第3話 入口

 部屋のドアを閉め、これから本の中に現実逃避をする準備として、机の引き出しからストックしてある菓子とジュースを出す。菓子と同じく買いだめた市販の睡眠導入剤の箱がガサガサいう。

 今日、図書館で借りてきたハイキングの本と乗り物図鑑を机の上に並べ、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 必要最低限の物だけが置かれた殺風景な部屋。壁の白さがやけに眩しい。春休みに入ってすぐ、部屋にあったものは卒業アルバムも含めてほとんど捨てた。

 強風に煽られた雨粒が窓ガラスに当たってバチバチと音を立てる。

 3年前の出来事が思い出される。

 夜中の2時頃だった。目が覚めて、いつも通り二階のトイレで済ませ、自室に戻る時、一階で笑い声が聞こえた。両親はまだ起きていて、晩酌をしている様だった。ふと自分の名前が出た気がしてドキリとした。少し、階段を降りて聞き耳を立てた。詳しい内容は忘れたけれど、「失敗」の話をしていて、それは僕の事だとわかった。

 僕の事をバカにしていた。笑っていた。

 すぐに自室に戻ったけれど、その後は体が熱くなって眠れなかった。

 早朝、4時頃だと思う。無性に暴れたくなった。脳から溢れ出る得体の知れないエネルギーを出してしまいたい。それには大声を出すか、体を動かすしかない。もし、ここに銃があれば、間違いなく引き金を引いただろう。けれど、一人、静寂に包まれた部屋にいると、それを破る事が出来なかった。

 僕は制服に着替えた。

 元々、この日は写真部の活動で、自然の被写体を求めて県内の大型公園に現地集合する予定になっていた。微かに雨音がしたので、カッパも掴んで外に出た。

 それから、気持ちが落ち着くまで自転車で彷徨った。最終的には事件を起こしてしまう。

 ここまで思い出して、僕は思考を停止させた。

 もうやめよう。終わった事だ。

 部屋が異常に寒いのに気付いて暖房のスイッチを入れる。カーテンを閉めようと窓に近づくと、風雨に煙る闇夜の中にも家屋やマンションの灯りが光り、高層ビルの航空障害灯の赤い点滅が冴えて見えた。

 あのビルでは4年前に飛び降り自殺があった。

 僕も一時期、同じ事を考えて実際にあのビルまで行ってみたけれど、見上げただけで足がすくんでダメだった。

 最期の場所で今のところ有力なのは、どこかのハイキングコースだ。そこから外れて静かなところで、と思う。

 季節は夏がいい。早朝のよく晴れた日がいい。春は嫌いだ。暖かくなったと思ったら、急に寒くなる。変化に付いていけない者を嘲笑うかの様だ。

 翌朝、一時的に雨が止み、空はどんよりとした灰色の雲に覆われていた。テレビの天気予報は、今日は一日中雨が降ると伝えている。

 そんな天気にお構い無く、母は新調したスーツに身を包み、美容院で髪もセットして上機嫌だ。通常なら、バス電車バスと乗り継いで大学へ向かうところを、億劫だからマイカーで近くまで行き、徒歩でキャンパス内の会場へ行くと言い出した。

 本当なら自転車でも通学出来る距離だけれど、僕の場合、夢の一つであるバス通学を叶えたくて、バスで行く事にこだわった。

 珍しく僕が抵抗したので、意外そうな顔をしていたけれど、何だかんだでやはり、母の言う通りになってしまった。

 車中、母は例の従姉の入学式や、仕事先の友達の子供の進路について、一人でずっと喋っていた。

 車の外に目をやると、沢山の桜の花びらが水溜まりに花筏を作っている。昨日の風が折角咲き誇っていた桜を散らせてしまったのだろう。

 大学に着く頃になると、天気予報に反して空が明るくなり、日まで差してきた。校門の辺りが何やら騒がしい。

 サークル活動の勧誘だ。

 入学式の会場まで、新入生が通る両脇を、在学生が列を作ってチラシを手渡している。看板を持ってアピールしている学生もいる。

「楽しいわね」

 母もチラシを受け取って会釈している。僕も興味はないけれど、目の前に来るものは数枚受け取った。フットサル、テニス、旅、ボランティア等々。

「ちょっと待ちなさいよ。まだ時間があるし、話を聞いたらどう。」

 速足で移動する僕に母が声を掛けた。

 僕は無視した。人混みがあまり得意ではないので、早くこの場を去りたかった。

「ねえ、聞いてるの?」

腕を引っ張られた。

「トイレに行きたいから」

 僕は腕を振り払って先を急いだ。

「ほんと、つまんない子」

 母が小声で吐き捨てる様に言ったのが後ろから聞こえた。

放っておけばいい。ここから先は新入生と保護者とで席が別れる。式典の後は別室に移動して、オリエンテーリングがあり、学生証の発行や、今後の日程の説明、クラス分けの為の英語テストなどがあるから、母とは別々に帰宅する。しばらく話す機会はないだろう。

 入学式が終わると、外は雨が降り始めていた。色とりどりの傘が次の会場まで続いている。サークル勧誘は朝より活気づいていた。

 立ち話をしている集団を避けるのに一苦労していると、肩をぐっと掴まれた。振り向くと、僕と身長が同じくらい背が高い、やや色黒の、活発そうな女子学生が傘も差さずに立っていた。顔を見た一瞬、何か変な感じがした。

