第11話 彼は彼女を心配する。
「いやー、ここらの路地裏も結構変わったなぁ……」
ふと、レイモンドは声を上げ、感慨深く周囲を見回し始めた。
「そうですか?昔はこれ以上に汚かった、とかでもあるんですか?」
「いんやぁ、今も昔もきったない事には変わりないじゃねえか。そういうんじゃなくて、いわゆる名物……とかな」
「……名物」
と、クエスタは男につられて呟きかけた口をつぐんだ。
ギャングの集会場、マフィアの根城、ドラッグの取り引き……裏社会の定番スポットと言えば、確かに薄暗い路地裏は欠かすことの出来ないエリアだ。実際にスパイクヒルの路地裏には昼とて一般人は踏み込みづらい独特の雰囲気に支配されている。
「いや4~5年前は酷いもんだったよ?どっかのマフィアの代替わりだったかな。それのせいで」
概ね複数の派閥が一つの地区にひしめき合う事はあまりない。
仮に協調路線をとっているならいざ知らずだが、たいていは各々の派閥の構成員同士が陣地の潰し合いを始めてしまうからだと言われている。そして主導権を握った派閥が確定すると、それ以外の淘汰される側の組織の関係者は早々と消え去ってしまう。始末されたか移動したかは想像にゆだねるにしても、そこで活動している人間の雰囲気は抗争の前と後とでがらりと変わってしまうのだ。
堅気の人間には、全く同じようにしか見えない場所も、『知っている』人間が見れば即、その区画の主導権のありかも新派閥の存在も分かるのである。
「その前の代はドラッグの濫用性を危険視し、密売に手を染めない方針だったのだが、新ボスがそれを撤廃、それどころか広く一般人の世界にも売買ルートを浸透させ始めた。それ以前までは、マフィアの伝統と格式にのっとり棲み分けってもんを大事にしていた組織だったのが、新ボスは踏みつけて来たのさ。まるでトールキンが書いた闇の国の軍勢のようにな」
路地裏を歩くレイモンドは、まるで昔話を懐かしむように話してはいるが、その目は笑っていなかった。
そのマフィアのように、多くのマフィアが一般人の間際まで活動範囲を広げるようになったとしたら。想像の翼を広げクエスタは寒気を覚えた。その状況を許し、いつの間にかマフィアが経済の大半を牛耳ってしまった国は確かに存在する。
今ですらこの国でもマフィア対警察の攻防はギリギリのライン上で繰り広げられている。その拮抗をもし破られることになったらとしたら。
「……ですが、いまここを見る限りでは、そこまで酷いという感じではないようにも見られますが……」
「ああ、その代替わりの後、一年くらいは凄まじいなんてもんじゃなかったんだが……ある日突然街中から、あんなにひしめいていたダーティーそうな奴らがきれいさっぱり見かけなくなった」
「淘汰されたということでしょうか」
「さぁ……、そこまではわからねーな。あの当時、組織内部でクーデターでも起こって粛清されたんじゃないか、って噂はあったけどな。それにしてはコトの運びが静かすぎた。逆に俺なんかは、あの大荒れの1年あまりより、この凪の様に静かな今の方が怖いね。水面下で何やってるんだかって、想像もつかないからな」
昔話もそこそこに、レイモンドとクエスタは目的地のすぐ間近まで来ていた。
路地裏とは言うものの、車一台ならゆとりを持って通れるほどの幅がある。路地裏の更に奥まった所にも商店にとっては、スパイクヒルの端まで行き届いた道路網はとても有用なものだろう。
それでも昼なお暗い、と形容したくなるような、妙に後ろ暗い空気が漂っているのは何故なのか。
「あそこの車、見てください」
「ん?」
クエスタが指摘した先には、一台の小汚いワゴン車がエンジンを切らぬまま、こちら側に尻を向けて停まっていた。そこはこのコンビがこれから訪問しようとしていた店からものの数メートルも離れていない所であった。
「あの車輌のすぐ近く、重要参考人の勤務店で間違いないようです。それより……」
車の中、運転席と思しき座席で男の頭がちらちらと動いているのが、シートの裏側からでもレイモンドには見て取れた。車中で何か物を落としたにしてはその動き方には違和感がある。小刻みに頭の影が動き続けている。少し奇妙だ。
「あの動き……コカインか?」
「ここからははっきりそれとは見えませんが、まあ怪しい動きですね」
「って、アイツ……これから俺らが話を聞きに行く奴じゃ……」
何とか目を凝らしレイモンドは、数メートルの距離からバックミラーに映った相手の顔を確認する。
その顔は捜査資料で散々目にした、不審車の運転者として監視カメラに写っていた男の記録写真と酷似していた。
「そのようですね、どうしますか?」
「どうしたもこうしたも……確保っきゃないだろ」
かの男には残念な話ではあるが、この国ではドラッグはたしなむ物などではなく、ただ持っているだけでも重罪人だ。彼が連続殺人の犯人であろうがなかろうが結局捕まることに変わりがなかっただけの話だったわけである。
