第5話 rapport【1】
疲れた時には同じ夢を見る。何かを追いかけ、手を伸ばそうとする夢だ。
さぞかし大事なものなのだろうにも関わらず、それが何かはいつだって分からない。
ただ、追いかけなきゃいけない、という焦燥感だけがはっきりしている。
ひたすらに追い求める。水中を歩いているかのように、歩みが進まない。
どれだけ努力しても距離の縮まらない“それ"の背を、憎しみにも似た暗い感情を抱えて追う。
届きそうで届かない。足が縺れる。
柔らかい地面だ。足が沈む。
前のめりになっても。
指をあらん限りに伸ばして。
もう少しで届く……もう少しで
ピピピピピピピピピピ……
「……また……あの夢か」
さして広くもない部屋の壁にしみいる無機質な電子音を聞きながら、エシュはそう呟いた。
額に手を当てたまま寝台から身を起こすことなく、カラカラとかすかな音を立ててのんびり回転しているシーリングファンを下からぼんやりと眺める。
「ナニ」かに届こうかという時に眼が覚める。一度として「ナニ」かを掴めたことはなかった。いつもその繰り返しだ。たかだか夢の話でありながら、いちいちその内容に気を沈めている。
エシュはそんな自分がとても女々しく滑稽に思えた。
気分爽快からはかけ離れた、無為な一日は既にもう始まっている。
のっそりと鈍くさい動作で寝がえりをうち、枕元に転がった携帯電話がかき鳴らすアラームを切る。そうして起床した時間はすでに昼近く。
陽もすっかり高くなりブラインドの隙間から暖かな光が差し込み、使い込んだことで少しくすんだ色になってしまった部屋の壁に何本かの白く眩しい平行線を描きだしている。
アパートの三階にあるこの自室は採光の良さが魅力の物件だったため、わざわざ照明を点けなくても部屋の中を充分に照らし出すほどの光が差していた。
エシュはのろのろとした動作でベッドから身を起こし、太陽の光り眩しい窓から背を向けて腰かけ、そうしておもむろに目頭を押さえた。眼の奥に鉛が詰まっているような、重い疲れを感じている。
その上日光なんて浴びたら目が潰れて、否、溶けてしまうような気さえしたのだ。
光を遮って作った自分の影で眼が慣れ、やっと部屋を見渡すと、あちらこちらに安酒の瓶や血糊つきのみすぼらしい服が雑魚寝している。
あまり今は使っていないローテーブルの上には、買うだけ買って来た生活用品が片付けられないままにいくつも放り出されている。
衣料品やPCに周辺機器の類、文具類、果ては食器まで。
生活のカテゴリーのほぼすべてがそのテーブルの上に出張していた。そこに無いものといえば腐ってしまう方のゴミの類くらいだろう。
はっきり言って居室というより巣に近い。
わかっている。この部屋は刻々と不潔になっていることくらい、重々わかっている。一応の自覚はある。
片付けようと思いながらも、疲労と怠惰な生活でタイミングを完全に見逃し、またさらに手の届くところに生活用品を転がしているので、不便を感じないのだ。いや、麻痺してきているのだ。
エシュは起きぬけの気分を一新するために一服しようと思い、煙草を探すために床の上に脱ぎ散らかした上着の一枚のポケットを漁り、そこから紙巻き煙草のパッケージを取り出す。
いつもそうやっているように煙草を口にくわえ愛用のライターで火を着け、肺いっぱいに思い切り煙を吸い込もうとすると、口の中の傷に触ったらしく、わずかな塩気とぴりりとした痛みを感じ、エシュは顔をしかめた。
すっかり最近では心理的な焦りや落ち込みを払拭せんとして、エシュは連日胡乱気な場所を渡り歩いては暴れまわるなどという愚行としか思えないようなことをしている。
そんなことをする理由など、他人から見ればただの言い訳でしかない八つ当たりだが、その『ハードワーク』のせいで体のあちこちが傷つき、さらにその痛みを紛らわせるためなのか酒をあおる量が増えていた。
喫煙量も結構増えていたかもしれない。
もう少しで求める何かに届きそうな夢を繰り返し見るのも、これらの負の連鎖からなのだろう。
分かっているくせにやめられない。せめてなにがしかの突破口、いや、希望の一つでもこのてのひらに残っていたなら、まだ自分を律する元気も湧いてくるのだろうが。そう、とりとめもないことを思い描きながらエシュは空中に漂う紫煙に手をかざす。紫煙は窓からの陽の光を受けて、風をはらんでたなびく羽衣のような姿を見せている。
