第8話 彼は知らないことが多い。
「資料を取りに来れないって、どういうことだ!! レイモンド!!!」
『今日は色々と立て込んでいて……』
「ヤクの売人ファイル今すぐ作れって言ったの、お前だろ!!」
『いや……あの、なるべく早く取りに行くようにするから』
「情報はすぐに腐るんだよ! いいからはやくこい!!!」
電話を替わってから、ついさっきまでの眠気を残した相好はどこへやら、語気の荒い、かなり早口のやり取りがそこでは展開されていた。そしてボリュームも相当大きいらしく、狭くは無いはずのアパートの部屋の壁にわんわんと反響している。
あまり物事に動じないはずの葵ですらも顔をしかめるほどなのだから、よほどのものだったのだろう。
何とかこの場のとげとげしいほどの雰囲気を紛らわしたかった葵は、そこのあたりに放置されたままの朝刊に目を通し始めた。
『なんでそんなに焦っているんだよ!?』
「……調査中に気になる奴を見つけたんだ。そいつ自体は小物なんだが……。
もしかしたらアイツに繋がっているかもしれない。だから早いとこ……。」
『いやさぁ。こっちだって色々忙しいんだよ。お前だって元警官なら解るだろ?』
「それとこれとは……」
違う、と言いかけて、エシュは止まった。
「くそ!!」
そしてエシュは悔しげに、手に持っていた携帯電話を床に叩きつけた。どかっ、と密度の高そうな音を立てて、その小さな機械は衝撃で飛び出た電池パックをふっ飛ばしながら、外れた部品ともども廊下まで転がり滑って行く。
床も少しへこんだので、いつか全てリスト化して弁済してもらうため、葵はこのことを心に留めておこうと思った。
(友達との喧嘩でも何でも、やってはならない理由はないが、頼むから家で暴れないでくれ……。)
葵はまた、深いため息をついた。
「エシュ。最近物騒な事件が続いている。警察も大変なんだろう。」
そうエシュに呼びかけ、冷静さを取り戻すよう促してくる葵の言葉に、しかし、ぎろり、とエシュは睨み返してくる。
葵の言う事は正しいのだが、今は己が否定されたような反発心の方がエシュの中では勝っているらしく、素直に聞き入れ難いようだ。
「お前はレイの肩持ちかよ、いやになるね。」
「別に……」
「どうだか」
そういうわけではない、と続けたかったが、エシュの子供の言動の様な言葉に遮られてしまった。
レイモンドや葵とのやり取りで、すっかり自身の子供っぽさを露呈してしまったエシュは、場をごまかすように勢いよく部屋の窓を開け放し、外へ身を乗り出し、その外にある足場の上に移動した。
その、室内から見れば腰高の位置についている窓の下の外壁には、ちょうどそこから簡単に出入りできるような位置に鉄製のベランダ状の足場がある。それは小さいくせに見るからに頑強そうな造りをしており、多少の事があっても壊れそうにない代物だ。柵は付いているものの、人一人がやっと通れる程度の狭いベランダには、やはり鉄製の太い梯子が掛かって上下階を繋げている。
その梯子をたどれば、葵の部屋のある階から、すぐ上のエシュの居室、空き部屋、最上階の屋上まで、同じような設備を通して繋がっている。
何のことは無い、その正体はアパートの非常用階段だったりする。ベランダ状のそれは踊り場の役目を担っているものなのだが、彼らは、特にエシュは、細々と物品を置かないではいるものの、そこを通路代わりにして上下階を行ったり来たりしているのである。
そんな外の鉄梯子もそのかかる年数のせいか、薄く錆び色の粉が吹き始めているが、彼らは自己責任で気にしないでいる。
鉄臭いの梯子を登りながら、エシュは振り返り葵に命じる。
「もうあんな奴知らん! 携帯鳴っても取るなよ、絶対に!!」
誰彼がその着信を取る以前に、携帯そのものの電池パックが外れている現在、どちらにしても携帯は鳴らないのではないか、と葵は思うのだが、肝心のエシュがそこに気付いている様子は無い。
様子は無いが、気が立っている今の彼に対し、あえて突っ込みを今入れるのは得策ではない。
「そうだ、エシュ。玄関のカギはどうした」
「あ、聞きたい? 夕飯食わせてくれるなら……」
「その梯子を真っ二つにする前に答えろ」
ふと湧いた疑問で空気を紛らわせてみたが、機嫌を途端に直すまでならまだ可愛らしさもあるが、まさか便乗して夕飯をたかるとは。なかなかふてぶてしい男である。
即座に葵はそのおこがましい要求を跳ねのけた。
「冗談通じねぇな……無くなったんだよ。調査中に。」
「要するに落としたのか」
「そうとも言うな」
「そうとしか言わん」
エシュはよっこいしょ、の掛け声とともに上の階に乗りあげるようにして戻っていく。「おれちょっと寝るわ~」などと階下に手を振りながら、葵に届くかなど確認もしないままに暢気な伝言を残していく。
そのまま永眠していいぞ、と、葵なりのユーモアを利かせた返答もあったのだが、そこに反応は無い。結局、せっかくの葵の冗談は聞かなかったことにされたようだった。
「エシュが元警察だったとは……」
葵は一人残された部屋で、ふとさっきの会話を反芻し始めた。床の上に投げ出されたまま悲しく放置されたままの電池パックを拾い上げ、これまた元の携帯の背面の大穴にはめ込んでやる。
まるで命を取り戻したかのように画面を光らせる携帯をいじり、そしてふむ、と一人呟く葵。
良くも悪くもほどほどに、良い距離を保った付き合いを持っていたはずだったが、その距離の分だけ知らない事は意外と多かったようだ。ただ、それらに関しては、まだエシュ側から話されることも起こっていないし、特にこちらからも詮索したい意思も特にない。
必要になった時にそういった物事は知ろうとすれば良いだけの話だ。そう葵は思っている。
思考を切り替えるべく目を手元の携帯電話から放し、ふと、あるものに気が付いた。先程読んだままだった朝刊の、その中に挟まった折り込みチラシ。ピザ屋のものだった。
そういえばエシュは、多くの大衆がそうであるように、ピザが好物の一つであったことを、そのチラシから思いだす。
「仕方ない、たまにはあいつの苦労を労ってやるか……」
好物の一つでも腹に入れば、また気力も戻ってくるだろう。そう思い付き、葵はあるところへの電話番号を確認しようと、折り重なった新聞紙の間から、折り込み広告のピザ屋のチラシを引っ張り出した。
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