。


 エシュの頭の中で、住処と住まう者とが不気味なまでに合致していた。ただその事実はエシュに、腹の中に泥が積もりとぐろを巻いているような感覚を覚えさせた。それは酷く不快なものであった。




 ここ数日間で得た情報や様々な憶測を反芻していると、一通りの買い物を終えたらしい葵がアーケードの外へ出た。マーケットの敷地から離れ、来た道を戻ろうとしている。また少し陽の高くなった市街を、おまけにおまけを重ねられたそれなりの大荷物を抱え無表情で歩いていく。

 そんな葵を、一定の距離を保ちつつ相手に勘付かれないように、細心の注意を払いながらエシュは追い始めた。


 ふと、尾行されているのも知らないはずの葵が立ち止まった。


 エシュも、その葵の続く行動がどうなるのか予測できなかったが、どうなっても対処するためにも立ち止まるしかなかった。

 それでもただ棒立ちになれば怪しまれる。エシュはとっさに、ガムをうっかり踏んづけてしまった哀れな一市民のように片足を傾け、靴底を見る振りをしながら葵を観察した。


 葵は、己の目の前にあるショーウィンドウに目をやっていた。そしておもむろに、そこにはまっている板ガラスを鏡代わりに覗きこみ、髪の乱れを直そうというのか、ちょいちょいと自身の前髪を空いている手で触り始めた。


 エシュにとってそれは非常に拍子抜けであった。


(……ナルシストにロクな奴はいねーな……)


 葵が、自分が想像していた人物らしからぬ行動をとったことで、エシュは色々と考えを巡らせていた自分がかなり間抜けなように思えてきた。


 赤の他人の人となりを勝手に想像しておいて、実際の行動で勝手に落胆しているのだから、想像された当人からすれば迷惑な話であるが、その己の愚かしさをエシュが知るのはまだまだ先の話である。


 葵はウィンドウに映った鏡像を見ていたが、それはほんの数秒間のことであった。


 すぐに用がすんだのだろう。何かに気付いた素振りも、周囲を警戒するような動きも見られなかった。多分尾行には気付いていないだろうと判断し、エシュは葵を引き続き追おうとした。

 しかし、数ブロックも歩かないうちに葵はふらり、とマーケットまでの往路では曲がらなかったはずの建物の角を曲がり、路地裏へするりと入り込んでしまった。

 何か気まぐれでも起こしたか、あるいは流石に異変を察知したのだろうか。


 しかし、つい数秒前まで何も考えていないような、無気力さすら感じる足の運びだった。そんな男が今更警戒するだろうか。


 葵がエシュの視界から消え去った瞬間と、エシュの脳内で対象の先を読む集中が途切れた瞬間は、完璧に同時であった。


「くそっ……まじかよ!?」


 ついその消えた男を見失ってはならないとエシュは、葵がふらりと曲がったところを慌てて追い、同じ角を曲がり、路地裏に駆け込んだ。

 しかし、時すでに遅し、といった表現が良く似合う、誰もいない狭い路地裏がそこにはあるばかりだった。


 葵の姿は今、エシュの前から忽然と消えてしまっていた。


「動くな」


 背後からの冷たい声にエシュは硬直した。

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