第11話 隠し扉
今なら死ぬのを許します。
僕は衝動的に紙を拾い上げてポケットに突っ込み、机の引き出しから買い溜めていた睡眠導入剤入りのビニール袋を掴んで階段を降りた。玄関で父と遭遇した。
「こんな時間から何処へ行くんだ」
「コンビニ」
適当に答えて外へ走り出した。
最期の場所は、晴れた夏の朝の、綺麗な森林風景を思い浮かべていた。
こんな湿気の多い梅雨時の夜に、何の準備も無く近所の神社に走るなんて思いもしなかった。
すぐに行ける人気の無い場所は、神社しか思いつかない。
3年前の通り魔事件はバレている。
僕の個人情報や行動は筒抜けだ。
生きたいと思う今なら死んでもいい。
いや、死んで欲しい。
もし、死なないのなら……。
あの時のギラリと光ったホイールが目の前に迫る。
完全に復讐されている。
地元の小さな神社は小高い丘の上にある。参道脇に青白い街灯が1つだけ灯っていた。
街灯の光が届かない場所にベンチが設置されている。
僕はそこに倒れ込むように座ると、息も整わないままビニール袋の中から睡眠導入剤を取り出して1箱飲み切った。
衝動的に来たものだから水も無い。鞄もスマホも置いてきた。死に切れなかった時の為にと用意していた首を吊るロープも忘れた。
衝動的に行動するとロクな事がない。
医者が処方した睡眠薬ではないし、神経が昂ぶっているせいで、1箱飲んでも意識に変化があるのか無いのか、わからなかった。
どうした、もっと飲めよ。
このまま人生をクローズすれば、事件が明るみに出ても、恥ずかしい思いや辛い思いをしなくて済む。
手の平に十数個ある錠剤を口に放り込もうとするけれど、出来ない。
「くそッ」
錠剤を地面に叩きつけた。
僕はいつの間にか、閉じこもっていた洞窟から歩き出してしまったのだ。
黒く大きく固まっていた洞窟。今は溶けて小さくなってしまった。それに、とても遠くに置いてきた気がする。僕は忘れられていた場所に辿り着いた。自分の中に隠されていた扉を開けてしまったのだ。
もう戻れない。
僕は死ねなくなっていた。
本当は生きたいんだと本心に気付いた。
放心状態で座り込んでいると、霧のような雨と冷気が漂ってきた。
今年は梅雨寒だ。
社、参道、ベンチも、植木や、側に生えている雑草、僕の全身も全てが冷たく湿っていく。暗闇の中、街灯の光に雨の粒子が、まるで吹雪みたいに舞っている。
しばらくして、何かがそっと近づいて来る気配がした。
猫だ。
僕が落とした錠剤に鼻を近づけている。
「駄目だよ」
慌てて猫の目の前にある錠剤を拾った。腹を空かせているのか、次の錠剤を探して鼻を近づける。
「駄目だって」
自分を終わらせる計画は、自分で撒いた錠剤を拾って回るという間抜けな結果に終わった。
僕が地べたを這いずり回っている間、猫はじっとして動かない。
暗がりにいるのでよく見えないけれど、成猫より少し若い感じがする。
頭に何かついていると思ったら怪我をしている様だ。
「お前、お腹空いてる、よな」
何もないのにポケットを探っていると、尻ポケットから交通系ICカードが出てきた。確か千円以上、残っているはずだ。
「待ってろ」
急いでコンビニへ走ると、まず、睡眠導入剤と西町子からの手紙を一緒にしてゴミ箱に捨てた。それから、自分の飲料水と、ウエットのキャットフードを購入した。
神社に戻ると猫はベンチの下にいた。
街灯下のコンクリートにウエットフードを出してやると勢いよく食べ出した。
明るい場所で見ると、茶トラだった。痩せている。首まわりの毛がへこんでいるのは首輪の跡だろう。きっと捨てられたのだ。
保護してやりたいけれど、一時的にでも家に置いてやることは出来ないし、どうしたものか悩んだ。
不意に、カン、カンと何かが柵を打つ音が聞こえた。この神社は周りを木と柵に囲まれていて、柵の向こうは散歩道になっている。
黒い影が2、3、凄い勢いでこっちに走って来た。猫だ。この神社は数匹がねぐらにしているらしい。
散歩道に人影が見えた。その格好から石を投げているとわかった。
茶トラも異変を察知して逃げていった。
頭の怪我の原因に思い至って、僕は怒りに任せてその人影に突進した。
「止めろよ!」
人影は、うっと声を上げると慌てた様子で自転車に乗って行ってしまった。
柵の土台に竹輪や焼き鳥が散乱している。
おびき寄せてから狙い撃ちしていたのだ。
周りを見ると「猫に餌をあげないで下さい」「餌をあげたら罰金100万円」などの看板やポスターがあった。
ここは猫紛争地帯だった。きっと、だいぶ前から、餌の食べ散らかしや、糞尿被害などの実害が出ているのだろう。
猫を捨てたら罰金100万円の間違いだ。好きでこんな所にいる訳じゃない。
僕はイライラしながらも残っていた竹輪や焼鳥を片付けた。
猫を良く思わない人間の仕業であるのは間違いない。けれど、それ以上にあの人間が、自分の憂さ晴らしの為にやっている気がした。
憂さを晴らすなら、それを与えた相手にすればいいのに。
そう考えて、僕もそれが出来なかったのを思い出して苦笑した。敵わないのだ。上から押さえつけられて逃げる事も出来ない。人間には、そういう心理になると、別の対象を見つけて攻撃し、自分を助けようとする仕組みがあるのかも知れない。
