第9話 景色
翌日の日曜日、昨日の五月晴れとは打って変わって湿気の多い、ひんやりとした朝だった。
天気予報は、今夜から雨が降り出し、今週にも梅雨入りするだろうと告げていた。
眠れなかった僕は、この日は1番に保護シェルターに到着した。最近の休みは、図書館ではなく、保護シェルターへ向かう事が多い。
阿久津が預かっている豆柴、慎二が来るまで犬係りとしての仕事はないので猫ケージの掃除をして回る。
因果応報……。
この四字熟語が頭から離れない。何だか出来過ぎだ。得体の知れない不安が付きまとう。
本当ならここで不安と向き合うべきだった。この時の僕にはそれが出来ず、不安に蓋をして、従来通り、閉じる事、関心を持たない事で逃げ切ろうとした。
にゃーにゃーと猫の大合唱が始まる。そろそろ朝ご飯の時間だ。ケージを掃除している間、室内で自由にさせている猫の中には、僕の足に頭を擦りつけて来るものもいる。可愛いし、癒やされる。僕は犬派だけれど、最近は猫も可愛いと思う様になった。
「お早う。要くん、早いわね」
一心にケージ掃除をしていると、川田雅美と他のメンバーがやって来た。
「お早うございます」
「要くん、毎週来てくれて有り難いけど、バイトしてないの?」
川田雅美もマスクと手袋をして残りのケージの掃除を始めた。他のメンバーは猫の食事の準備に取りかかる。個体によってはエサに薬を混ぜるものもあるから確認しながらの作業だ。
「はい」
「凄い。じゃあ、奨学金も借りてないの?」
「借りてません」
「学費は全部ご両親が払ってるのね。素敵なご両親ね。ウチなんか大学行きたいなら自分で払えって言ったのよ。まあ、結局、出してくれたけど、もう、本当に学費だけ。他にも色々かかるのに、一切出してくれないんだから。卒業式の袴のレンタル代もこれから稼がなきゃいけないし。私は恵まれてる方だけど、他の子はもっと……」
雅美の話は延々と続く。
素敵な親か。
こんな言葉を聞くと気分が悪くなる。けれど、確かにお金に関して言えば、「素敵な親」と言ってもいいかもしれない。
親の新しい一面を見た気がした。
何しろ未だに小遣いをもらっている。夏までの期間限定だけれど、雅美に言ったら羨ましがるに違いない。嫌いな親から小遣いをもらう自分も嫌いだけれど、稼ぐ手段も能力も無いのだから、どうしようもない。
充が紹介してくれる短期バイトが実現したとしても、自分が適応できるのか、正直不安だ。
昨日の浮かれ気分から一気に現実に引き戻されてしまった。
これでは夏以降も生きられる訳がない。計画は続行するべきか。
「お早うございます」
隆史が入って来た。
今日はボランティアで診察をしてくれる獣医に、ワクチン接種が必要な猫5匹と、治療が必要な3匹を連れて行かなければならない。いつも車を出している団体会員の溝口さんは用事で来れず、井上舞、充もバイトの為に欠席、今回は川田雅美と、春休みに免許を取ったばかりの隆史が車を出す予定になっていた。
隆史はお祖父さんに車を借りて来るので少し遅くなると言っていた。隆史の車には5匹を乗せる。
年代ものの灰色セダンの後部座席にブルーシートを敷き、猫を入れたキャリーを運び入れる。打った肩が痛んだ。
「顎どうした?」
マスクを取ると隆史に顎の傷を指摘された。
「転んだ」
「マジかよ」
まだ足元がふらふらする歳でもないだろうと隆史が笑ってエンジンをかけた。
僕は最後の1匹を入れたキャリーを抱えて助手席に乗り込み、エンジン音を聞いてふと思った。
あの車、ガソリン車ではなかった。
ハイブリッドで、色は黒か紺、車種は多分ミニバン。日本中にありふれている。
「充さんからメール来た?」
再び昨夜の通り魔に考えが行きそうになった時、隆史が聞いてきた。
「まだ見てない」
