夏に帰る
玉門三典
8月某日:某所にて
突き抜ける青空の下、まっしろな入道雲が山々の稜線と競うように身の丈を伸ばしている。天頂から照りつける日差しが肌をやき、
「…捨てたはずの故郷に、どうして俺は帰ってきてんだろうな」
むせかえる深緑と土の香りに
ついと見上げた視界のはしに、うっすらと石造りの鳥居が映りこむ。生活圏の中心からやや外れた小高い山の中腹、
鳥居まわりは崖をけずって作られた足場らしく、ぽっかりと下への視界がひらけていた。深い色を
小さい、とは言ってもバラエティ番組で面白おかしく取り上げられるほどの限界集落までには至っておらず、高校までの教育施設が運営できるほどの人口規模は保たれている。近年は他県からの移住の受け入れも試みているようだった。
しかし進学や就職を理由に町を離れる者は年々増え続けており、外部から新たな住民を呼び込んだとしても、それと入れ替わるように内部の人が減っていく。まさに焼け石に水だ。どれほど足掻こうと山間部の
正宗は対岸に視線を落とした。下唇を強く噛み、忌まわしげに目を細める。その顔は、のどかな風景と
この場所だけは何もかもが、
十数年という時を隔ててなお、故郷に息づく人々の営みは何もかもがそっくりそのままだった。景観や住民の顔ぶれに多少の変化はあれど、根本的な中身は何ひとつ変わろうとしていない。
網の目のように張り巡らされた、人の視線と噂話。時代の流れから置き去りにされた、古くさく保守的な同調圧力。都市部から来た者にとっては、あるいはノスタルジーを感じさせるであろう「絵に描いたままの田舎」そのものの故郷が、正宗はずっと嫌いだった。
正宗の腹の底に、ごぼりと怒りが沸き立った。呑み込むことも吐き出すことも叶わない
赤黒い感情の奔流に、喉が、――――焼かれる。
…────キーィヨ
キィ、キィ
正宗の頭上で、バサバサと羽音が鳴った。背後の死角からヒヨドリが飛び立ち、目の前にあった
静まりかえった空間に、正宗だけが取り残された。
ふわりと、前髪が揺れる。
汗ばんだ額を涼しい風が撫でていた。サラサラと鳴る木々の
「…まぁ、さすがに。この暑さだけは
そうこぼす正宗のこめかみには、玉のような汗がいつくも浮かんでいた。その中のひとしずくが、細い顎の先に向けて、ツ、と
カラン、コロン。
…カラン、
正宗が歩む石畳の参道の先には、腰丈ほどの六角形の石柱がぽつねんと立っていた。「お百度」と彫り込まれた文字は
カラン、
…コロン、
……───カラン。
正宗の足元から響くサンダルの音が鳴り止んだ。
「…──自分が馬鹿やってるのは、分かってんだよ」
熱で波打つ空気の中に、正宗はぽつりと、独りごちた。眩ゆい太陽光に
額やこめかみから
視力の矯正がはずされ、ピントのボケた視界は、正宗と外界との繋がりを希薄にした。閉じ込めていた過去の記憶が、彼の脳裏に蘇える。
◇
蛍光灯が昼夜を問わず
「…お前さぁ」
「何のために
正宗は思考を止めて目を
「申し訳ありません」
何度も繰り返し口にされた言葉は、とうの昔にその意味を使いつぶされ、うつろに喉から絞り出される記号となり果てている。
「すみません、はもういいんだよ」
「はい」
「ゴメンナサイだけで許されるのはガキん時だけなの」
「はい」
「本気で申し訳ないと思う気持ちがあるなら、結果を伴わせろよ」
「はい、申し訳ありません」
「だからさぁ、」
上司は手に持っていたプリントの束をデスクへ投げ出し、爪の先でコツコツ、と表紙を叩いた。上司が手にしていた資料は、昨日の深夜に正宗が、編集・校正を終えた──…はずのものだった。
なにこれ。お前、ふざけてんの?
