第2話 cloud 9【2】

「ジョン・ドウ……知っているだろ? そいつ、どこだ?」

「……は?」

「とぼけんなよ。お前が、ここらの縄張りで、その“名前"使ってんのは調査済みだ」


 売人の襟首をぎりぎりと掴んで保持したまま、感情も見せず突きつけた銃を握る手に更に力を籠め、ゴリゴリとその鼻に押し付ける。


「いいから吐けよ。俺はそんなに気が長い方じゃねぇんだ。鼻の穴増やしたくはないだろ?」


 脅す男の碧の眼がギラリと光り、押し当てられた銃口が更に売人の鼻面を豚のそれのように上向かせる。

 男のその台詞が冗談ではないことだけはひどくよく窺い知れた。


「あ……俺の、チームの……仲間が!! そう名乗れば箔がつく、名前で信用して買う奴が増えるって勧めたんだ! 俺は話に乗っただけで、そんなジョンがどうのとか知らねえし、会ったこともねえよ! それだけだ!!」


 与えられた恐怖に負け、とうとう売人が顛末を話しだした。



 数年前のこと。違法薬物のアンダーマーケットにも売人同士のネットワークというものがあるが、そこにぽっと湧いて出てきた男の名前があった


 ジョン・ドウ。


 “名無しのジョン"という一見ふざけたようなこの名前だが、その男が、どこの入手ルートからなのか全く知れないが、高品質のコカインを結構な量で所持している“らしい"という噂だった。

 その噂は瞬く間に広まっていった。しかし……。


 なにぶんどこの入手ルートも『商売道具』の価額は高止まりの昨今。表世界が不景気なら裏世界のすき間風だってつられて冷え込むものなのである。

 そんなこのご時世に、品質の高いコカインを大量に仕入れた奴がいるなら大体どこかから、いつ、どこの誰が、どのルートで、いくらで買ったか、機密保持をしていても情報が岩清水のごとくに漏れ出てくるはずなのだ。


 だが“ジョン"にはそれら付随する漏れが一切なかった。

 それは入手のルートにも彼自身のことに関しても一切合財徹底しており、誰の口の端にも上らず、眉唾もののガセも憶測の域の与太話すらも決して流れることはなかった。


 “ジョン・ドウ"は確かにいる、らしいという『噂』を除いて。

 噂の“ジョン“は表には出てこず、いまや噂が人格を持ったように独り歩きしている状態なのだ。



 そんな噂の男の名前を借りて商売すれば儲かるんじゃないか、借りるくらい造作もないだろうし、もし御本尊がそれで見とがめてもその時点で頭下げてやめれば問題ないだろう。同じチーム仲間の提案で、というかそそのかされたと言うべきか。


 ジョン本人、あるいは彼と繋がりがあることを匂わせることで目の前の売人は売り上げを伸ばそうと思っていた、というところだったらしい。


「……知らない……だと?」


 売人の襟首を締め上げていた賞金稼ぎの手がゆるみ、力が抜けてだらりと垂れ下がる。


 足はふらつき始め、まるで酩酊状態になったかのようだった。いや実際、目の前が一瞬暗くなったような、そんなめまいにも似た感覚に襲われたのではないだろうか。


「ふ……ふふっ……ふははは!」


 それは悲哀なのか嘲笑なのか、男はみずから手で顔を覆い、しばし笑った。そして…。


「……っざけんな! コラァ!!!」


 賞金稼ぎの怒号を伴った渾身の右ストレートが、売人の顎に突き刺さった。完全に手加減も何もそこには無い。

 拳が肉を叩く鈍い音と共に、殴打の衝撃をまともに受けて売人の体はふらつき足がもつれ、そのまま勢いよく顔面が路面のアスファルトに叩きつけられた。


「散々探し回った結果がコレってか!」


 まだ意識を保ち、痛む顔を押さえはっきりとした言葉にもならないような悲鳴を細く吐きだして突っ伏する男の頭を、賞金稼ぎはラグビーボールを蹴り上げるようなフォームで思い切り良く足を振り上げる。


「俺の!! 苦労は!! 何だったんだよ!!」


 売人の、顎への蹴りあげの勢いで仰向けになった胴体に、男は無遠慮に乱暴にまたがりマウントを取り、眼下のすっかり血まみれの顔面に、更に拳を何発も入れる。

 男にはもう反撃や防御をする余裕すらまるで無くもはや無抵抗で、ただこの地獄の時が過ぎ去るのを待つだけしか出来ることはなくなっていた。


「紛らわしい真似しやがって、糞がぁ!!!」


 そう、これは単純に男の唯の八つ当たりであったが。我を忘れるくらい賞金稼ぎは怒り狂っていた。


 そこ、に至るまでに彼が払った努力と時間を思えば致し方ないのかもと思うかもしれないが、その事情を知らないものが見れば恐らく三下に制裁を与えているマフィアの構成員に見えたかもしれない。


「ひ……ひいいっ!」

「てめぇも……逃げんじゃねぇ!!」


 やっと動けるようにまでなったのか、それでも残る腹部の痛みを堪えて、先刻の客の男がその場から逃げ出そうとしていた。情けない様な悲鳴をあげ、へっぴり腰でも何とかこの場を離れようとしていた。

 だが、怒り心頭となっていた賞金稼ぎが見逃すはずはなかった。


 この場の圧倒的強者である男は、懐のホルスターに手を入れると素早く拳銃を抜き放ち構え、走る男の膝めがけ、ゴム弾を撃ち出した。

 そしてそれは見事に直撃した。


「うっ……ぎゃあああああ!!」


 生を受けて以来最大の痛みを与えられたかのような悲鳴を上げ、客の男は再び大地に這いつくばった。


 被弾した片膝はひたすらに痛みとしびれと熱を発する。手で傷付いた膝をかばうくらいしか出来ることの判断がつかない。

 まさか膝の皿が割れたのかも……と、自分の体に深刻なダメージが及んだと理解したことで、男は言いようのない更に深い恐怖にとらわれた。

 ひいひいとか細く、涙交じりに怯え男は半泣きになっていた。


「……た、たすけてくれ」

「あ? 寝ぼけた事ぶっこいてんじゃねーぞ?」


 薄暗い路地裏の貧しい明りの下で、涙と鼻水とへばりついた砂小石で男の顔は、これ以上に情けない物などないくらいに汚れ果てていた。


 地面に這いつくばるそんな男に向かって、思わせぶりなほどにゆっくりと賞金稼ぎは近づき、そしてこう冷たく言い放った。


「てめぇなんざ、地獄行きだ」

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