相手の事情も顧みず、自分の負の感情を撒き散らす点では僕も同じだ。非難する資格は無い。
僕が危害を加えた人間は誰なのか、誰に復讐されているのか。
知っておくべきだし、謝らなければいけないと、この時、初めて思った。
翌日、目が覚めると昼の12時を過ぎていた。
さすがに睡眠導入剤が効いたのか頭が重く、ぼーっとする。机の上に昨日のまま置いてある、西町子から送られた新品の旅行案内と封筒が目に入った。
僕は着替えると大学ではなく、地元の図書館へ直行した。
過去の新聞記事を探す為にパソコンの前に座る。3年前のゴールデンウィーク、通り魔と入力し、検索をかけた。
パソコンの前に2時間はいただろうか。
足元に置いた鞄に入れているスマホのバイブで我に返った。
充からのメールだった。
今日のサークルに来るのか聞いている。
昨夜の茶トラを相談するつもりだった僕は、ようやく席を立った。
頭の中が混乱していた。
検索して出てくる該当記事は一つ。
かなり大きな見出しだった。
僕の家は新聞を取ってない。家族がこの事件を話題にしていた記憶もない。関心がなければ誰も気にも留めないだろう。
『通り魔か。一人軽傷、一人死亡。ピアニスト沢田遼(さわだ りょう)さん(32)腕を切られる。午前5時頃、「男装の令嬢」で知られるピアニストの沢田遼さんが自転車に乗った男に右腕を切られ、病院に搬送された。』とある。
『軽傷で命に別条は無く、この日は予定通り、大阪でコンサートが行われた。』
まさかピアニストだとは思わなかった。しかも、男装して演奏するらしい。それはさておき、怪我の具合は軽傷だと確認出来た。問題なのは、この後に続く記事だ。
『同日の午前6時頃、主婦でパート勤務の水越明子(みずこし あきこ)さん(49)が、背中にサバイバルナイフが刺さった状態で路上に倒れているのを通行人が発見し、病院に搬送されたが、死亡が確認された。場所が近い為、警察は関連性があると見て捜査している。』
サバイバルナイフって何だ。
僕じゃない。
そう思って、何度も検索し直したけれど、日付け、場所、時間で合致するのはこの記事しか無い。
追いかけてみると、水越明子の持っていた鞄に、沢田遼の血液が付着した傷があり、警察は同一人物による犯行と断定したらしい。けれど、目撃者が無く、防犯カメラの無い住宅地の路地だった為、捜査は難航しているという。これを最後に関連する記事は途絶えてしまった。事件から3ヶ月後の日付けだった。
警察の捜査が難航しているのに、どうやって僕に辿り着いたのかは、わからないけれど、復讐しているとしたら、水越明子の遺族だろう。
こうなると自首するのに余計、抵抗を感じる。
警察は、遺族は、僕の言い分を信用するのだろうか。
悪意を持って切りつけたのは否定出来ない。鞄の傷だけじゃなく、電柱にも激突させてしまった。遺族にしてみれば、僕が刺されるキッカケを作ったと考えるだろうし、殺したも同然だろう。
僕が襲った直後に水越明子はナイフで刺された。待ち伏せでもしていない限り、こんな事は出来ないはずだ。
つまり、計画的に狙っていた。
僕が突然来たから、計画が狂って驚いただろう。けれど、それを逆手に取った。僕の犯行に見せかければ、自分は表に出ない。予想通り、遺族は僕の犯行だと思い込んで復讐しに来ている。
どうする。どうすればいい。
答えが出ないまま保護シェルターに到着した。
「要くん!大丈夫かい?」
充をはじめ、隆史も皆、僕が事務所に現れなかった事を心配してくれた。
代表の井上舞はバイトでいなかったけれど、会長の郡司さんがまだ残っていたので、僕はダメもとで昨夜の茶トラの相談をした。
かかる費用は全て僕が出すつもりだ。動物を保護する場合、お金の他にも場所が問題になる。
「その神社なら他のボランティアが入っているはずだけど、そう。そんなに危険な場所なのね。保護してやれたらいいけど、今、ここは一杯だからね。どうしようか」
郡司さんはスマホを取り出すと、何やら他のボランティア団体と相談を始め、最終的に、茶トラ一匹分だけは、一時預かりボランティアが見つかり、保護と治療と避妊去勢手術をするところまで話が進んだ。
他の猫については、神社に入っているボランティア団体の空きが出たら、順次保護する見通しとなった。
郡司さんに僕の気持ちを汲み取ってもらえて嬉しかった。安堵すると同時に急に腹が鳴って、空腹だと気付いた。そう言えば起きてから何も食べていない。
「要くん、ラッキーねえ。今日は丁度、差し入れがあるのよ」
以前、TNR活動をした地域で、住民がお礼にとお菓子を差し入れてくれたらしい。溝口さんが勧めて、香音がわざわざ僕に持って来てくれた。
大きな固い煎餅だった。煎餅を噛みしめながら僕は、この場所を手放したくないと強く思った。心から大切な場所だった。それだけに自分の過ちが悔やまれる。
この時、僕はまだ、崩壊の予兆を感じ取れず、ただただ、皆の優しさに浸って自分を慰めていた。
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