朝礼が終わるや否や、上司は正宗を呼びつけた。これでは資料として成り立たないと。
「コレ明日使うから。上手いことテキトーにまとめといて」
昨日の終業間際、上司から渡されたのはウェブサイト上で実施された顧客アンケートの膨大な回答群だけだった。回答結果をまとめて、資料を作れということらしい。
ウェブアンケートにも関わらず、正宗に回されたデータはご丁寧にも、崩れ落ちそうな紙束の山に出力され直していた。
「お前は
何かを言いかけた正宗を、上司の言葉が牽制した。
うすら笑いを浮かべた口元。
明確な悪意だった。
指先が冷たくなる。
胃の底がギシリと
「この人物の前では何をしても認められることはないのだ」という
正宗を見る上司の目が据わった。正宗の意向と問いは、いつもと
「……あのさぁ。手取り足取り教えられなきゃオシゴトできない奴が、なに偉そうに聞いてんの?」
上司のひと言で、部署内の空気が張り詰めた。周囲の人間は息を潜めて遠巻きに眺めることに徹している。
一年前、異動でやってきたばかりだったあの時の正宗を除いて。
大人しい新入社員への一方的な恫喝を
俺はココでも失敗するのか。
飲み下した内省の言葉は、諦念にも近い自嘲をはらんでいた。こと狭い人間関係の中では、孤立すること自体が自殺行為だと分かっていたはずなのに。
「…いい加減さぁ、分かってくんないかな?」
嫌でも耳に馴染んだ声が、逃避に
「
言葉尻に嘲笑を織り交ぜながら、上司は一気に詰問を畳み掛ける。
目を見て答えろよ。
頭を下げたままの正宗に、上司は追い討ちの言葉を吐き捨てた。正宗が視線を上げた先には、
やがて、上司の唇が無音で言葉を
しねよ。
──────…そこから先の記憶は、断片的なものしか残っていなかった。
会社の最寄り駅のホーム。
腹部の激痛。
ふらつく足。
誰かの怒号。
遠退く意識。
緊急車両のサイレン。
後から人づてに、駅のホームで吐血し、倒れたこと聞かされた。運び込まれた病院で検査をした結果、十二指腸に大きな穴が開いていることが分かった。
入院が必要だと医師から告げられたとき、正宗は自分の中で張り詰めていた何かが、プツリと切れる音を聞いた。
「ねぇ、」
ふと、近くで少女の声が聞こえた。それを皮切りに、遠退いていた蝉時雨と熱気が一挙に正宗へと寄せ返る。呼びかけた声の主を探そうと、眼鏡をかけ直して顔を上げたところで───正宗は思いとどまった。
若い年代に対して過干渉のきらいがある町の老人たちならいざ知らず。十年以上も足を踏み入れなかったこの町で、正宗に声をかけるような少女の知り合いなど、いるはずもない。正宗は、今しがた耳が拾った声を追い払うようにフルフルと
気のせいだ。
少なくとも俺じゃない。
「…ねぇ、おじさん」
「そこ暑くない?」
少女の声が再び聞こえたとき、正宗はハッとして周囲を見渡した。
「あ、良かった。聞こえてたんだ」
「右見て。そのままトケーマワリに90度回って」
言われるがままの手順で振り返った視線の先には、
木陰の下、古びた道祖神の祠の
「何してるの?」
あけすけな問いに、正宗は
「あ───…」
「──ま、それは今いいや!」
苦しまぎれに絞り出そうとした正宗の言い訳は、少女の快活な声に
「ねね、おじさん。ノド渇いてない?」
それは前後の脈絡などまるで意に介さない会話の切り出しかただった。マイペースという言葉をそのまま具現化したかのごとく伸びやかな振舞いで、少女は自らのペースに正宗を取り込みにきていた。
───…と思ったのも束の間、快活な口調を少し曇らせて、少女は正宗にこう続けた。
「…なんか、おじさん顔色悪いからさ。具合悪いんじゃないかなって」
少女の言葉で、正宗は自分の視界が不自然に揺れていることに気がついた。
───…ああ、熱中症かぁ。
身体が訴える生理的な不快感とは裏腹に、奇妙なほどしっくりとした心待ちで、
「あっ」
短く響いた少女の声が、暗転まぎわの正宗の意識を繋ぎとめた。持ちうる気力を振り絞り、つんのめった身体に働く慣性を押しとどめる。体勢を立て直しながら顔を上げると、心配そうな表情で立つ少女の姿が目に映った。彼女の右手は、正宗の方向に伸ばされたまま、宙で固まっている。
