5・希望の星

 弦音つるねが射場の板張りに足をのせた瞬間、メキっときしむ音が響いた。

 

 その音で中にいた三人が弦音の方を一斉に振り返る。


 一同に視線を向けられた弦音の中で緊張が走り、思わず後退する。その弾みでバランスをくずして後方へ転倒しそうになるも、どうにか踏みとどめた。


 「やあ、杉原くん」


 相変わらず人懐こい笑顔を浮かべながら、的場まとば先生がこちらへと近づいてきた。


「ちょうどよかったよ。こっちにおいで」


 的場先生は強引に弦音の手を握ると、男の元へと連れていく。抵抗する暇もない。


 彼の前に突き出された。


 高い。


 秋月や的場先生ほどではないが、小柄な弦音よりも頭一つ分は高そうだ。


 弦音は自然と見上げる体勢になる。


「彼は部長の杉原弦音くん」


「えっと……」


 男から視線を向けられ、弦音は戸惑う。


「そうだ。杉原くん。君の腕前みせてやってくれないかい」


「は?……っていうか、だれですか?」


「ああ、そうだったね。彼は有川朝矢ありかわともやくんだよ。あの有名な」


「有川朝矢?」


 そう言われても、弦音にはまったくピンとこない。

 

 長身で白い肌。切れ長の目。


 イケメンといえば、イケメンだろう。


 スタイルの悪くないのだから、モデルだろうか。


 いやいや、的場先生がそういうことに詳しいとは思えない。


 弦音の中でさまざまな思考が飛ぶが、もちろん何で有名なのか皆目検討がつかなかった。


「だれっすか?」


 弦音は的場先生のほうを見る。


「あれえ、話さなかったかなあ。弓道を志すものは知ってないといけないよ」


「そういわれても……。俺は高校から始めたし……」


 さほどはまっているわけでもない。


 弦音が困惑していると的場先生の眼が輝く。もう三十路にもなるのに子供のようだと弦音は思う。


「彼は弓道界の星だよ。なにせ高校時代は三年連続のインターハイ出場。毎回好成績をのこしているんだよ。三年生では全国優勝している」


 誉められたためか、彼は照れくさそうに自分の頬をポリポリとかいている。


「そんな彼に教えてもらえば、きっと君でもうまくなれる」


「先生……。普通に下手といってませんか」


「そんなことない。そんなこと……。君にも期待している。君はコントロールはいいんだ。もう少し練習すればうまくなるさ」




「先生。勝手に話進めないでくれます? おれ、やるといってませんよ」

 

 さっきまで傍観していた朝矢が困惑しながら口を開いた。


「ええ、そうなの。てっきり承諾したのかと思ったよ」


「どうしたら思えるんだよ? 俺は仕事できただけだぞ」


 そういいながら、朝矢はやれやれと後頭部を撫でながら天井を見つめた。


「仕事?」


 弦音が怪訝な顔で教頭を見る。


「あんなインチキ業をするよりも身になると思うけどなあ」


 インチキ業の言葉で、朝矢の表情が変わる。


「それはどういう意味だ」


 朝矢は腕を組んで的場先生を睨みつける。的場先生のほうは特に臆するわけでもない。


「そうでしょ。妖怪とか霊とかいるわけではないでしょう。教頭も生徒のたわごとに付き合うのはバカバカしいですよ」


「しかし……げんに……」


 教頭は戸惑う。


 まあ、普通の反応だろう。見えないものにとっては、霊といった類は戯言かなにかに聞こえてしまうのだろう。


 たとえ、先ほどまで茶を嗜んでいた〝徳川家康″が的場の頭を突いていたとしても気づきもしない。


『しかし若いのに夢がないのお。これでは天下統一などできんぞ』


 だれも天下統一しようとは思っていない。


『この男は癇に障るのお。ほれほれ、こうしてやろうか』


“家康”は的場先生の髪を引っ張る。さすがに痛みが走ったのだろうか。頭を押さえながら、後ろを振り返っている。


 その様子を‟家康”は愉快そうに笑う。


 一体、この爺さんはなにをしているのだろうかと、朝矢が胡乱うろんげに見る。


「とにかく、どうかな?とりあえず、うちのレベルを見てほしい。彼はうちの部員のなかで一番うまいんだよ。みせてやってくれる」


 一番うまい。

 そういわれて悪い気はしない。


「ほら、見せてやりなさい」


「えっと……」


 弦音は戸惑った。


「いいから、いいから」


 弦音は的場先生に引きずられ射場に立ち、半ば強引に弓を持たされた。


 どうしようか。


「さあ。早く。早く」


 なぜか的場先生が急かす。


 弦音は有川朝矢のほうを見る。彼はとくに表情を変えない。黙ってこちらを見ている。


 なぜか教頭までもが期待の眼差しを向けている。


 そんなに期待されてもどうしろというのか。


 弦音の腕前を知っているはずの的場までもが、まるで脅迫でもするかのような眼差しで見ている。


 どうもやらないと帰してもらえそうもない。

 

 ただの恥さらしになるだけなのにと思いながらも、弦音はいつも自分が使用している弓を取ろうとする。


「あれ?」


 ない。


 自分のいつも使っている弓がないことに気づく。



「あれ? あれ?あれ?」


 別の場所に置いてしまったのかと周囲を見回すも見当たらない。


 どこ?


 あまりに下手すぎて弓にも見捨てられたのかーー!


「おーい! おれの弓ーー! どこにいったーー!」


 弦音は思わず叫んでしまった。

 

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