第4話 彼は一応心配している。
いつの間に眠っていたのだろうか……
窓の外からはきゃあきゃあとした子供たちのはしゃぐ声がかすかに聞こえてくる。目が覚めた青年は、卓上の時計を確認する。もう朝の7時だ。どうやらワーク中に体力が尽きたのか、彼は机でパソコンとにらめっこしている姿勢を崩した状態で居眠りをしていたらしい。
「ん。……もうこんな時間か」
長時間のデスクワークで凝り固まった肩を2~3度大きく回し、続いて指先で目頭を柔らかくほぐしてやる。それだけでも彼の体感する疲労感は少し軽くなった。
青年の名は葵。
中性的な顔立ちをしているとよく評され、その面差しに釣り合った細身の体格をしている。デスクワーク歴の長さのせいか少し青白いほどの薄い色の肌でありそれも相まってか、特にめかしこんだ格好をせずとも外を出歩けば目立つ男である。
同居人にはかつて「女に不自由する辛さとは縁が薄いだろう」と悔しそうに言われたこともあったが、しかし心身共に引きこもりがち、プラス現在はある理由から女性という存在に距離を取りがちになって久しいため、すぐれた容姿である自覚も薄いが、その恩恵を実感したこともまたありがたいと思ったことも少ない。
葵は軽く伸びをしながら、開け放したままスリープモードになっていたラップトップを閉じ、立ち上がった。背中の真ん中ほどまで伸びた長い髪を手早くひとつに結いながら、今日一日のタイムテーブルを頭の中で構成する。仕事部屋の扉へ向かいながら、ふと葵はひとつの事に気がついた。
「そういえば…まだ帰ってこないのか…」
その頭脳中のタイムテーブルでもやたらに長時間関わるために割くだろう、と予測して組み込まれている、上の階に住まう人物がどうやらまだ帰ってきていない事を思い出したのだ。
上階の騒々しさが消えて早や4日。
この街ダウンヒルでは『失踪』なんて良くあることだが、住人本人の意思はどうあれ、この葵という男は自身が関わってしまった“知人”が消えるのはなんとも寝覚めが悪くていただけないようだ。
(日ごろの印象から、殺しても死ななさそうな男だと思ってはいたが、まさか危機が迫っているのか。ならばそろそろ警察に届けた方がいいのだろうか。よからぬ悪巧みの激流に飲み込まれているのではないか。もしかしたら今頃は…
・内臓を売り飛ばされている
・魚のえさになっている
・銃の試し撃ちになっている
・なにかの人柱にされている
…の、どれか引き当てているかもしれない。何を引き当てているか預かり知らないことだが気にはなる、それならばあみだくじで占ってみるとか。しかしもし死体になって帰ってきたら本人確認は誰がするんだろうか? 自分か? いや違うか?)
彼は一応、心配はしているのだ。物事を心配しているうちにあらゆるファクターをより悪い方悪い方に考えるのは葵の悪い癖である、と過去何人かにも彼自身指摘を受けている。
(とりあえず…昼までは待ってみるか……)
ただし、この間数秒。
彼は一応、心配は、している。
夜中からすっかり放置して死んだように不味くなったコーヒーを飲みほし、居眠りのせいで途中となっていた仕事の最後の仕上げをするために、葵は机から立ち上がった。
仕事部屋のドアを開け、廊下に出る。いつもと同じ、いつもの動作だ。
ごつっ。
いつもと違うところは、いきなり何かを蹴飛ばしたこと、くらいだ。
室内履き越しの爪先に残る、生温い温度を発するボールの様な、硬い様で柔らかい様な…何とも形容のし辛い感触に、葵は目線を己の足元へと降ろした。
そこには何日分かの無精ひげを生やし、眼の下に隈をこさえた上階の住人が、まるで海岸に打ち上げられたクラゲのように、だらしなく床の上に転がっていた。幸いというか当然というか、頭と胴体がサヨウナラしていたなどという惨状ではないし、死んでもいない。
「……捨て置くぞ」
葵は、本日一本目のため息を吐いたのだった。先程までの話だが、彼は一応、心配は、していた。
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