だいじょうぶ、大丈夫。
「フラついただけだから!」
少女へかける言葉ができる限り軽い口調に聞こえるよう、努めて声を張った。
「歳は取りたくないねぇ」
うん、もう大丈夫そうだ。
「ううん、大丈夫じゃない」
「え?」
思いがけない少女の噛みつきに驚き、正宗は聞き返した。
「…だっておじさん、顔色悪いまんまだし」
鏡見てみたら?と少女はセーラー服の胸ポケットから薄型の折りたたみミラーを取り出した。
「唇とか真っ青だよ。こんだけ暑いのに」
ほら、と強く促され、正宗はおずおずと少女から鏡を受け取った。どうにも彼女に行動の主導権を握られてしまう。正宗は渋々ながら少女の言葉に従い、鏡を開いて覗き込んだ。
正宗は映っていなかった。
それが何を意味するのか、正宗はわからなかった。ただ切実に、目の前で笑う少女には悟らせてはいけない異常なのだと直感した。
「……ね? 自分が思ってた以上に、ひどいカオだったでしょ?」
鏡を見つめたまま無言の正宗に、少女は念を押した。
「…ほんとだなぁ」
少女の言葉に肯定の意を伝え、正宗は手早く鏡を折りたたんだ。鏡を覗こうと正宗の右隣に回り込んでいた少女は「えー?」と不服の声を上げる。
「…鏡越しにおっさんの顔見たってなんも面白くないだろ? はい、ありがと。返すね」
少女が口を挟む間も与えず、正宗はひと息に話題を切り上げた。
「どうしたの?」
返された手鏡をしまいながら、少女は怪訝な面持ちでこちらを
「なんでもないよ」
そう返した瞬間、内心“しまった”と唇を噛んだ。これでは何かあると自白しているようなものだ。────しかし、
「そっか」
少女の返答は、予想に反してしおらしかった。少女が食い下がってくると踏んで身構えていた正宗は肩透かしを食らい、思わず逸らしていた目を少女に戻して、息を呑む。
目の前の少女は、ひどく淋しげに笑っていた。
その表情を見た瞬間、正宗の脳裏に焼きつくような既視感と後悔がはぜて散った。少女が見せた一瞬の光景に、届かない遠い夏のなにかが呼びかける。
もう二度と触れられない。思い出すことも忘れることもできない。──────…かつて失った、かけがえのないなにかが、確かにそこにいた。
我に返った正宗が「ごめん」と口を開きかけた時、少女がフフ、と吹きだした。呆気に取られた正宗が口をぽかんと開けていると、少女はしまいには腹を抱えて、カラカラと笑いだした。
「おじさ、すっごい
少女の言葉の意図が読み取れず、一拍置いてようやく状況を理解した。
ブラフ。
お芝居。
――――――…
肩から一気に力が抜け、正宗はその場にへたりとしゃがみ込んだ。
「ごめんごめ、まさか、そんなに驚くとは」
少女の声が震えている。こみ上げる笑いを必死に抑えていることは明らかだった。
「……驚いてない」
正宗は眉間に皺を寄せ、唇を尖らせて言い返した。少女に対する正宗の応対は、今やふて腐れた子どものそれと同じだ。表情を窺おうとする少女の視線を、
「嘘だぁ」
そう言ってまた、柔らかな笑い声をクスクスと漏らした。一瞬見せた淋しげな表情は、もはや影も形もない。熱気の中に咲いた少女の声は、次第にゆったりとした沈黙に収束していった。
彼女との間に
「……あのさ、」「あ! そうそう!」
沈黙を破ったのはふたり同時だった。
「「あ、」」
「「お先に」」
「どうぞ」
言葉を譲ったのは正宗だった。少女はパチパチと二度瞬きをしたのち、にこりと口元を
「それじゃ、お言葉に甘えて」
んん、と軽く咳払いをしたあと、少しすました
「…ここからそう遠くないところにさ、」
ああ、俺は。
「駄菓子屋さんがあるんだけど、」
……帰ってきた。
「……冷たいものでも買いに行かない?」
…──帰ってきたんだ。
───■が笑ってた、“この場所”へ。
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