と言いつつスマホを見ると、充から、風邪を引いてバイトを早退、明日も休むとメールが来ていた。
「俺、明日も車出さないと」
「お祖父さん、近所に住んでるの?」
「うん。隣り町」
隆史は一人暮らしだ。下宿すれば一人で夕飯を食べる事も無いだろうに。
そう言えば、車を借りるとしたら、まず、親に聞くのではないだろうか。隆史の実家は何処なんだろうと思い、聞いてみた。
「大阪」
ちょっと驚いた。隆史はわざわざ関東地方のこっちに引っ越してきた訳か。
「大阪弁、全然出ないね」
「3年いるからな」
隆史は細い目の瞳だけ僕の方に動かした。
「ウチはちょっと複雑でね。俺と父親はソリが合わなくてさ。家を出たワケ。爺さんの家に下宿して高校行って、大学入学したから一人で暮らしてみろって」
隆史は一人っ子で、父親の命を受けて中学を受験した。合格したけれど、命令される日々に嫌気が差して反抗し、中退寸前だったそうだ。
話を聞いた母方の祖父の計らいで、荒れた日々に終止符を打つべく、環境を一新したという。大阪弁が出ないのは居住年数による慣れだけでは無い気がした。
「親には会ってない?」
「いや、長期休みごとに会ってる。母さんの実家がこっちだから、向こうから来るよ。一緒に住んでない方が上手く行くんだ。観察してると面白いぜ。父さんは外面が良いから、外じゃ絶対にいい人を崩さないしな。こっちも嫌な思いはしないし。今が丁度いいと思ってる」
親を客観的に見る、か。自分の両親の事を思った。今までの主観とは別に冷静に観察したら二人はどんな人間なのだろう。
「時間と余裕があったら、夏は同好会で大阪に行こう。家に泊まればいいんだし、俺が観光ガイドするよ」
動物病院に到着し、慎重に車を駐車場に停めてから隆史が笑顔で言った。
「そうだね」
そう言ったものの、夏にはこの世からいなくなる予定にしている僕は言葉が続かなかった。
ワクチン接種が終わった猫達をシェルターに戻し、隆史の激励を受けてから香音と待ち合わせている駅近くの映画館へ向かった。
見た映画は香音のイメージからかけ離れたバイオレンスアクションだった。
好きな俳優が出ているけれど、一緒に映画を見てくれる友達がいなくて困っていたと言われた。僕はちょっと落胆したけれど、時間を共有出来て嬉しかった。映画が終わって外にでると、偶然、弟のカップルと出くわしてしまった。
「兄さん」
司は余程驚いたのか、口をあんぐりと開け、目を見開いたまま立ち尽くした。
僕も驚いたけれど、小さく手を挙げるだけで立ち止まらずにその場を去った。
「え、要くんの弟なの?全然似てないね」
香音は後ろを振り返って屈託なく笑った。そして、この後バイトがあるからと駅の改札へ消えて行った。どういうつもりか来週、一緒に水族館へ行く約束をしてくれた。
香音と映画へ行った話はその日の内に母へ伝わった。
「要、良かったわね」
母は嬉しそうにしている。彼女が出来たと勘違いしているのだろう。母の中で明らかに僕の評価が上がっている。自分が下す評価ではなく、他人の評価で見方を変える。何だか白けたけれど、僕も似た様な事をしていた。川田雅美が言わなければ、両親に対する感想は変わらなかった。
父、堀 克行と、母、堀 真紀子は似た者同士で物事を深く考えない。ポジティブで僕とは大違いだ。僕はどうして似なかったのだろう。
日曜日の夜からしとしとと降り始めた雨は、降ったり止んだりしながら水曜日まで続いた。肌寒く、外出する際は上着が必要だった。
大学キャンパス内を移動していると、充を見つけた。
マスクをして時折咳込んでいる。両手には本を抱えていた。
「充さん、もう大丈夫なんですか」
「あ、要くん。昨日はありがとう」
