第7話 彼はプライベートを大切にしたい。

「く……重い……」


 一方その頃。忌々しげにつぶやきながら葵は、全く起きる気配のない男の身体を、半ば力任せに引っ張って居間の中まで移動していた。完全に眠りこけて意識のないエシュは単純な体重以上に担ぐ人間に重量を感じさせているらしく、普段はあまり表情を現さない葵が、ひどく疲弊したような顔をしている。


 ずりずりとにじり寄るようにして部屋の中に配置してあるソファまでやっと近付くと、乱暴に背負った邪魔くさい荷物をその上に引きあげ、八つ当たり気味に手を離して放り出す。

 どしゃっ、という音とともに、勢い付いた状態でソファの座面にエシュは投げ出された。結構な衝撃があったはずなのだが、よほど寝不足が深刻であるのか、依然としてエシュは眼を覚まさなかった。


 ひと仕事を終えた葵は、肩で息をつきながら、こう言う時に人を転がしておけるソファがあってよかった……とも思ったものだったが、その直後にはたと、元々それを持ってきたのはエシュだったと思い出し、若干の自己嫌悪を持つのだった。


 この両人の間で過日、とある『取り引き』が行われた。ところがその後、自分達の間柄をとっかかりに、部屋が殺風景だの生活感がないだの不便だのこれでは女にモテないだの、その他もろもろ、部屋の内装に対しておせっかいな理由と言いがかりをエシュは付け始め、気がつけば部屋の主である葵の許しなしに備品を増やし、いつの間にか葵の自宅はエレグア・グラム邸第二の居間と言っても差し支えがなくなってしまうほどに、葵の生活は侵食されていた。

 この現状を再認識するたびに、葵の口からはため息が出るようになった。


 それにしても、引きずったり投げ出してみたりと、ここまで粗雑に扱っていても未だに目の覚めぬこの男に、さしもの葵も呆れを隠せなかった。この男、確実に心臓に毛が生えているに違いない。

 葵はエシュをソファの上に置いてから、床にすっかりばらまかれてしまった書類を、これ以上散乱させないように丁寧にかき集めて始めた。


 そうしているうちに、また今度はエシュの着ている服の胸ポケットから軽快な電子音楽が流れ出し始めた。彼はたいていそこに自身の携帯電話を差しこんでいる。恐らくはそれが、誰かから来た着信を眠りこけているおのれの主人に、必死に告げているのだろう。


「全く、次は何だ……」


 一瞬プライバシー保護などという問題も葵の脳内をよぎったが、エシュという男の稼業やその他の付き合いを鑑みると、今来ている連絡は緊急性が高いものである可能性がある。

 本人に了解を取らないことに若干の引け目を持ちつつも、葵は携帯電話を相手のポケットから拾い上げ、機械にはめ込まれた液晶画面に映る連絡相手の名前を確認する。

 と、そこにはエシュの悪友としてすっかり覚えてしまった名前があった。


『もしもし……』

「エシュ……じゃないな、葵か?」

『ああ、すまないが勝手にとらせてもらった』

「持ち主は?」

『現在、爆睡中だ』

「葵ちゃんナイス!!」

『誰が葵ちゃんだ』


 相手の口調は至って軽い。この気兼ねのなさが、エシュとこの悪友との付き合いの長さを物語ると同時に、そこが長い付き合いの秘訣なのかもしれない。

 しかし今回は妙なことに、電話に応対したのが電話の持ち主ではなかった、などと普通なら訝しげに思うような事なのに、この通話の相手はむしろ安堵している風である。


『いや~、助かったよ。言い訳のネタが無くてさー』

「……また、何かやらかしたのか」

『過去形じゃなくて現在進行形っつーか……まぁ、伝言頼むわ。』

「それは構わないが……」

「おい……電話変わってくれ」


 地を這うような声が葵の視野の下から聞こえた。いつの間にか目を覚ましていた男がそう訴えたのだ。多分電話も向こう側にいる件の悪友にも聞こえたのか、何となく察しがついたのかしたのだろう、電話越しに相手が息を呑む気配がした。

 ソファから伸ばした手は、葵の着ているシャツの裾をつんつんと引っ張り、その携帯電話をよこせと主張している。


「……だそうだ。なんとか言い訳を捻りだしてくれ」


 電話の向こうからは、大きなため息が聞こえたような気がした。

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