レイモンドとクエスタの間の空気が、帯電したようにピリッと引き締まる。独特の緊張感だ。レイモンドとて人間であり、面倒なことも荒事も痛いことも嫌いなのだが、このように一気に集中の高まる感覚には充実感を認めている。
重要参考人改め麻薬所持犯のワゴン車が停車しているのは、狭い路地裏の中でも更に袋小路になっている一角の最奥だ。
汚らしい裏路地なら遮蔽物には事欠かないようにも思えるが、赤貧洗うが如しといったところか、逆に身を隠せるようなサイズの放置物などほとんど無いのが現実である。治安が良くない地域だからこそ、放火や器物損壊の防止自衛策として物を置かないようにしているのだろう。
二人は手近な建物の角に身を寄せ、目標の様子を窺いながらそれぞれに銃を取り出し不具合の直前チェックを行い、そして安全装置のロックを解除する。
現行犯を取り押さえるにあたって、犯人と最大限に間合いを詰めてから一気にたたみかけ抵抗するいとまを与えないことがセオリーとなっている。一度取り逃してしまえば、相手に警戒され捕まえることが容易でなくなるのでチャンスは一度きりだ。
だからこそ確実に仕留める方法が採用されているのだ。当然、取り押さえる直前まで、対象者にこちらの存在は悟られないのが理想である。
現在二人が隠れている建物の角からでは、車の内部の詳細を把握するには距離的にギリギリである。車のエンジンがかけたままなのは、機動性の点ではこちらの分が悪い。だが対象は今、麻薬に夢中になっている。直前まで気付かれさえしなければ十分に対処できるだろう。
レイモンドは腹を決め、クエスタに無言で指示を出す。彼女もその指示に従いレイモンドの背を追う。
何とかワゴン車の背面側運転席からの死角までたどり着けば勝ったも当然だが……。そうリアルタイムに算段しながらレイモンドはクエスタを従え、車両との距離を音も立てずに縮めていく。
ぱぎり。
突如、路地裏に不快さすらともなう音が響き渡った。その大きさは二人の空気が一瞬で凍りつき、動きを止めさせるには十分なものであった。
レイモンドの足裏に、靴下と靴底越しに大粒のジャリジャリとした感触があった。どうやら割れたビール瓶の破片を踏み潰したらしい。振り向けば、クエスタは真っ青になった顔でこちらを見ていた。
進行方向を向けば、その音で我に返ったであろう麻薬男と、バックミラー越しに視線が合ってしまった。
一気に状況は最悪になった。
レイモンドは決断を迫られた。判断が遅ければこのバディは共倒れになる。
まだ目標には距離があるが、確保には不可能なほどではない、駆け寄って何としてでも襟首つかんでしまえば何とかなる、はず。
「動くな!!!」
まだ麻薬男が呆けた面をさらしている間にレイモンドは駆け出す。車に向かって銃口を向けあっという間に車に肉薄する。車の開きっぱなしの窓めがけ、クエスタもそれに続く。
しかし彼らの形相を見て現実に立ち返らされたのか、麻薬男も逃げに転じようとバックで急発進をしてきた。アクセルをあらん限りの力で踏みつけたようで、ぎゅりぎゅりと不気味な摩擦音を4つタイヤが立てる。
「動くなっていったじゃん!!!」
そう言ったところでそれを聞く人間などこの世にはあまり存在しないのは彼自身もわかっているはずだったが、とっさに頭に出てきた抗議の言葉はそれであった。
迫りくるワゴンの尻に瞬間的に死の危険をレイモンドは感じた。
くるりときびすを返し、体を反転させると、すぐ後ろに控えていたクエスタを庇うように抱きかかえ、その勢いのまま先刻隠れていた路肩の地面へと転がり出た。そうして猪のように突進してきた鉄の塊をなんとかやり過ごす。
二人を轢き損ねたワゴン車は、制御をしきれず袋小路から弾丸のように飛び出し、T字路の交差部分のゴミ溜めに尻から突っ込んで一度止まった。一瞬、こちらを轢き直すつもりなのかレイモンドは冷や汗をかいたが、ゴミに半分埋もれたワゴンはその鼻先を変え、そのかわり猛スピードで路地裏から一目散に逃げ出した。
よほど慌てていたのかさっきまで吸っていたドラッグの影響なのか、アクセルの踏み加減もむちゃくちゃなのが、あっという間に遠ざかっていく車体の様子からでも良く分かった。激しい加速にハンドルも取られているようで、車体はあっちこっちにぶつかっているくせに、致命的ダメージは憎たらしいくらい上手く回避していた。
「……すげー、運転テクニック」
「何を感心しているんですか! 早く本部に連絡を!!」
レイモンドに先んじて現実に立ち返ったクエスタに叱咤されて初めて、彼は今日から向こう3日は残業が続くことに気が付いたのであった。
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