昨日、僕は心理学科の人からノートを受け取り、充のマンションまで届けた。ノートを貸してくれた人はこれからバイトがあると言っていた。皆、忙しいのだ。
充のメールには、ページ数が多く、スマホの写真で送ってもらうのも大変だから、出来れば届けてもらえないか、無理する必要はないけど、とあった。
サークル活動後、隆史に途中まで車で送ってもらい、マンションへの道を歩いていると、僕が通っていた予備校の支店から女子高生が出て来て進む方向が同じになった。
充の妹だった。
気付いたのは僕が充の部屋の郵便ポストにノートを入れようとした時だ。妹も郵便物をチェックしようとしていて僕の存在に気付いた。僕は妹さんにノートを託して帰宅した。
充も妹と同じ予備校に通っていたそうだ。地域は違うけれど、僕も充と同じ時期に同じ予備校に通っていた事に妙な縁を感じた。
「今日、サークルは出ますか?」
「ごめん。今週は無理かも知れない。バイトしないと収入が厳しいから。そうだ、要くんも今週からどうかな。会社からも紹介しろって言われてるから」
充はそこまで言うと咳込んだ。丸眼鏡が曇る。僕は充の本を持ってやった。
「ありがとう」
お礼を言うのは僕の方だ。今週末には同好会の発足記念で和也も一緒に博物館巡りへ行く予定になっている。来週は香音と水族館へ行くし、加えて毎日の昼食、夕食代を考えると、今まで使い残して溜まっていた小遣いを足してもお金が足りない。
働くのに不安は尽きないけれど、充が一緒なら心強かった。
充の紹介で、金曜日から約1週間、17時から22時まで働く契約を結んだ。隆史も、何故か阿久津も一緒だ。
井上舞には事情を説明し、了解を得た。縛りのゆるいサークルで助かった。
川田雅美は僕の経済状況を羨んでいたけれど、隆史は免許も一人暮しの費用もお祖父さんに出してもらっていて、バイトもしていなかった。隆史の家に比べたらウチはそこまで余裕はないのだと思った。
バイト先は家族経営で、システム化の遅れた古い小さな運送会社だった。充は2浪中もずっとここで働いていたという。2浪の原因は不登校から始まった引きこもりだったと打ち明けられた。
中学に入って最初は体型いじりから始まり、やがていつもからかわれる様になる。腹痛、頭痛、不眠の症状が出始め、不登校気味になる。精神科医に処方された薬を飲むも、根本的な解決にはならず、体調は徐々に悪化し、家から出られなくなり、薬の種類も増えていった。
何とか高校に受かって、環境が変わっても、体調不良や不登校が続き、中退してしまった。そんな時、別の精神科医に出会い、考え方のクセを治す認知行動療法を行うと、これが充に合っていたらしく、薬を飲まなくても日常生活が送れるようになり、体調も戻ってきたそうだ。
この経験から充は精神科医を目指そうと決め、定時制高校に入り直し、この春、大学にやって来た。
と言っても、遅れていた勉強をやり直しながら、費用を工面する為に働くのは容易ではなかったと言った。
「ここの社長は僕の父の知り合いなんだけど、いい人で、僕のペースで仕事を覚えさせてくれたんだ。要くんは僕よりずっとしっかりしてるじゃないか。すぐに覚えられるよ」
充はニコニコ顔で励ましてくれた。
「……うん」
充の笑顔に絶望を乗り越えた色が入っているのに今、気付いた。
充も、多分、隆史も僕と同じ景色を見てきたのだ。
家が嫌いで引きこもる事も出来ず、小心者故に荒れる事も出来なかった僕は、知らない誰かを怒りの対象に見立てて傷つける事しか出来なかった。
絶望への対処法では、僕と、充と隆史の間に埋めようのない溝を感じた。彼らには助けてくれる誰かがいた。僕にもそういう人がいて欲しかった。
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