男がそれを掴もうと指を曲げても、煙はくゆりと指をかわし蜘蛛の糸よりも細く裂けて空気に流れて、消えていく。
触れることも掴むこともできない。
霧散した煙はまるで己を嘲笑っているようにも思えた。掴んだと思ったら消えてしまう。今のエシュにとってはジョン・ドウも煙も似たようなものだった。
ゴールの見えない、報われない、誰にも見向きもされない努力ほど、たった一人で続けるのは様々な意味でしんどい。
もう少し経てば、世界のすべてが自分の敵であるように思い始めるところまで行けるだろう。
(掴めるはずがない……のか。まるで俺は道化のようじゃないか…)
信頼できる情報も協力者も少なく、それでも延々と手探りのような状態で、その煙のような人物を探し続けるという行為は、彼の肉体と精神を徐々にだがしかし確実に蝕んできていた。
カタリッ
唐突に、重たい金属製の玄関扉の向こう側から、何者かの気配と音がかすかにした。
とっさの音に反応し、エシュは顔を上げる。物音は複数の立てるそれとか、物々しいものではないが、世の中にはその程度の認識の錯誤を当たり前のように操る存在もある。反射的にエシュは警戒した。
ここ数日の自分の所業が危険な行為であることは分かっている。もしかしたらその時にサンドバッグにされた連中、あるいはそいつらに依頼を受けた人物による報復が来たのかもしれない。
だが、どこから住所がばれたのか。
どれだけ荒んだ精神状態であっても、一応は犯罪者のパターンというものと自衛手段を前職の経験からエシュは体に叩き込んでいた。
手がかりを残していくなどというヘマをした覚えは無い。もしも報復だったなら、誰が、どこで、嗅ぎつけたのか。
エシュの顔にかすかだが険しいそれになる。
ピンポーン…ピンポーン…
インターホンがまだ見ぬ訪問者の到着を部屋の主に告げる。エシュは枕の下にしまいこんだ愛銃を握り、行動を起こそうとした。
着ているものは寝巻代わりのくたびれたカットソーと年季の入ったジーンズであるが、もしも乱闘騒ぎという展開になっても一応問題はなさそうだ。
部屋の壁を背に立ち、ドアへまっすぐ繋がる長くはない廊下を覗き見る。
ローテーブルの上のつけっぱなしのパソコンには、既製品の小型カメラソフトウェアの機能を組み合わせて構成した自作のインターホンの監視画面が表示されている。
そこに表示されていたのは、眼鏡をかけたアジア系の中年男性だった。人の良さそうな外見をしている。見たこともない顔だったが、その纏う雰囲気から堅気の者だと思った。
画面の中の男はしきりにきょろきょろと周囲を見回して窺っている様子だ。その気にしている何かが気にはなるが、エシュは入口を開けることにした。
持っていた拳銃をジーンズの腰にさし、短い廊下を抜ける。
キッ……
耳障りなきしむ音を立てさせながら玄関ドアを開けた。住人がいかに日常的にメンテナンスをしていないかが、蝶番に鳴き声からうかがい知れる。
そこにはインターホンに映されていた温和そうな男一人だけが立っていた。
部屋の周辺にも不審な人間の気配はない。エシュの中で張り詰めていたものは少し軽くなった気がした。
「で、あんた。何の用?」
「あ~……えっと、話があるんだけど……いいかな? 仕事の……依頼なんだ」
一瞬、エシュの体は硬直した。エシュも流石に、はいではどうぞ、と初対面の人間をそこに招き入れるのには抵抗があったようだ。
生活感が充満した、などという表現を通り越した惨状のこの部屋では、まともな仕事の依頼などお流れになってしまいかねないからだ。
見ず知らずの人間に飾らぬこの巣の惨状を見られても平気でいられるほど、彼の神経は太くは無かった。
とっさにエシュは暫定依頼人を玄関先で待たせ、ビジネスの話の場でも一応着用出来る程度にお堅いジャケットを、まるで最後の良心のようにかろうじて部屋に置いてあるコートかけからひっつかんではおった。
仕事の話はアパートの一階部分で営業している喫茶店で聞くことにした。
ただ残念なことに彼のジャケットは、ちょっと臭くなっていた。
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