「ボランティアサークルのワークルです。よろしくね」

 さっき貰ったと言えないくらい、素早くチラシを押し付けられた。

「私は代表をしている井上です。ボランティアだけじゃなくて、皆でスポーツをしたり、色んな活動をしていこうと思っているの」

 早口でまくし立てる様に話す。そして、念を込めた目をして言った。

「クラブ棟の一階に事務所があるから、来てね」

 僕は取り敢えず「はあ」と頷いてその場を去った。

 気のせいかもしれないけれど、井上と名乗った女子学生の視線を、背中に痛いほど感じた。

 入学式から数日たって、大学全体が落ち着きを取り戻し、通常授業が始まった。

 文学部の授業は意外にも楽しく、興味を引くものがあった。これなら3ヵ月は持ちそうだ。

 当初、理系志望だった僕がこの大学に受かったのは奇跡と言っても良い。

当時は志望大学に全て落ちて自暴自棄になっていたから、3月末までに受験出来る大学があるなら学部、学科はどこでも良かった。

手当たり次第に受けて、最初に合格したここに入学した。

 今日の授業は古事記だった。予習しておくように言われてスマートフォンで予備知識を仕込んだ。神話集であり、日本最古の歴史書でもあるという。習っているはずだけれど、初めて知った気もする。

 僕の通っていた高校では、2年生から文系、理系に分かれるので、私立理系コースを選択すると古典と日本史は1年生で終了してしまう。

 古事記に登場する神様は多数いても、僕に馴染みがある名前はゲームキャラクターとしてのスサノオ、アマテラスくらいだ。

「神様」は、静かで動じないイメージがあったけれど、とても感情的というか、人間味溢れる物語が多くて、驚くと同時に面白さも感じた。紹介する教授のやり方が上手いのかも知れない。

 授業が終わって10分程過ぎた小講義室にはもう誰もいなかった。今日、この後は必修の授業を受ければそれで終わりだ。今日も誰とも話さずに学生生活が終了する。

 僕は高校の頃に比べて孤独に拍車がかかっていたけれど、開放感があって心地良かった。

 高校までは毎年約35人前後いる「クラス」という枠の中で、いかに生き残るかというところに集中していた。

 運動会、音楽祭、文化祭、他にもクラス対抗のスポーツ週間などがあり、嫌でもクラスの連中と話さなければならない。

 クラス団結、という時期もあれば、進学時期には友達であってもライバルという状況になる。それを楽しめる人間ならきっと、楽しい青春の思い出になるのだろう。

 僕はと言えば、クラスではなるべく目立たない様に、けれど落ちない様に自分の位置を保っているのに必死だった。

 いじめも何度か見た。僕も危うくその対象にされそうな時もあった。けれど、なんとか切り抜けて今まで生きてきた。

 あの圧迫感を思うと、大学は自由だ。クラスで話したのは最初の自己紹介の時だけ。あとは各自、気の合う者同士で行動したり、サークル活動に勤しんでいる。

僕は夏までゆっくり、最期の時を過ごすつもりだ。

 8月とは思っていたけれど、最近、天候が落ち着いている。暖かい日が続いて初夏を思わせる日もある。このままならゴールデンウイークあたりに実行してもいいかと思いながら講義室を出た。

「あ、いたいた、そこの君!」

 廊下に出た途端、前方から歩いてくる小柄な金髪男子学生に指をさされた。ニヤニヤしながら近づいて来る軽そうな男を見て一瞬、自分がさされたのでは無いと思った。けれど、僕の後ろに他の学生はいないから、声を掛けられたのは僕のはずだ。

「初めてまして。俺は経済学部1年の阿久津と言います」

 よく見ると、片方の耳にピアスをしている。今までこんな種類の人間には関わった事が無いので話し掛けてくること自体に驚いた。

同時に何かイヤな記憶が甦りつつあった。この胡散臭い感じは何処かで経験した事がある。

「えーと」

 金髪男は急に考える様な仕草を見せて「名前は?」と聞いてきた。

「……堀です」

 答えない訳にもいかない。

「堀君、まだサークル決めていないね?ウチは今、人がいなくて困ってましてね。どうかな?」

 何だ、サークルの勧誘か。まだやっているのか。

 僕は合点がいって改めて金髪男を見た。

 この軽そうな感じが似ている。中学の頃、僕を体育館裏に呼び出したヤツに。

 僕が市内の公立中学に通い出してすぐ、同じクラスの賑やかなタイプの小柄な男子から、相談があるから体育の授業後、体育館裏に来て欲しいと言われた。

 ジャージ姿で指定された場所に行くと、別人が待っていた。どうしたのと声を掛ける間もなく、その別人に、いきなりジャージのズボンを下ろされた。

 何が起きたのか分からなかったけれど、後ろから「カシャ」という音を聞いた途端、一瞬で状況を理解した。

 僕はすぐさまズボンを引き上げるのと同時に無意識に右手が出て、目の前の誰だか知らない同級生が左に吹っ飛んだ。振り返ると、呼び出した小柄な男子がスマートフォン片手に呆然と立ち尽くしていた。僕はそれを奪い取って地面に叩きつけ、思いきり踏みつけてからその場を去った。

 以来、仕返しされた時の為にと護身用のカッターを持ち歩くようになった。

 その後、奴等から嫌がらせがあったかと思い返してみたけれど、記憶が無い。おそらく、逆に奴等から僕が危ないヤツ認定をされて、無視されていたのかも知れない。




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